用済み扱いで手当を十九年後回しにされたので、磨き順の帳を置いて銀器室を出ます。夏の終わり、客前の銀が一斉に鈍ります
「身内も同然なのですから、手当は後でよいでしょう」
十三本目の匙を数えていたイメルダの親指が、柄のくぼみに収まった。擦れて浅くなった刻印をひと撫でし、匙を白布の上へ伏せる。十四、十五。冷えた朝の銀器室では、息を吐くたび、並べた銀の面が薄く曇った。
背後の扉は半分だけ開いていた。家令ブレーズ・アーミテージの声は、閉め切るほどの話でもないという調子で廊下から入ってくる。
「今月も載せないのですか」
オデット・ラスクの声は短かった。イメルダは十六本目を取り、柄の裏へ布を通した。
「十九年、屋敷の銀を任せている女です。もはや雇い人というより身内でしょう。急ぎの支払いではありません。それに、若い者を入れれば負担も減ります」
「銀器室のことは、あなたに任せています」
衣擦れが遠ざかる。ブレーズの靴音だけが残り、開いた扉から顔を出した。
「聞こえたか、ブーン。奥様もお忙しい。手当の件は、落ち着いてから取り計らう」
「承知いたしました、家令殿」
「長く勤めていれば、手控えの一行より確かなものもある。そうだろう」
イメルダは十七本目を灯りへ向けた。匙のくぼみに細い黒筋が残っている。布を折り直して筋を消し、十九年使った籠の右端へ置いた。
最初の年、手当は冬の仕入れが済んでからと言われた。次の年は伯爵家の祝いが済んでから、その次は屋根の修繕が済んでから。済むものが増えるたび、後は先へ延びた。銀器室の棚だけは増えず、イメルダの腰掛けだけが十九年ぶん低くなった。
ブレーズは卓上の匙へ目を走らせた。
「これだけ磨き置きがあれば、若い衆でも回せるな」
「今朝の分は、まだ二列ございます」
「数は聞いていない。終わるかどうかだ」
イメルダは返事の代わりに、十八本目を白布へ置いた。銀同士が触れぬ幅を取り、柄の向きを揃える。ブレーズはそれを見届けもせず、扉を開けたまま去った。
廊下の風が入り、磨き終えた匙の面を撫でた。イメルダは開いた扉を閉め、擦れた刻印の一本を列の中央へ移した。
(わたくしは、身内も同然でございますから)
胸に置くには、よく磨かれた一句だった。継ぎ目も曇りも見えない。イメルダは次の匙を取った。
* * *
翌週、壁から紙が剥がされた。
今週の磨き順を記した紙だった。厨房の献立、晩餐客の顔ぶれ、東廊下の窓を開ける時刻まで、細い字が紙の端へ追い込まれている。ブレーズは上の鋲を抜き、紙を二つに折った。
「こういうものが仕事を難しくする。順など、上から拭けばよい」
折られた紙が、不要になった納品書の籠へ落ちた。イメルダは拾わず、磨き台の端に並べていた缶の蓋を閉じた。
代わりに、廊下の壁へ大きな紙が貼られた。晩餐客二十四名、肉皿二十四枚、匙四十八本、給仕六名。バルナバ・ニームが紙の左右へ鋲を打ち、若い衆を振り返った。
「これで誰でも回せますよ。人数が増えたら掛け算、減ったら引き算。銀器室の秘伝なんぞ、ずいぶん算術に弱かったらしい」
若い衆の一人が口の端を持ち上げ、もう一人が貼り紙を指で弾いた。ブレーズは咎めず、数字の傾きを直した。
「見える仕事にしろ。ブーン、今日はこの表どおりに出せ」
「本日の客人は、北の湿地を越えていらっしゃいます」
「二十四名には違いない」
「左様でございますね」
外套が湿っていれば、銀へ触れる空気も変わる。卵を使う皿が重なれば、先に卓へ出すものも変わる。イメルダは口を閉じ、刻印の深いもの、浅いもの、柄に継ぎのあるものを、いつもの順で台へ取った。
昼前、サロモン・ピールが磨き粉を届けに来た。四十年、ラスク伯爵家の裏口を通ってきた商い人は、缶を三つ置くと、貼り紙ではなくイメルダの台を見た。
「白を多くしたか」
「来週は南風が入ります。細かなものを一缶、次へ回してください」
サロモンは白い缶を持ち上げ、灰色の小缶を前へ出した。
「では、こっちを置く」
「お願いいたします」
ブレーズが勘定部屋から顔を出した。
「注文は購買帳に合わせろ。余計な入れ替えは要らん」
サロモンは購買帳を開かなかった。小缶の縁を指で一度叩き、納品箱を畳んで帰った。
その日の銀は、最後の一本まで曇らなかった。灯を入れた卓に細い光が二十四人ぶん並び、バルナバは廊下の貼り紙へ丸をつけた。ブレーズはその丸だけを見て、折った磨き順を籠の底へ押し込んだ。
帰り道、イメルダは近隣の三軒へ寄った。東の家では戸口の女中へ、川沿いの家では勝手口の料理人へ、坂上の家では古い門番へ、同じだけの言葉を渡した。
「来週半ば、湿りが入ります。銀は火曜のうちにお出しください」
三軒とも理由は尋ねなかった。イメルダも足さず、空になった手提げを下げて坂を下りた。
* * *
翌朝、銀器室の中央に一冊の帳が置かれた。
革表紙の角は丸くなり、背には十九年ぶんの粉が白く入り込んでいた。頁には日付ではなく、銀の含み、柄の継ぎ、刻印の深さ、風向き、客の出入り、献立の重なりが書き込まれている。最後の頁だけが新しく、三月先までの磨き置きと棚の位置が、短い行で揃っていた。
イメルダは開いていた粉の缶を一つずつ拭いた。蓋の溝へ入った粉を布の角で掻き出し、白、灰、仕上げ用の順に棚へ戻す。使いかけの布は洗ったものと分け、枚数を数えて紐で括った。
ブレーズが帳を持ち上げた。
「これは何だ」
「十九年ぶんの磨き順でございます。三月ぶんは仕上げてございますので、上段からお使いください」
「辞めるつもりか」
「はい」
「手当が遅れたくらいでか。後で出すと言ったはずだ」
イメルダは白布の束を棚へ置いた。端を揃え、紐の結び目を奥へ向ける。
「粉も布も、いつもの所へ戻してございます。数も合っております」
「そんなことを聞いているのではない。若い衆を入れたのが気に入らんのか」
「バルナバさん方には、今朝の棚をお伝えしました」
擦れた刻印の匙が、磨き台の中央に残っていた。ラスク家へ来た最初の日から、祝宴にも弔いにも出た一本だった。柄へ伸びた親指が、刻印に触れる前で止まった。
イメルダは指を曲げ、手の中へ収めた。
「わたくしはこの一本を、十九年、わたくしの銀だと思うて磨いておりました」
声を受けた匙は、白布の上で朝の光を返した。イメルダは柄を持たず、布の端を引いて、匙を棚の列へ滑らせた。
ブレーズが帳を脇へ置く。
「ならば、なおさら置いていけまい。十九年もいた部屋だぞ」
「置いてまいります。ラスク伯爵家の銀でございますから」
「次の勤め先は決まっているのか」
「いいえ」
「では、何をする」
イメルダは低くなった腰掛けを磨き台の下へ入れた。片脚が床の窪みに引っかかったので、少し持ち上げ、まっすぐ収めた。
「今日のところは、外へ出ます」
扉のそばでバルナバが壁にもたれていた。口笛を吹きかけ、ブレーズの顔を見てやめる。
「三月ぶんもあるなら、急ぐことはないでしょう。帳も残すんだし」
「そういうことだ。ブーン、ひと月もすれば考え直す」
イメルダは鍵を磨き台へ置いた。真鍮の輪が木の上で一度跳ね、寝た。
「長い間、お世話になりました。奥様へは、先ほどご挨拶を申し上げました」
扉を開けると、廊下の貼り紙が正面に見えた。二十四、四十八、六。イメルダは数字の前を通り、裏口まで歩いた。呼び止める声はなく、手提げの中にも銀器室のものは一つもなかった。
* * *
三月ぶんの磨き置きは、よく働いた。
翌日の昼餐でも銀は光った。ひと月後の晩餐でも、二月後の茶会でも、棚から出した匙は客の顔を細長く映した。ブレーズは帳を一度開き、頁を親指で弾いて閉じた。
(銀なんぞ、人を増やせば片づく——)
若い衆は二人から四人になった。バルナバは皿数表の下へ当番名を書き、上段を拭く者、下段を運ぶ者、数える者を分けた。磨き台には布が積まれ、空いた缶には新しい粉が足された。
最初の月、棚の上段が空いた。次の月には中段の奥板が見え、三月目の末には、擦れた刻印の匙が置かれていた列もなくなった。空きへ新しく磨いた銀が入れられたが、柄の向きは右と左に散り、深い刻印も浅い刻印も同じ束に収まった。
「空いているなら、詰めればよい」
ブレーズは棚の前でそう言い、返事を待たずに去った。若い衆は隙間を詰め、棚は一度だけ賑やかになった。
四月目も、五月目も、皿数表には丸がついた。
六月目、磨き置きの棚は空になった。ブレーズは朝の銀器室へ入り、板の木目が奥まで続いているのを見た。指を一度棚へかけたが、何も言わず、廊下の貼り紙を新しいものへ替えさせた。
二十四名、肉皿二十四枚、匙四十八本、給仕六名。
夏の終わりの晩餐も、その数だった。
* * *
夕方まで降った雨が止むと、窓の外から濡れた土の匂いが入った。
客は二十四名。北から来た六人は厚い外套を脱ぎ、川沿いから来た四人は靴の泥を玄関へ残した。厨房では卵を使った前菜が冷まされ、その隣で肉の香草焼きが湯気を上げていた。
廊下の紙には、前の晩餐と同じ数字が並んでいた。バルナバは紙を指し、給仕へ四十八本の匙を渡した。
「数は合ってる。上から順に出せばいい」
銀は白く見えた。若い衆は揃った数を卓へ運び、皿の左右へ置き、残りがないことを確かめた。
オデットが広間へ入った。
「灯を」
壁際から火が移された。ひとつ、二つ、三つ。卓上の灯へ灯が並び、濡れた客の袖と、温かな料理と、四十八本の匙を同じ明るさへ引き出した。
四十八本の匙が、同時に灯を返さなくなった。客が顔を寄せるより早く、肉皿の銀縁まで青黒く沈んだ。
バルナバが給仕盆の布を取り、手近な匙を拭いた。布の下から出た銀は白くならず、筋だけが残った。廊下の貼り紙へ目をやり、口を開いたまま手を下ろす。
ブレーズは上座の後ろに立っていた。
「厨房の油だ。皿を替えろ」
「替えは同じ棚からです」
「なら、磨け。すぐにだ」
給仕が替えの籠を持ってきた。籠の中の匙も、灯の下では同じ色をしていた。
怒声は上がらなかった。椅子を引く音もない。客たちは手元の銀を見てから、互いの顔へ視線を移した。
オデットは自分の前の匙を取った。親指で面を確かめ、音を立てずに伏せる。
「わたくしの不行き届きでございます」
一卓目で頭を下げ、二卓目でも同じように匙を伏せた。三卓目では客の一人が何か言いかけたが、オデットは先に頭を下げた。語尾は乱れず、伏せられた銀だけが卓ごとに増えた。
晩餐の後、ブレーズは空の棚の前へ若い衆を並べた。帳を開き、今日の日付を探したが、頁にあるのは似た人数の日ばかりだった。客の外套も、雨上がりの窓も、卵の皿も、同じ組み合わせでは載っていない。
「順を読めばいいんでしょう。帳にある順を」
バルナバが言った。
ブレーズは頁を繰った。どこから始めるとも答えず、空いた棚の奥板を見た。
翌週の招待状には、返事が二通来なかった。次の茶会では四通、その次の晩餐では七通が、都合がつかぬという短い文になった。銀の曇りについて書く者はいなかった。
* * *
「四十年の付き合いだ。今までどおり納めてもらう」
サロモンの店先で、ブレーズは購買帳を開いた。白い缶を三つ、灰色を二つ、仕上げ用を一つ。ラスク伯爵家の印を押した注文書が、磨き粉の袋へ重ねられた。
「売らん」
サロモンは注文書を押し戻した。
「代金なら払う。ブーンがいた頃は納めていただろう」
「その頃の分は、ブーンの奥さんが選んだ」
「粉に誰が選ぶもあるか。同じものを寄越せ」
「同じ粉を持っていって、同じにならなかったんだろう」
ブレーズの指が購買帳の背を叩いた。サロモンは白い缶を棚の奥へ移し、店先の板戸を半分閉めた。
その日の午後、サロモンは灰色の小缶を一つ抱え、町外れの仕事場を訪ねた。元は仕立屋の裏部屋で、北向きの窓と、二人掛けの磨き台がある。台の端には近隣三軒から届いた匙が一本ずつ置かれていた。
イメルダは小缶の蓋を開け、粉を指先で確かめた。
「細かいものを、よく残してくださいました」
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
サロモンはそれだけ言い、代金を受け取った。釣りを数える間にも、銀へは手を出さなかった。
町では、ラスク伯爵家の次の招きへ返事を濁す者が増えた。出入りの商人は納品日を後ろへずらし、近隣の者は銀包みをイメルダの仕事場へ一つずつ運んだ。
「あの家は人手を減らしたわけじゃない。順が抜けたんですよ」
バルナバは近隣の台所口で声を潜めた。聞いた料理人は返事をせず、布包みを抱え直してイメルダの方角へ歩いた。
オデットは勘定部屋へブレーズを呼んだ。机の上には、返事の来なかった招待状と、詫び先を記した紙が積まれていた。
「銀器室の鍵を」
「奥様、あれは若い衆の不手際でして」
「鍵を」
ブレーズは腰の鍵束から一本を外した。オデットは受け取らず、鍵束ごと机へ置くよう手を示した。
「銀器室だけでなく、勘定部屋の鍵もですか」
「明日から、伯爵家の差配へ入る必要はありません」
「十九年いた女が、帳をまともに残さなかったのです。わたし一人の責では」
オデットは鈍った匙を一枚の布ごと机へ置いた。ブレーズの声がそこで細くなる。
「奥様。長くお仕えした者へ、そのような」
鍵束が机へ置かれた。オデットはそれを手元へ引き、呼び鈴を一度鳴らした。
同じ週、修道院から六本の匙がイメルダの仕事場へ届いた。翌日には近隣三軒から銀盆が一枚ずつ運ばれた。添えられた札には、ラスク伯爵家の銀器室ではなく、イメルダ・ブーンへ、と書かれていた。
* * *
朝の窓辺に、刻印入りの匙が立っていた。
修道院から預かった一本で、柄の裏には小さな麦穂が彫られている。イメルダは窓から入る光へ匙を傾け、縁に残った曇りを布でさらった。仕事札には預かり主の名と、その下にイメルダ・ブーンの名がある。
磨き台の向こうでは、講の女衆が豆のスープを椀へ分けていた。煮崩れた豆と玉葱が匙の上で湯気を立て、焼いた黒パンが籠に重なっている。
「冷めちまうよ、イメルダさん」
「この一本で終わります」
「一本と言って三本やる顔だね」
イメルダは布を畳み、缶の蓋を閉めた。仕事場の棚には修道院の六本、近隣の銀盆三枚、その奥には次の週を待つ包みが二つある。どの棚にも、ラスク伯爵家の印はなかった。
椅子へ座り、両手で椀を包む。厚い陶器の熱が指へ移り、窓辺の匙から手が離れた。女衆の一人がパンを割り、半分をイメルダの皿へ置いた。
戸が三度叩かれた。
立っていたのはブレーズだった。家令の上着ではなく、襟の折れた外套を着ている。帽子を胸へ押しつけ、磨き台の銀を順に見た。
「少し、話がしたい」
「スープの席でよろしければ」
女衆は椀を持ったまま場所を詰めた。ブレーズは空いた椅子を見たが、座らなかった。
「伯爵家へ戻ってもらいたい。奥様も銀器室を立て直すおつもりだ。手当については、今度こそ話を通す」
イメルダは椀を台へ置いた。
「お話は奥様からでしょうか」
「いや、まずはわたしからだ。十九年も一緒にやってきたのだ。わたしが戻れば、奥様も考え直される。おまえも、知らぬ家の銀を一本ずつ磨くより、勝手のわかる場所がよいだろう」
「こちらの銀も、勝手を覚えているところでございます」
「だからこそだ。長い付き合いを無駄にすることはない。ラスク家へ戻れば、また以前のように任せられる」
ブレーズは帽子の縁を両手で持ち直した。
「身内のようなものだろう、わたしたちは」
イメルダは窓辺の匙を見た。朝の光が、麦穂の刻印に細く溜まっている。
「わたくしは、身内も同然でございますから」
ブレーズの顎がわずかに上がった。帽子を持つ指が緩む。
イメルダは椀を両手で包み直した。
「お話は承りました。けれど、こちらの銀が朝を待っておりますので」
上がった顎が止まった。ブレーズは磨き台の棚を見た。粉も布も、ラスク伯爵家から持ち出したものはない。仕事札のどこにも、彼が差配できる名はなかった。
「手当は出すと言っている」
「こちらでは、先にお代をお預かりしております」
「十九年だぞ」
イメルダは椀を持ち上げた。豆が一粒、匙の縁からスープへ戻る。
「長うございましたね」
戸口まで送る者はいなかった。ブレーズは帽子を被らず外へ出て、開いた戸を自分で閉めた。
女衆の一人がパン籠をイメルダへ寄せた。
「もう一切れ食べな。朝から指ばっかり働かせて」
「では、端のよく焼けたところを」
「そこはあたしのだよ」
籠の上で二本の手が重なり、焼けた端は半分に割られた。イメルダはそれをスープへ浸し、柔らかくなったところから食べた。
窓辺では、麦穂の匙が朝の光を返している。食事を終えたイメルダの親指が、その柄へ自然に伸びた。擦れていない刻印をひと撫でし、自分の名が書かれた札の前へ、まっすぐ立て直した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




