「冷めた白湯はお好きですか?」と聞かれましても
「冷めた白湯はお好きですか?」と聞かれましても
「君はいつも、そうやって目立たないことばかりしているね」
夜会のテラスで、婚約者のジェラルドはシャンパンのグラスを傾けた。視線の先では、黄色いドレスを着たマリー男爵令嬢が、笑い声を響かせながら人の輪の中心に立っている。エレノアは冷えてきた指先を扇の陰へ隠した。
「マリー嬢を見習ったらどうだい。彼女は周囲を明るくする。それに比べて君は、まるで空気だ」
「私の役目は、皆様を楽しませることではございません」
「そういう理屈っぽいところが可愛げがないんだ。君の代わりなど、いくらでもいるのだからね」
エレノアは手の中の扇を閉じた。骨の重なる乾いた音は小さく、大広間の音楽に紛れて消えた。十年間続けてきた仕事も、彼にとっては同じ程度のものだったのだろう。
「かしこまりました」
ジェラルドは満足そうに頷き、マリーのもとへ戻っていった。エレノアは彼の背中を見送ると、茶房を管理する真鍮の鍵をポケットから取り出した。回廊で待っていた王宮筆頭侍従へ、鍵と分厚い記録帳を差し出す。
「こちらを主治医へ。水の処理方法、体温と気圧による調整表、服薬時刻まで記録してあります」
「お嬢様がご説明なさらなくてよろしいのですか」
「代わりはいくらでもいるそうです。明日、父から婚約解消を申し入れます」
エレノアは淑女の礼を取った。筆頭侍従は止めなかった。ただ記録帳を両手で受け取り、深々と頭を下げた。
ジェラルドは幼いころから刺激に弱かった。気圧が下がれば頭痛を起こし、水に含まれる鉄分が多ければ胃を痛めた。エレノアは薬学と水質管理を学び、その日の体温と湿度に合わせ、濾過時間と沸騰時間を変えた白湯を一日七度用意してきた。
だがジェラルドは、その手順書を一頁も読まなかった。
「水を飲むだけで、なぜこれほど面倒な手順が必要なのだ。今までどおり沸かせばよい」
そう命じた三日後、彼は執務室で胃を押さえてうずくまった。給仕が運んだ白湯には井戸の鉄臭さが残り、頭痛で書類の文字も追えない。昼過ぎには救護室へ運ばれた。
知らせを聞いたマリーは、大輪の百合を抱えて駆けつけた。
「ジェラルド様、お可哀想に。わたしがずっとお側におりますわ」
甘い香水と百合の匂いが、閉め切った部屋に満ちた。ジェラルドは額に汗を浮かべ、顔を壁へ向けた。マリーが差し出した砂糖入りの紅茶にも、手を伸ばさなかった。
「違う……これではない。エレノアの白湯を持ってこい」
「白湯でしたら、先ほど召し上がったでしょう?」
「同じではないんだ!」
声を荒らげた途端、こめかみの痛みが増した。マリーは肩を震わせ、花束を抱いたまま部屋を出ていった。残された百合の花粉が、白い寝具の上へ黄色く落ちた。
一週間後、杖をついたジェラルドは王立薬草研究所を訪れた。研究室には乾燥させた薬草と紙の匂いが満ち、窓辺では小さな湯沸かし器が音を立てている。白衣を着たエレノアは、計量器から顔を上げた。
「エレノア、戻ってきてくれ。君がいなくなってから、何を飲んでも胃が受けつけない」
「手順書は主治医へお渡ししました」
「読んだ。しかし細かすぎて、誰も君と同じようにはできない。君が毎日作れば済む話だろう」
「私との婚約解消は、今朝正式に受理されました。もう私の仕事ではございません」
ジェラルドは杖を床へ打ちつけた。
「私の許可もなく、勝手なことを!」
「許可なら、夜会でいただきました。私の代わりはいくらでもいると、貴方がおっしゃいました」
「少し反省させるために言っただけだ!」
「では、反省なさるのは貴方の番です」
エレノアは湯沸かし器から白湯を一杯注いだ。銀砂で濾過した水を規定の時間だけ沸かし、彼の現在の体温に合わせて冷ましたものだった。ジェラルドは両手でカップをつかみ、震えながら飲み干した。
しばらくすると、浅かった呼吸が落ち着いた。ジェラルドは空になったカップを胸元へ抱え、縋るようにエレノアを見る。彼女は新しい白湯を注がなかった。
「頼む。これからも私のために作ってくれ」
「冷めた白湯はお好きですか?」
「何を言っている。冷めたものなど、飲めるはずがないだろう」
「私も同じです。冷め切った婚約を、もう一度温め直して口にするつもりはございません」
ジェラルドの指から、空のカップが滑った。エレノアは割れる前に受け止め、流し台へ置いた。白い陶器が触れ合い、澄んだ音が一度だけ鳴った。
「記録はすべてお渡ししました。今後は主治医の指示に従い、ご自身で体調を管理なさってください。それでは、お大事に」
研究所の職員が扉を開けた。ジェラルドは言葉を探すように何度も口を動かしたが、結局何も言えないまま廊下へ出ていった。扉が閉まると、研究室には薬草を刻む音が戻ってきた。
「十年間、お疲れさま」
奥の調剤室から、研究所長のルーカスが現れた。彼はエレノアが提出した水質研究を最初に評価し、この研究所へ招いた人物だった。手にした硝子器から、淡い琥珀色の茶を彼女のカップへ注ぐ。
「これは君のために淹れた。誰かの体温に合わせて冷ます必要はないよ」
乾燥林檎と香草の匂いが、湯気と一緒に立ち上った。エレノアが両手で器を包むと、温かさが指先からゆっくり広がっていく。彼女は冷めるのを待たず、最初の一口を飲んだ。




