.イチ / 十五歳。
仰ぐ空は、淡い青い空だった。
限り在る、果ての見えそうな空。
人類が全員参加の、罰ゲームみたいな戦争に喘いでいたころ。
僕らはただ、約束を交わした。
僕は、ただ、約束を、交わしていた。
幼いながらの、困惑を隠して。
想いは空へ、還れば良い。
【 イ チ / 十五歳。 】
僕が生まれる少し前から、『世界』は拗れて、変貌を遂げて行ったそうだ。勿論、僕の生まれる前なので僕は知らない。物心が付いたときには、もう現今の[形]になっていたから。
もともと、あんまり仲が良くなかったのだろう。歴史の授業で習っていたときそう思った。だから、何となく現状をすんなり認識してしまっていた。……納得は行かない。理解した、だけだった。
『世界』は今、戦争の真っ只中だった。この国は別にどこの国とも仲良くなければどこの国とも仲違いしていた訳でも無かったんだけど。規模の大きな戦争に加勢するしか無かった。技術力とか、そう言った分野で良くも悪くもこの国は先陣を切る程優秀だったからだ。
敗戦国だったこの国は、昔の戦争で負けているゆえに率先して舵取りすることは無いけれど。みんな科学者やら技術者やら連れて行かれて他国で開発とかしているから国土そのものが戦場になる因子は無く平和、だけれど。
「───」
僕の昼はたいてい一人、人気の無い場所でひっそり行われ終わる。あるときは屋上、あるときは屋上に続く階段、あるときは……。群れるのは基本的に好きじゃないんだ。友達はいるけれど、わざわざいっしょに飯食おう、とはならない。所詮『似た者』で『類友』だから、断っても相手は気にしないし。声は掛けてくれるけれども。時たま諾々と従うことも在るけども。
そうして、僕のお昼は現在の形態を成した。今日は、体育館の裏手の出入り口前に一人だった。体育館自体はこの時間帯は人気が無かった。教室から遠いからだ。何をするにも準備や集合の号令が教室で行われる。各学年の教室からすぐ見下ろせるところには中庭が在って、運動とか食後にしたい連中はそこを利用するのも、一つの理由だろう。ここは校舎とを繋ぐ通路の脇を少し行って回ったところに在った。
日陰だが夏の時分は丁度良く、学校で何か撒いているのかもしくは吹き曝しで尚芳る火薬の匂いのせいか、虫もいない。端末をいじりミュージックプレイヤーを起動させつつ僕はパンをビニール袋から取り出し包装を破った。
ふと眺めた青い空は、まるで絵の具を塗ったあとの絵筆を浸した、水受けのバケツの水の色だった。こんな空を共有した場所で自分と同じ人種が戦争に荷担しているなんて、この空並みに現実味が薄い。『世界』の様変わりには逆らえなかったんだろうな、なんて。
日々移ろう葉の色にぼんやりパンを銜えて考えていた─────ところだった。
「────うらっ、立てよ!」
……“平和”って、良い言葉だよね。突然の怒号に僕は耳に挿していたイヤフォンを外した。繋げていた端末機器も電源をオフにする。そっと振り返り壁越しに覗いた。途端に肩を落とす。微かに顔も歪む。溜め息も連動して、出た。
「どうしたんだよ、ビビってんのかよーっ」
「情けねぇ。男だろぉ? ちったぁ抵抗してみろよぉ」
チンピラだ。チンピラがいる。僕と同じ格好のチンピラが。
多数が単数を囲んでいた。単数は地に伏している。多数はそれを嘲笑っている。完璧な、暴行現場だった。いつから始められていたんだろう。容赦なく蹴られる単数────被害者は、かなり泥だらけだ。
……僕にどうしろと。口に銜えたままのパンを取った。噛み千切ったパンをもごもご咀嚼する。パン屋からの直送を謳っているだけ有ってこの焼きそばパンは人気に間違いの無い味だった。飲み込んで、再度見返す。あぁ、と落胆した。どうせなら、同級生とか同学年の争い事で有れば良いのに。そうならば、僕はまだ、何とか上手くやり過ごせる採算が在った。
残念ながら作業着とも呼べる通常着の袖のラインは、被害者が僕の一つ上、加害者が全員二つ上の色を示している。どう考えても、最低学年の僕の上の人たちだ。
暴力沙汰なんて正直、関わりたくないんだよね。学生の時分くらいは。
どうせ高等学校を、軍事学校を、卒業して召集が掛かってしまったら、嫌だって暴力を振るいに向かうのに。
現代、小中学校は統合して『義務教育育成学校』となり高等学校はすべて軍事関連の『兵士・幹部養成学校』のみとなった。初等生、七歳から十二歳までは普通の教育、主に世界史で社会などを中心に勉強しながら、協調性とか笑ってしまうが道徳を習う。中等生、十三歳から十五歳までは初等部の普通教育に加えてだんだん軍事訓練などが入って来る。中等部三年生なんてもう殆どシミュレーションが主流になっている。そして今僕のいる高等学校、高等生は十八歳までほぼ訓練ばかりになる。普通教科も在るには在るが、この段階まで来たら普通の成績優秀者より模擬戦や格闘戦の戦績優秀者のほうが持て囃されるのは自然の成り行きと言うか。実践学習が基礎のせいか校舎も寮も山の中に在ることが多く僕の学校とて例外ではなくて。
当然、娯楽からも遠くなる訳で。
「生き抜くためだ」と、口を揃えて大人は言う。子供たちは皆、鼻でその文言を嗤う。
……だから鬱憤が溜まるのは仕方ないし同情もするのだけど、いじめは格好悪いでしょ。ましてや“下級生いじめ”だ。でもこの年で「いじめ格好悪い」と面と向かって主張することが正しいなんて、絶対思わないし。だってそんなこと出来るのは、余っ程腕に自信が在るか単なる莫迦だ。
さて、どうしようか。僕は結構な『事なかれ主義』だと自負している。この風潮は僕の国のお家芸と言って良い、と勝手に思っているのだが。この辺については釈明もしなければ侮蔑に罵られても甘んじて受け入れる覚悟は在る。端末のディスプレイを見やる。……昼休み、終わるじゃないか。また、嘆息。
校舎に戻るには、この体育館は離れも同然の場所に建っていて、ぶっちゃけ未だ終わらない暴行現場を通らなければかなり遠回りになる。それだけじゃない。どれだけ遠回りを選んでも、たとえば体育館と校舎で囲むようになった校庭とは到底呼べない広大な訓練場を突っ切ったとしても、あそこにいる彼らからは丸見えで、僕がここにいたことがバレないと言えない。
あぁ面倒臭っと口の中で舌打ちをしていたら加害者たちが疲れたのか砂埃が止んでいた。そりゃあ、あれだけ無駄な体力を一気に使っていれば疲れもするだろう。チラ見でわかる程だ。不意に僕の目から被害者をしっかり細かに視認する機会を得た。好機と呼ぶかは別として。だが。
「……え……」
僕の声は小さく食み出た。瞬時に加害者たちに聴かれてやしないかと鼓動が強く鳴ったが彼らは獲物に夢中らしく蚊帳の外から観察中の第三者へ注意を払った様子は無い。と言っても、僕がこっそり戻ろうとするのを遠回りしても見咎めないとは思えない、が。
僕が考えるのはそんな細やかなことでは無くて。殴る蹴るされている被害者を僕は誰だかわかってしまって、知っている人とも判明して硬直してしまっていた。はっきり明言出来る。知り合いの先輩だ。しかもそこそこな長さの付き合いの。知人だと判別と同時に僕はしかし安堵した。“『あの人』なら大丈夫だ”と。『あの人』なら怪我の心配すら要らない。問題はそこに無い。ここが一番の安堵の部分で。あの人数だとしてもだが。
「……助けるべきか、ねぇ……」
そうなんだ。問題は、ここ、だった。『あの人』と知って尚、自己の不利が強いのに、助けたほうが良いのだろうか悩んでいた。通例なら、助けるのは何とも無くても、むしろ知人である場合余計に、然るべきなのだろうが。僕的には『あの人』が加害者たちに好き勝手させていることが疑問だった。『あの人』でない違う人が被害者なら、疑う余地も無くて仕方なしにでも助けたかもしれないけれど。
『あの人』だからわざとなんじゃないの、とか。思う訳で。だったら僕が間に入る必要無いじゃない、とか。せっかくこの数箇月目立たずいたのに危険は冒さず避けても、とか。言い訳のようにぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ所見を、様々出しては回して拡げ、脳内で職人さながらピザ生地の如く扱っているときだ。
人は、突かれると駄目だと思う。虚でも弱点でも何でも。
「あんたたち! 何してんのよぉっ!」
……はい。僕からしたら、お前が何してんだよ、と。突如響いた声に停止したのは加害者たちだけじゃない。僕も思索のピザが膨らむ前にぶった切られた。『あの人』も吃驚したに違いない。聞き覚えの在る声音は、凛とした名残を持って張り上げられて─────莫迦じゃないかっ? 飛び出そうとした僕の耳に重い音が滑り込む。覗き込むのではない、身を乗り出してきちんと正面から収めた視野に繰り広げられていたのは形勢逆転の構図。
砂塵舞う中、被害者の前に男が一人倒れている。加害者一味だった。その上に片足が乗っていた。細身の影が踏み付けた男を斬り捨てるような眼差しで見下ろす─────影の艶やかな黒い髪が砂煙に靡いた。
「……いい年して、いじめなんて、格好悪っ」
吐き捨てるのは正しい文句、だけども活用方法は正しいとは思えない────やっぱり、莫迦じゃないのか!
「っ、……都香のヤツ……!」
倒れている男に蹴りを食らわせたとき、乱れたらしい長い髪を掻き上げた。華奢な闖入者の伏せがちだった顔が露になる。険しく歪められた顔は、状況には僅かにも似合わない童女の可愛らしさが在った。表現を探すなら、花開く前の蕾の美しさを孕んだ愛らしい造作。着物でも着て芍薬然と立っているのが相応しい。そんな和製美女の作り掛け、市松人形みたいな少女が気絶した男を土台に武士が如く毅然と、一同を睥睨している。
どこかリアルに欠ける光景に皆が固まっていた。そりゃそうだろう。百八十を前後していると見受けられた加害者集団。その内の一人が、一見可憐な少女にいとも簡単にやられちゃあね。僕は息を吐くところで飲み込んだ。どうにもならないからだ。飲み込んだ息は鼻から抜けた。
体を半分出す状態で動きを止めていた僕は体勢を整えた。加害者たちは、この期に及んでまだ僕の存在を感知していない。都香の登場に僕は、暴行現場への出場を余儀なくされてしまった。現況において僕が知られていないのは好都合だと思う。最悪僕も加勢だろうから、立ち位置を見極めなくてはならないし。……ふむ、だけれども。
都香に、僕の手助けは必要だろうか。『あの人』も、都香の出現に転がっているだけで済まなくなっただろうし。その証拠に。
「……んだよ、てめぇ」
『あの人』の、空気が変わった。
「人に名を訊くときは、自分から名乗りなさいって教わらなかったの? それともそのお粗末そうな脳みそじゃ覚えていられないとか?」
「んだと、こるぁっ。てめぇ、俺らを誰だと、」
「知る訳無いでしょ。ああ、無抵抗の一人に寄って集って暴力を振るう卑怯で臆病な愚か者なヤツら、ってことなら一目瞭然ね」
「こんのアマっ……」
度重なる都香の挑発にだいぶ正気を戻した加害者たちは気色ばむ。まったく、都香と来たら。こちらは肝を冷やしてしょうがないと言うのに。都香は臆することも無く自身の身の丈を優に越す男共を睨め付けた。
「何か違ってる? あんたたち、先輩が反撃しないのを良いことに好き勝手してるだけじゃない。言って置くけど、それは先輩のやさしさよ。まぁ? そんなことわかる訳無いでしょうけど」
都香は鼻で嗤った。都香の指す“先輩”は『あの人』だ。……果たして、“やさしさ”だろうか。確かに『あの人』は反撃を禁じていたのだろう。自らに枷をして抑制したのだ。全神経をギリギリで避けたり庇うこと────受け止める、でなくば受け流すことに集中させて。
だけど、これを“やさしさ”だとするのは少しおかしい話だ。本当に『あの人』がやさしいのなら、打撃を与えずとも反撃すべきだ。全力を出さなくても礼として向き合うべきなのだ。授業には護身術として格闘技も入っている。相手も丸きりの素人じゃないのだから。
出来るくせにしないのは、逆に見下しているようにしか感じられない。詰まるところ、『あの人』は、“先輩”は、礼儀なんか払う気も無かったんだ。敢えてされるがままと言うのは対峙する価値も無い煩わしい輩への最大の嫌がらせだった、と。そうとは知らず莫迦なヤツらは気が済んで次第に絡んで来なくなる訳だ。……どう考えてもやさしくないよなぁ……。小莫迦にしているものな。
僕は『あの人』をよく知っている。事実、頭が微妙に動いたのは『あの人』が都香の科白のあとで、しまった、と考えたからに間違いない。あーあ、と僕は合掌したのだけど。
「怪我しないようにって配慮よ。先輩の実力じゃ、下手したら死んじゃうかもしれないしね。先輩に構ってもらえて良かったわね、お莫迦さんたち」
「ぁんだとぉ!」
都香の言い分に、成程、都香はそう判断した訳だと僕は思ったが悠長なことも言ってられない。沸点がとうとう頂きに達したのを感じた。─────ここまでだろう。
「……先輩方、予鈴鳴りますよ」
深呼吸を終えて発した僕の第一声は、都香へ向かっていた怒気を程々下げた。先輩方、加害者たちとしては、僕は都香に次ぐイレギュラーの介入だっただろう。
「僕は続けていただいても一向に気にしませんが、教科担当の教官によっては遅刻に対する厳罰も変わるのでは? 特に実践、実技の教官は厳格ですから、遅刻程度でも心証を悪くして単位に響くでしょう。……彼らも、この事態が表に出ることは望まないでしょうし。如何でしょうか? 先輩方も騒ぎになることは本意では無いんじゃないですか?
引いては、いただけませんか」
彼ら、の辺で都香たちをちらと目で示す。僕の意見に加害者の先輩方は黙考し出した。揺れているのだ。どっちが最良かわかっているにも関わらず素直に従わないのは、矮小なプライドのせいだ。
「僕は最年長である先輩方にお任せするしか無いと思っておりますので……お願い出来ませんでしょうかね」
頭を下げつつにっこり、愛想笑いなんて教官にすら稀にしかしないのに、してみたり。加害者たちは僕のこのスマイルが多少プラスになったかは不明だが、立てた言い方には気を良くしたのだろう。
「仕方ねぇな」
「今回だけだぞ」
「そこまで言われちゃあな」
「お前の顔立ててやるよ。感謝しろよー?」
渋々とした風体を装って口々恩着せがましいことを言う。僕は笑顔を造る皮が剥がれないことだけ注意した。やばいやばい、引き攣りそうだ。僕は「有り難うございます」と心にも無いことを告げた。「ちょっ……!」抗議しようとした都香の口を咄嗟に塞ぎながら。
立ち去って行く加害者たちを見送り見えなくなると、都香の口から手を外した。
「ちょっと、香助! どう言うつもりよ!」
手が離れてすぐ、都香は僕に噛み付いて来る。面倒で僕は無視を決め込み、起き上がっていた『あの人』、先輩に手を貸した。
「大丈夫ですね」
「うん、有り難う」
先輩は僕の手に自分の手を重ねて立った。こんなのが要らないのは自明だったが都香から逃れるためにわざとした。先輩も気付いていただろう。共犯だ。
「先輩っ、大丈夫ですかっ?」
この場景に慌てて都香も寄って来た。こっちは疑問系。どう見ても大丈夫に決まっている。ぴんぴんしているところからも骨に異状は無さそうだが「先輩」念には念と言う。
「一応、何か理由を付けて医師に診てもらってください。骨折は妙な箇所でもしますから。尾てい骨なんかを折って熱を出したり中にはそれが原因で死ぬケースも無い訳では在りませんし。皆無じゃない、と言うだけですけど」
火薬も取り扱う高等学校では保健室に養護教諭ではなく医務室に軍医が常駐している。骨折から来るショック死は意外とめずらしくない。人体は複雑で予期せぬ部分で異常を引き起こすものだ。
「……へぇ。尾てい骨ってことは、つまりその骨折は尻餅でなったんだね」
「強打したんでしょう。勢い付けて転べば、致命傷を負うのは子供も大人も差は無いと言うことです」
「興味深いねぇ。けど、そんなことを知っているなんてさすが医者の子だけ在るね。香助」
先輩は笑った。一癖二癖在る風にしか見えないのは、僕がこの人の本性を経験で知るからこそか。あるいはこの人の本質が実際滲んでいるのか。
「……。そうでしょうか、これくらい知っている人は知っているでしょう。驕りは禁物、と言うことですよ。羽柴先輩」
先輩は名を『羽柴壮太』と言う。服や体に付着した土を払う手足は長く、痩身も無駄な肉は無いが筋肉はしっかりと付いていた。泥だらけでも端正な顔立ちは曇らず、男のくせに、都香に引けを取らない長髪が気障に映る。
「そうかな? まぁそうだとしてもさ、誰でも知っている話じゃあないんだろう? だったらここは“さすが”と言って良いんじゃないかな」
揶揄うようにくすくす笑いながら発言を重ねる先輩。先輩は僕の実家の近所に在る道場の息子、三男坊で実力は父の師範代も上の兄さんらも越えるのではないかと評判だった。けれどこの人は、羽柴先輩は、日頃の訓練で評判に見合う戦績を残していない。往々にして中の上とかそこら辺だったと記憶している。加害者集団はここが気に入らなかったんじゃないかと思う。先輩自身はどんな野次にも飄々としているから殊更に。わからないでもないけど。
僕みたいに目立たないよう振る舞えば良いのになと考える端で家柄上無意味かと考え直した。と、都香がとても因縁を付けたそうに視線を寄越す。僕はシカトで跳ね返した。
「香助」
焦れたのか都香が地を這う声で僕を呼んだ。僕は返事しない。が、「香助!」語気荒くなって観念する。
「……何」
「何、じゃないでしょう! 香助、そこにいたんでしょう? 先輩が襲われている間もずっと! 何で助けないのよ。普通、助けるところでしょう!」
「……」
都香の言うことは正論だ。だけども頷く気にはならない。正論を唱えることが、いつも正しいなんて思わない。
「香助、黙ってないで、」
「……助けたところで───や、どうしたら良かった?」
「え、」
「助けろ、と都香は言うけどさ。どう、助けたら良かったんだ? あの状況で。教えてくれよ。……お前、何か勘違いしてないか? どんなときも味方をすれば助けられると思ってんなら、とんだ誤認だな。ときに敵に回ることもときに傍観者に徹することも必要なんだ。味方になっても助けるどころか見誤っていたら窮地に追いやることにだってなり兼ねないんだぞ」
正攻法が正しいことなんて、実はそう多くない。人間においては常にそうだ。正攻法が仲間の寿命を縮めることだって在る。さっきだって、もし仮に僕が出て行ったとしよう。あの加害者集団が逆上せず済んだか? 最悪、多勢無勢のあの人数に手加減し切れず怪我人を出し停学、果ては退学だ。先輩が。
面白いことに、ここまで時代に合わせた厳しい軍属紛いの仕様をしているくせに、こんなところだけまだ遅れた学校の制度を残している。厳罰とか退役ではないのだ。あくまで停学と退学。退学になったらどこかへ行くのだろうと聴いているけど、どこへ行くかは知らない。軍用の製造工場直属の専門学校か、まぁそんなところだろう。ここにも似たような整備士専科は在るけれど実技要員より指導員育成が主な目的だ。高等学校を退学になれば出世コースからは外され将来の選択範囲が限定される訳だ。僕は唇を噛む都香を何も言わず見据えた。無言を咎めと取ったのか、微苦笑する先輩ですらも喋らない沈黙に居た堪れなくなったのか。都香は目線を地面に這わせるだけで微動だにしない。
僕らの数分は予鈴によって破られた。僕は深く肺に詰まっていた息を吐き出した。まったく。
「……予鈴、鳴ったぞ」
「都香ちゃん、行こうか」
各々声を掛けてやったと言うのに都香は動く気配を見せない。僕はもう一度「都香」呼んだ。すると、都香が顔を上げた。僕も先輩も見ないで明後日の方向へぼそりと、零した。
「……香助の言いたいことはわかった。けど、私は私のやりたいようにするから……」
強情な、都香らしい宣言だった。僕はたった一言「どうぞ」と。他に使えそうなボキャブラリーを持ち合わせていなかったからだ。僕は踵を返した。
都香は気にしなくて良いだろう。先輩がいる。あの加害者集団が戻ることは有り得ないし、僕に心配する要素は微塵も発生しない。僕は教室までの道程を教官の目を気にしながら駆けた。
初夏梅雨前夏間近。どうして僕が季節柄勢い付けて調子付く太陽に、じりじり灼かれているかと言えば『授業』と言う名の訓練中だからに外ならない。……あー、あっつい。
二クラスで分かれての地上戦。要は単なる陣取り合戦形式の模擬戦で、ペイント弾の入った銃を振り翳し相手の陣地を制圧する……なんて。僕、いや、みんな思っているんじゃないかな。子供の、遊びの延長戦だと。これ済ませられないのは、この“お遊び”が評価に直結するからだ。戦績。全く以て質が悪い。
そうわかっていても、僕はやる気なんて無かった。だって、暑い。面倒臭い。だだっ広い校庭に人工的に突き立てられた壁へ背を預け空を仰いだ。相変わらず嘘臭い空だった。強い陽射しに色の抜かれた空。青く染められた手拭みたいだ。後ろで音がする。扱いさえ誤らなければ掠り傷にもならない程度の爆竹と、当たると多少痛いペイント弾が飛び交っているのだろう。壁の向こうで。ぼうっと壁越しにそれらを聴きながら、無気力な僕は関係無いとばかりに空を眺めていた。そこへ。
「よっ、香助」
ずりずり匍匐前進で“似た者”の友人が近付いて来る。思わず、僕は形だけ手にしていた銃の先を向けた。で、撃った。
「おまっ……ストーップストーップ! 今はクラス戦、お前と俺は同じクラス! オーケーっ?」
「で?」
「で、じゃないよねっ? 味方だよね? おかしいよね撃ったら。おかしいよね?」
うるさく繰り返すので億劫な僕はさらり「条件反射だ」と伝えた。当然友人は納得するはずも無く「おかしいから!」抗弁しながら這いずって僕の隣に来る。
「……よっと。お前は参加しないの。一応単位だぞー、これ」
少し脇へズレてやると、友人は到着してすぐ上体を起こし僕と同じように座った。そうして投げる言葉がこうだ。
「お前はどうなんだよ」
「俺は技術課程取れてるもん」
僕の横で、避難した壁から模擬戦の様子を覗き見ている友人は何とも棚上げな質問をして置いて、返せば実に小憎らしくいけしゃあしゃあとした答え。誰かコイツ狩れよ。
この同類且つ僕より格段に調子の良い友人は『倉中健』と言った。会話の通り僕のクラスメートで、機械に詳しく特にアマチュア無線を趣味としていた。通信に関する技術やその筋の知識、また付随して情報網が豊かと来て周りでは一目置かれている。が、他はまったくと言って良い程[並]、もっと詳細にすると中の下だった。ヤツの言う『技術課程』はいろいろ在るが多分、や、絶対通信技士のことだろう。通信技士は軍事通信機器のメンテナンスではなく操作、つまり通信がメインのため整備士専科でなくとも普通科で授業選択すれば取れる。その外にも、技術士の課程を取って単位がちゃんと取れていればたとえ普通科の通常授業の単位が足らずとも進級進学出来た。成績次第では在るが。
独学でもともとシャック、無線機置いて在るところだっけ? 寮の部屋の隅っこに作ってるし。無線従事者免許も持ってるらしいし。性格的に抜かりも無さそうだしこんなんだから教官のウケも────「香助」無心に模擬戦の行方を観ていた倉中が声を掛けて来た。
「……何」
訊く僕に、にかーっと振り返って笑う。嫌な予感しかしないんだけど?
「決着付いたみたいですよーん」
外を指差し笑顔の倉中。僕は「あっそ」と返してやる。まさかこっちに火の粉が来るんじゃないだろうなとか考えていた僕は内心ほっとしつつ思わせ振りな倉中に腹が立つ。でもその前に呆れが先立ってどうでも良くなった。勝敗が決まったなら別に良いじゃないか。終われば教官が号令を掛けるのに。いちいち終幕の報告なんか要らない。とっさに背を離した壁へ再び寄り掛かろうとして僕は、倉中が口にした名前に止まった。
「さっすが、都香ちゃんだね! 単独で制しちゃったよー」
都香。あの都香が決着させた。僕は思うより早く身を出して背後を見返った。都香が、ここから遠く陣地とされる小山の片方に立って引っこ抜いたであろう旗を振っていた。満面の笑みだ。都香は隣のクラスで、それで僕たちのクラスの負けを悟る。今回も、戦績上位の都香の独断場だったに違いない。僕は息を吐いた。ヘルメットを外す。何か疲れた。
都香のクラスメートははしゃいでいる。けれど都香の周りにいるのは陣地を守っていた僕のクラスメートと、都香の親友の春川だけだ。どうせ、都香は突っ走ったのだろう。一人で。春川はそんな都香のサポートをしてくれたのだ。常のことだから。
「……」そう、いつもだ。
いつも、都香は一人だけ脇目も振らず突っ走る。
あのときだって。
丁度、十年前だったと思う。あの日は繁都おじさん────都香の父親で優秀な技術者だ─────に連れられて軍の何かのパーティーに行った。都香と、僕と、まだ開業医だった僕の父さんで。今思えば新しい遠隔操作戦闘機のお披露目だったんだ。だから、母親たちは来なかったんだろう。都香の母親である朋香おばさんの体が弱いことも在ったが、参加拒否した真意は別だった。僕の母さんも、朋香おばさんも、戦争が嫌いだったから。
僕と都香は世間一般で言う、いわゆる幼馴染みだけれど、実際はちょっと違った。僕の父さんと朋香おばさんは再従姉弟になる。つまるところ、縁戚関係が在るのだ、遠いけど。
古くは、僕の家が都香の家、阿佐前に仕えていた、主従の関係だったらしい。時代が違えば、そして両家で婚姻を結ばなければ、父さんは朋香おばさんの従者だったと言う訳だ。もっとも、とっくの昔に主従の括り自体は無くなっていたそうだが。
昔の大戦が、良くも悪くも二つの家の情勢と間を変えたのだ。
しかし僕の家の、鳴海家の阿佐前家に世話を焼く性分は最早遺伝子レベルに達していたんだと僕は身に染みて実感していた。朋香おばさんと父さん然り。僕と都香も。
「───みやちゃん、もう帰ろうよ。そっち行っちゃ駄目だって」
齢五歳の僕はこのとき、非常に困っていた。僕を引っ張る腕が、僕の言うことを聞かずぐいぐいと、僕の行きたくない方向へと導くためだ。勿論、この腕の持ち主と来れば。
「何言ってるの、こーちゃん! この先にはきっとおもしろいものが在るのよ!」
大きな声で何の根拠も無いだろうに自信満々と同じく齢五歳だった都香が言った。僕は何とか阻止しようとするが敵わず、かと言って都香の手を放すことも出来なかった。同敷地内に家が在った僕たちは生を受けたときからいっしょにいて、物心が着いたときにはすっかり都香のストッパーは僕の役目になっていたのだ。言わばこの手はリード、都香を捕まえて置く手綱だった。
「みやちゃん……」
小学校へ上がる前まで僕は都香を『みやちゃん』と呼び、都香は僕を『こーちゃん』と呼んでいた。僕の名前は“きょうすけ”だったけど、都香の『こ』と同じ漢字だったから都香は『きょうちゃん』ではなく『こーちゃん』だと思っていたらしかった。
「何言ってるの、は、みやちゃんだよ。危なかったらどうするの?」
「お父さんの働いてるところだよ? 大丈夫だよ」
その理論が根底から間違っていると誰か教えてやってほしい。僕が胃痛を感じた一番古い記憶、だった。
「みやちゃん」
「どうしたの? こーちゃんはこわいの?」
頑として動かない僕の足に、都香が再度不思議そうに訊いて来た。僕はぐっと口を閉ざした。幼年の男児へ訊くには少々不躾だ。だけれど同い年の、経験も同等に足らないだろう都香に配慮が在る訳が無い。まだ、音に莫迦にしたようなものが含有されていないだけマシと言うもの。
都香の進もうとする方向を僕は見た。前方は金網が境界を引いていた。向こうへの侵入者を拒もうとしてこの金網が存在していることくらい、五歳の僕にもわかる。
「ねぇ、こわいの?」
都香が揺さ振りを掛けて来る。これが意図してのことなら何とも巧妙な手口だ。「……」金網は錆びて元来の緑色を変色させていた。それでもそこに張り付いている白い看板は新しく最近作ったように朽ちていない。赤い文字も鮮やかに“ここより関係者以外立ち入り禁止”と綴って在る。すでにこのころ、何となくでは在るがところどころ文字が読めた僕は全部が読めなくても警告だ、と理解していた。赤文字が、否応無しに危険を教えている。
「……みやちゃん、帰ろう」
僕は強張った表情筋を解凍することも出来ず都香の腕を引いた。多分に不機嫌を顔に出して都香は抵抗を示した。「いーやーぁっ。何でこーちゃん行かないのっ? お父さんが言ってたよ? “ぼうけんはキケンをおかしてこそ”って!」五歳の僕は、概念こそ無いものの、繁都おじさんを心から呪った。“冒険は危険を冒してこそ”? 科学者や技術者と言うより探求者と言って良いおじさんらしい言だが冗談じゃなかった。
「みやちゃん……。ここは冒険者のための未開の地じゃないよ。ここは日本の防衛軍の基地、で、繁都おじさんの働いてるところだよ。怒られるだけだよ? やめようよ」
「どーして? ミカイノチ? じゃなくてもおもしろいこと、いーっぱい在るじゃない。こーちゃんのおじさんの部屋とか」
綱引きよろしく都香は僕が引っ張る逆へ重心を落とす。都香の主張に在る僕の父さんの部屋とは、父さんの書斎のことだろう。診療室であるなら都香は『病院』と言うから。父さんの書斎は特別変わっている、なんてことは無い。本が在って机が在って、一般的な普通の書斎だ。ただ都香の家が典型的な日本家屋なのに対し、僕の家は日本家屋で在りながら父さんの書斎を含んで一部洋風な箇所が在るのだ。
幼い都香には、この奇妙なバランスが面白かったのだろう。診療所も併設していたし。父さんも大らかな人で、診察室はともかく特に悪戯さえしなければ書斎や診療所への出入りを禁じたりしていなかった。
「あのねー……。みやちゃん、あそこはね、お父さんが僕とみやちゃんに“遊んで良いよ”って言ってくれてるから怒られないだけなんだよ? ここは違うでしょ? 誰が“入って良い”って言ったの?」
いい加減呆れ果て疲れて来ていた。噛み合わない都香を無理矢理力尽くで連れて行きたいが、このときの僕には残念ながら力が無い。無駄に駆け回るやんちゃな都香と本好きインドアな僕で小学校進学前と聞けば、男女の力の差など無いことがおわかりいただけるだろう。
「……もー良いよ」
都香が拗ねた。引く力は抜けた。お互いの力が緩んで、同時に僕はほっと息を付いた。けれども。
「じゃあ、“良いよ”って言ってもらうもん!
あの人に」
都香は僕の判断能力の斜め上を行くんだ。僕は都香を足止めするのに必死でまったく背後に気を配っていなかった。
「───ん? きみたち、何しているんだい?」
ゆえに突発的事態勃発で僕の頭は真っ白になった。自失してしまった僕は都香が一歩踏み出しているのに反応が遅れて制止出来なかった。あ、と思ったときには都香は話し掛けていた。それはもう、無邪気に。
「あのね、向こうに行きたいの。行って良い? おじさん」
都香が“おじさん”と伺い立てたその人は軍服を着ていた。式典などで着用するような儀礼用とは違い質素な実用一辺倒の服装。『軍』で言うなら戦闘服とかなのだろうが『自衛』を強調するこの国では“作業服”としていた。一般兵だろうか。大抵、この国は戦争に遠巻きにも手を貸しているくせに平和ボケしているから上の人間はこんな、著名人や政財界の人間も来る日は儀礼用に身を包んでいるだろうし。
僕は現れたアンノウンの観察をつぶさに行い、機能の鈍った思考回路を叱咤していた。おじさんこと一般兵と思しき相手の動向を逐一逃すまいと目を走らせる……大袈裟かもしれないが、幼稚園に通ってようやく馴れたくらいの僕にとってこれは緊急事態も良いところだった。おじさんはやはり軍人と言うことなのか、予想外の出来事に対する心構えは万全なようで、唐突な子供たちの出現と幼女の言い分にも動じずすぐこの場で適切な応対を始めた。要は。
「お嬢ちゃん、どこから来たのかな。お父さんかお母さんはいっしょじゃないの?」
よく在る迷子への質問だ。だけども正しくは無かった。殊、都香へ関しては。
「むうーっ。訊いてるのは私よ、おじさん!」
都香は決して莫迦じゃない、と思う。この年頃の子供にしては大人との会話で頭の回転がすこぶる良い、小気味良い言葉のキャッチボール。ともするとコミュニケーション能力は僕より上だった。ただし、やっぱり斜め上の結論で話をするんだけど。
「ここから先は駄目だよ。危ないんだ」
保護者の居所を尋ねるより回答せねば都香の気が済まないと解釈したおじさんは都香に否を告げた。僕からすれば、あぁほら見ろ、と言うところだ。
なのだけど、都香がおとなしく引き下がるはずも無い。むしろ。
「えーっ。何で? どうして? ここ、お父さんの働いてるところだよ? 何で駄目なの?」
己の望む答えでなかったことに驚き食い付いた。僕はよくよく推察して気付く。都香にしてみれば、ここは繁都おじさんの職場だった。僕の父さんは自分の職場を都香に“悪戯しない”と条件付きだが開放している。診療所も書斎も。都香には同感覚だったのだ。繁都おじさんの職場だから、条件さえ飲んで許可が下りれば行き来自由だと考えていた。
傲慢極まりないみたいに感じるかもしれないが、幼児である都香の小さな世界では罷り通っていたのだから。
「お父さんが働いているのかい?」
思い至って呆気に取られている僕を横目におじさんはすかさず切り返していた。「そーよ! お父さんはここで飛行機を造っているの!」誇らしげに胸を張って宣う都香に僕は頭が痛かった。胃も、物凄く痛かった。ストレスが原因の心因性だったと知るにはしばらく経ってからとなる。都香の発言におじさんは考え込む仕草を見せた。僕はどきっとする。それからはらはらして来た。おじさんは作業着だし一般兵だろうけれど、繁都おじさんとはどんな関係か判然としないからだった。もし、繁都おじさんが怒られたらどうしよう、と。もし軍を辞めることになったら、とか。『上司』と言う単語を知らずとも幼稚園に行っている僕にとっての『先生』みたいな人がいるんじゃないかと言うことを、当時五歳であるが僕は感付いていた。
とは言え、本が好きで文字が漢字を含めて多少読めても、父さんを訪ねて来る患者さんと接していて多少空気の読み方を学んでいたとしても、僕は都香と同様に五歳児だ。正直、テンパっていた。
「みやちゃん、帰ろうっ」
僕は悲鳴染みた声で都香の肩を掴んでいた。自分たちがどうなるか想像出来なくて脅えたのだ。僕たちが怒られるくらいで済まなかったらどうしよう、と。都香は、当然僕の恐怖を感知していない。
「こーちゃん、何? 痛い、よー?」
都香が僕の手を外しに掛かる。都香の抵抗に、きりきり引き絞られていた僕の糸が切れた。経験則も儚い僕の脳みそはパンク寸前だった。もー駄目。もー無理。訴えて来て、微かな揺れでも僕の感情は爆発寸前で、都香の行動は完全に引き鉄だった。
「いい加減にしろよ! 繁都おじさんの仕事の場所で迷惑掛けるな!」
びくっと都香が体を震わせた。僕は喚いてから、しまった、と口を噤んだ。都香が唖然としている。それはそうだ。僕は怒鳴ったことなど無いしましてや、言い争いが嫌いな両親に育てられて必至で無ければ反対意見を出すことも好きじゃない。苦言を呈することは在ろうとも。
「こ、こーちゃん……」
泣きそうな声に僕は面と向かうことを拒んで俯き、都香の肩に置いていた手を退けた。嫌になった。五歳児にして自己嫌悪に陥るなど。泣かせる、僕は悪くない、都香が言うことを聞かないから、僕を困らせるから、何で繁都おじさんはいないんだ、繁都おじさんがいてくれたら都香だって、僕だって……。誰かのせいにしている。嫌気が差す。最低だ。
僕の心境を翻訳するとこんなもんだ。割り切ることも出来ない幼い精神性。幼児だから当たり前なのだが、この出来事は追い追い僕の傷トップ3に入っている。
「……うーん。困ったなぁ……」
微妙な空気になった僕と都香に見守っていたおじさんが後頭部を掻きながら唸って零した。僕たちは何も言えない。都香は涙を我慢しているのだろう。都香は負けず嫌いだったから。僕のほうはと言えば、大声を出して人を責めたこと、これを誰かのせいにしていること、全部に嘖まれていた。僕も都香もおじさんも三者三様に黙してしまって他に誰もいないもんだから、場は無声の空間になってしまった。金網がずーっと線を引いているだけの野晒しのここでは遠くの喧騒が小波程度に響いて来るくらいだった。
「────お、こんなにいたのか。おぉーい、香津! いたぞーっ」
呑気な声音が差し込まれ静止していた僕たちはそれぞれ動いた。香津、は父さんの名前だ。顔を上げれば、白衣を風で遊ばせている繁都おじさんと息を切らす普段着の父さんが走って来るのが見えた。都香は「おとうさぁん!」繁都おじさんに駆け寄って行き、作業服のおじさんは「阿佐前一尉っ?」と繁都おじさんへ敬礼した。僕は。
「……急にいなくなったから心配したよ、香助」
立ち尽くしていた。僕の元へ未だ息の整わない父さんが歩み寄って来る。僕は「ごめんなさい……」再び下を向いた。
遠くへ行くつもりなんかさらさら無かったとか、繁都おじさんはあのおじさんが畏まった態度を取ったことを見るに結構偉い人なのかもとか、過る程度には考えていたけどあまりの疲労に気力が果てていた。父さんに背を撫でられ僕は、つ、と都香を見た。都香は繁都おじさんに抱き上げられていた。凄い顔、と子供ながら思ったのを覚えている。凄い顔だった。そして複雑な顔、とも。
「行こうか」
都香を抱きながらすっかり慇懃としてしまっている作業服のおじさんと話していた繁都おじさんがこちらを向いた。おじさんは繁都おじさんに一礼すると小走りで去って行った。多分元の配置へ、作業へ戻ったのだろう。その後作業服のおじさんが実はテストパイロットで、僕のクラスの担任教官になるなどと夢にも思わなかった。
繁都おじさんが歩き出す。都香は繁都おじさんに抱っこされたまま足をぶらぶらさせていた。しがみ付いた首をがっちりホールドして顔は埋め、僕を見ない。僕も、父さんに手を引かれつつ都香を見なかった。しばし歩いて、ようやっと最初にいた場所へ辿り着く。僕たちが止まった、刹那。
破裂音がしたんだ。驚いて上を向いた。広がっていたのは空だった。空に、花が、煙の花が弾けて咲いていた。
「……」
透明感も無い空とそこにいっぱい散る花は一見壮大だけど、僕にはまるで、模造紙で造った背景に折り紙をでたらめに貼りまくった、お遊戯会のセットみたいに見えた。