0007休日その2
役場が休みの日 菫は一人で川に向かった
ホタルの季節も終わりかけ 昼の川は驚くほど静かだった
あの夜 人が溢れていたとは思えない
流れは変わらず 石にぶつかり 音をたてて先へ進んでいる
川沿いの道を歩きながら 菫はふと立ち止まった
村に残ると決めてから何度ここへ通っただろう
都会に行けなかった事
行かなかった事
その違いをまだ言葉にできない
ホタルの説明会の夜
反対の声 怒鳴り声 沈黙
それでも最後に「今年は遣ってみよう」と
皆が頷いた瞬間を思い出す
あの時 菫は気づいてしまった
この村は 簡単には壊れないし 簡単にも変われない
だからこそ 時間がかかる
川面を覗くと 小さな魚の影のように走った
誰かに見せる為でなく ただそこにいる
「悪くないかも」
声に出して 少し照れた
都会だったら こんな独り言すら雑音に消されているだろう
役場の仕事は 地味で 遅くて 感謝されない事も多い
それでも 村の流れのそばに立っている気はする
流れを止める事はできない
でも せき止めづに 曲げずに 見守ることはできる
菫はもう一度 川を眺めてから踵を返した
次にここに来るときは また別の季節だ
その頃自分は村をどう思っているのだろうか
答えはまだ 流れの先にある
月曜日と金曜日のお昼の十二時
その時間になると村の空気がほんの少しだけ浮き立つ
何時も流れる軽くて楽しい音楽
遠くで軽トラックのエンジン音
坂道を登ってくる独特の低い音に 菫は顔を上げる
「来ましたね」
役場の窓から見えるのは 白い軽トラック
荷台に色あせた幌 その横腹に貼られた
「移動スーパー」のオレンジの文字
派手さはないけど この村では立派なインフラだ
「月曜日はパンが多めだな」
私は書類を閉じて立ち上がる
今日は窓口が落ち着いている
二人は示し合わせたように役場前に出た
軽トラックは何時もの場所に停まる
村の掲示板の横 桜の木の下
エンジンが止まると 間を置かずに人が集まり始めた
杖をついたおばあさん
犬の散歩ついでの初老の男性
畑仕事の手を止めた女性
「今日は魚はあるかいな」
「金曜に比べて少ないですけどね」
運転席から降りてきた店員が慣れた調子で応える
荷台の扉が開くと冷気と一緒に日用品が現れた
牛乳 豆腐 納豆 食パン バナナ みかん 少量の刺身
特別なものはない
でも これがあるから村は回っている
「菫ちゃん 今日はヨーグルト残ってるよ」
声をかけられて 菫は少し照れたように笑う
「ありがとうございます 先日買い忘れてて」
私は少し離れたところで その様子を見ていた
誰が何を買うか 誰が来ないか
移動スーパーの日は 村の体調が分かる
「この前のホタル どうやった?」
「きれいやったなあ 歩いたけど ええ夜やった」
女将の顔が思い浮かぶ
あの夜の静けさと 川の光
「車を置いて歩くの 最初は文句が出たけどな」
「慣れたら あれがええ言うとるわ」
店員が会話に混じりながら袋詰めをする
菫は買い物かごを受け取り 役場の方へ戻りかけて 足を止めた
「道の駅 もし出来たら…
移動スーパー どうなるんですかね」
ぽつりと
私は少し考えてから答えた
「なくなるとは限らん
むしろ 使い分けになるかもしれん」
菫は頷いた
「歩いてここに来る人には これが必要ですもんね」
軽トラックの周りには まだ人が残っている
買い物だけじゃない
誰かと話をするために来ている
エンジンが再びかかり
軽トラックはゆっくりと去っていく
見送る手は 誰も振らない
また金曜日に来ると 皆が知っているからだ
役場に戻る途中 菫が言った
「この村静かですけど
ちゃんと動いてますね」
私は小さく笑った
「動いているうちは まだ大丈夫」
昼の光の中 桜の木の陰だけが揺れていた
次に軽トラックが来るまで
村はまたいつもの時間に戻る
ある夜
役場の明かりは もう二階の一部しか点いていなかった
時計は二十一時を回っている
私は蛍光灯の下でキーボードを叩いていた
画面に並ぶのは 見慣れた文字
道の駅誘致検討資料(案)
「検討」
まだ決定ではない その一語に この村の現実が詰まっている
来訪者数の推計
駐車場台数
維持管理費
村の財政規模に対する負担割合
数字は嘘をつかない
だからこそ 扱い方を間違えれば 簡単に人を煽る
私はマウスから手を離し 湯呑を持ち上げた
中身はすっきり冷えた番茶
「…派手に書けば 通るかもしれん」
独り言が 誰もいない部屋に落ちる
「観光客増」「地域活性化」「雇用創出」
並べようと思えば いくらでも並べられる言葉だ
だが移動スーパーのくる時間
杖をついた老人の歩幅
最終バスが十七時四十五分で終わる現実
それらを無視した「成功例」は この村では害になる
私は資料の一項目を書き換えた
想定される効果と同時に
想定される負担・制約についても併記する
赤文字でそう入れる
観光客が増えれば交通はどうなるか
駐車場は足りるのか
夜間利用は住民生活と両立するのか
蛍の夜に決めた あの制限
車を村外に止めさせ 歩いてもらう仕組み
「あれが出来たらな…」
道の駅でも 出来ないわけじゃない
最初から線を引く
あとから揉めるより 先に説明する
ページを進める
村内商店との関係
移動スーパーへの影響
常設化した場合の撤退条件
最後の項目で手が止まった
撤退条件
普通は書かない
夢のある話に水を差すからだ
それでも私は削除しなかった
「続かなかったら やめる」
それを最初に決めておくことが
一番の誠実だと彼は知っている
プリンターが低い音を立て 試し刷りが始まった
紙が履きだされるのを待つ間
窓の外を見る
闇の中に川の気配はない
蛍の季節ももう終わりだ
だがあの夜に見た光は
「人は ちゃんと説明されれば 歩いてくれる」
という確信を残した
刷り上がった紙を揃え 私はファイルに閉じる
「派手じゃないな」
そう言ってから 少しだけ口角を上げた
「でも 嘘はない」
役場の電気を消し 廊下を歩く
靴音だけが響く
道の駅が出来るかどうかは まだわからない
けれど 村を壊さないための準備は
もう始まっている
外に出ると 私は星空の瞬きを見上げ
深く息を吸う
この村は小さい だからこそ
守りながら進むしかない
彼は 資料の入った鞄を肩にかけ
静かな道を家路へと歩き出した




