王都を追われた会計官
数字は嘘を吐かない、と私は教えられた。
正確には、数字そのものは嘘を吐かない、という事である。数字を記した者が嘘を吐く事は有る。数字を読む者が誤る事も有る。然し、帳簿に記された数字は、少なくとも其処に記された数字として存在している。
私は長い間、其の様に考えていた。
王立会計院に勤めていた頃、私の机には毎日、幾十冊もの帳簿が積まれていた。地方税の徴収額、官吏の俸給、軍需品の購入費、道路の修繕費。其れ等は全て数字に置き換えられ、一定の規則に従って整理されていた。
数字に間違いが有れば、訂正した。
支出の根拠が無ければ、差し戻した。
収入より支出が多ければ、其の理由を調べた。
私は其れを仕事と呼んでいたし、実際、其れ以外の事をする必要も無かった。
王都の人間は、帳簿の上で暮らしている訳ではない。然し、帳簿の上で暮らしていないからこそ、帳簿が必要なのだと私は考えていた。幾ら金が有るのか。幾ら使ったのか。幾ら残っているのか。其れを知らずに国を運営する事は出来ない。
此の考えは、今でも間違っていないと思う。
ただ、間違っていない事と、正しい結果を齎す事とは、必ずしも同じではなかった。
*
私が王都を追われた理由は、国庫の不正を告発した為である。
もっとも、告発という言葉は、少々大袈裟かも知れない。私は定例報告書に、軍務卿の管轄する施設の建設費が、実際の工事費用を大幅に上回っていると記しただけである。
報告書は受理された。
調査は行われなかった。
其の後、私は機密文書の不正な持ち出しと、王国官吏としての守秘義務違反を問われた。
裁判は一日で終わった。私の弁明を聞いた裁判官は、私が提出した帳簿の写しを机の上に置き、其れが正規の手続きを経て取得された物ではないと述べた。
私は、帳簿の数字が正しい事を説明した。
裁判官は、私が手続きに違反した事を説明した。
私達は同じ書類を見ていたが、異なる事実を見ていたのである。
結果として、私は職を失い、王都から追放された。
退職金は支給されなかった。蓄えの大半は、裁判に必要な費用として消えた。残った金を数えると、馬車を一台雇い、数日分の食事を買う事は出来たが、其れ以上の事は難しかった。
私は手持ちの金を帳簿に記した。
所持金、銀貨二十七枚。
旅費、銀貨十二枚。
食費、銀貨三枚。
残額、銀貨十二枚。
其の数字を見て、私は自分がまだ破産していない事を確認した。
然し、私は何処へ行けば良いのだろう。
帳簿には、行き先という欄が無かった。
*
辺境領の領都に着いたのは、王都を出てから六日後の事だった。
領主の名は、エドガー・フォン・ヴァルデン。王家から遠い血縁に当たる人物で、先代の死後、此の領地を相続したという。
私が此の地へ来たのは、知人の紹介が有ったからではない。此の領地の財政が破綻寸前であり、会計を扱える人間を探しているという話を、旅の途中で聞いた為である。
破綻寸前。
其の言葉を聞いた時、私は少しばかり興味を持った。
収入が少ないのか。支出が多いのか。税の徴収が滞っているのか。借入金が膨らんでいるのか。何れにせよ、帳簿を調べれば原因は判明する筈だった。
私は、其の様に考えていた。
領主館は、町の中心から少し離れた丘の上に建っていた。外壁には古い亀裂が有り、門の脇には錆びた槍を持った兵士が二人立っていた。
私が名乗ると、兵士の一人は私の顔を見た。
「王都から来た会計官というのは、あんたか」
「元会計官です」
「元?」
「王都を追放されました」
兵士は、其れ以上の事を尋ねなかった。
私は其の態度を不思議には思わなかった。此の様な辺境では、王都から追放された人間など珍しくもないのだろう。或いは、私の事情に関心が無かっただけかも知れない。
どちらであるかは、私には分からなかった。
案内された部屋には、領主と一人の老執事が居た。
「貴方が、会計官殿か」
領主は私の持参した書類を眺めていた。書類には、私の経歴と、王立会計院での勤務記録が記されている。
「元会計官です」
「其の違いは、今はどうでも良い。貴方は、此の領地を立て直せるか」
私は即答しなかった。
立て直す、という言葉の意味が曖昧だったからである。財政を立て直すのであれば、帳簿を調べなければならない。領地を立て直すのであれば、財政だけを調べても仕方がない。
「先ずは帳簿を拝見したく存じます」
領主は、老執事を見た。
老執事は一礼し、部屋の隅に置かれていた木箱を開いた。中には、幾冊もの帳簿が詰め込まれていた。背表紙には年度が記されていたが、何冊かは表紙が破れ、文字を読む事も難しくなっていた。
私は一冊を手に取った。
紙は湿気を吸っていた。所々に染みが有り、数字の判別が難しい箇所も有った。然し、記帳の形式そのものは王都で用いられている物と大差が無かった。
収入。
支出。
借入金。
未納税。
私は頁を捲った。
其処には、数字が有った。
数字が有るという事は、記録が有るという事である。記録が有るならば、調べる事が出来る。調べる事が出来るならば、原因を見つける事も出来る。
私は、そう考えた。
「此の領地は、何年も赤字が続いております」
「知っている」
「借入金も相当な額に上ります。税収の増加か、支出の削減が必要でしょう」
「其れも知っている」
領主の返答は、簡潔だった。
私は帳簿から顔を上げた。
「では、何故、改善されなかったのでしょうか」
領主は、暫く黙っていた。
やがて、窓の外を見た。
「分からぬから、貴方を雇うのだ」
私は、再び帳簿に目を落とした。
其の言葉は、理屈としては正しかった。
原因が分からないから、専門家を雇う。専門家は記録を調べ、原因を特定し、改善策を示す。私が王立会計院で行っていた仕事と、何も変わらない。
何も変わらない筈だった。
*
帳簿を調べ始めて三日目、私は最初の疑問を抱いた。
此の領地では、毎年、穀物の購入費が計上されていた。
金額は決して小さくない。領内で生産される穀物の量を考えれば、外部から購入する必要が有るとしても、記録された額は不自然だった。
私は、購入先の記録を探した。
見つからなかった。
代わりに、倉庫の修繕費が見つかった。其れも毎年、同じ時期に、同じ程度の金額が支出されていた。
私は、倉庫を見に行く事にした。
案内された倉庫は、領主館から町を抜け、川沿いの道を進んだ先に有った。建物の壁は黒ずみ、屋根の一部が落ちていた。扉には錠前が掛かっていたが、錠前そのものも古びていた。
倉庫番は、私が会計官である事を知ると、鍵を取り出した。
「中を見ても宜しいですか」
「構いませんが、何も有りませんよ」
鍵が回った。
扉が開いた。
中には、何も無かった。
正確には、隅に壊れた木箱が二つと、鼠の糞が有った。床には乾いた泥が固まっていた。穀物を保管する為の棚は残っていたが、棚板の多くが外されていた。
「此処には、いつから穀物が無いのですか」
「さあ。私が此処を任された時には、既に何も有りませんでした」
「では、何故、毎年修繕費が計上されているのでしょう」
「私には分かりません」
私は帳簿を開いた。
修繕費の支出は、確かに記録されていた。支出の承認印も有る。金額の計算にも間違いは無かった。
帳簿の上では、此の倉庫は毎年、修繕されていた。
目の前の倉庫は、修繕されていなかった。
私は其の二つを見比べた。
どちらかが間違っている。
そう考えるのは簡単だった。帳簿が間違っているか、倉庫番が嘘を吐いているか、或いは私が何かを見落としているか。
然し、帳簿の数字は間違っていなかった。
私はもう一度、修繕費の欄を確かめた。
金額は正しかった。
承認印も正しかった。
記録された支出は、確かに存在していた。
其れなのに、此処には何も無かった。
「会計官殿」
倉庫番が私を呼んだ。
「どうかなさいましたか」
「いえ」
私は帳簿を閉じた。
何かがおかしい。
其の事は分かった。
然し、何がおかしいのかは、まだ分からなかった。
私は、此の時初めて、帳簿に記された事実と、目の前に有る事実とが、一致していない事を知った。
いや、知ったという表現も、正確ではないのかも知れない。
私は其の不一致を目にしていた。認識していた。然し、其れを何と呼べば良いのか、まだ分からなかったのである。
帳簿を見れば、修繕費は支出されている。
倉庫を見れば、修繕された形跡は無い。
私は其の両方を、確かに見ていた。
それでも私は、どちらか一方を事実として選ぶ事が出来なかった。




