0006蛍の頃
六月に入ると 夕方の空気が少しだけ甘くなる
温泉旅館の裏を流れる清流では
今年もゲンジボタルが飛び始めた
その日ふるさと振興課の窓口に現れたのは
旅館の女将だった
「役場さんに 相談があってね」
年の頃は六十前後
派手さは無いが 背筋が伸び
言葉に無駄が無い
「蛍の問い合わせが急に増えとるんよ」
菫はメモを取りながら頷く
「夕方に来て 見て帰りたいって人が多くてな
でも」
女将は一度 言葉を切った
「この村 バスの最終が十七時四十五分やろ」
私は頷いた
駅へ向かう最終便だ
「ホタルが出るのは早うて十九時半や帰る手段が無い」
女将は ハッキリと言った
「泊まってもらえたらありがたいけど
無理に泊まれとも言えん」
「車で来ている人も 増えてますよね」
菫の言葉に女将は苦く笑った
「そうや
川沿いに路駐が出始めとる
ライトつけたままの車もある」
私の脳裏に 光る川辺が浮かぶ
静かな水面と 白い光
光が増えたら…終わりやな
「正直言うわ」
女将は 少し声を落とした
「ホタルを 売り にしたい気持ちはある
でも これ以上人が来たら
来年はおらんかもしれん」
菫は ペンを握る手に力が入るのを感じた
この人は守りたいんだ
「役場さんに決めてほしいんやない
ただ どうしたらええか 一緒に考えてほしい」
相談は簡単な要望ではない
増便は予算が無い
夜間運行は運転手の確保が難しい
駐車場整備は環境への影響が出る
「一つだけ確認させてください」
私は静かに口を開いた
「女将さんは 見せたい ですか
それとも…」
女将は迷わず答えた
「残したい」
その一言で部屋の空気が変わった
菫は思った
観光客でも役場でもない
この村で商売をしてきた人の言葉だと
「…分かりました」
菫は顔を上げた
「泊まらないと見られない じゃなくて
泊まると ちゃんと見られる 形を考えませんか」
女将はゆっくりと頷いた
外では まだ明るい夕空の下
静かに水は流れている
今年のホタルは
町の覚悟を試しているようだった
町内説明会は平日の夜に開かれた
場所は公民館 古い蛍光灯の白い光が
集まった顔を均等に照らしている
前列には 温泉の女将
その斜め後ろに 菫と私
壁際には 腕を組んだ地元の年配者と
少し距離を取る若い世代
最初に説明したのは 役場ではなく女将だった
「今年もホタルが出始めとります」
ざわり 空気が動く
「ありがたいことに 問い合わせも増えとる
けど 正直に言います」
女将は逃げなかった
「このまま人が増えたら
来年はホタルがおらんかもしれん」
「また観光か」
後方から 低い声が飛ぶ
「去年も車が増えて 夜うるさかったぞ」
女将は頷いた
「せやから 今年は 制限 をかけたい」
資料が配られる
役場前駐車場に車を集約
川沿いへの自家用車侵入禁止
徒歩での観察
宿泊者を基本とする案
「客が減るんとちゃうか?」
「歩かせるなんて 誰が来るんや」
一気に声が重なる
その時 菫が前に出た
「減ると思います」
一瞬ざわつきが止まる
「でも 減らしたいんです」
菫は深呼吸をして続けた
「写真だけ撮って帰る人より
静かに見て 町に泊まって
また来たいと思ってくれる人に来てほしい」
年配の男性は言った
「若い人は来んようになるんちゃうか」
「逆です」
菫ははっきり答えた
「ちゃんと歩ける人
暗さを楽しめる人はきます」
少し間を置く
「この村のホタルは便利の代りに
残ってきたものです」
沈黙が落ちた
私は静かに補足する
「今年はあくまで試験的実施です」
全員の顔を見る
「合わなければやめます
来年 元に戻す判断もします」
「責任は?」
誰かが問う
「役場が持ちます」
私は迷わず言った
「判断した結果が悪ければ
改善案を出すのも役場の仕事です」
女将は最後に言った
「私は泊ってくれる人を守りたい
それだけです」
暫く沈黙の後
前列の一人がぽつりと口を開いた
「静かになるなら ええか」
「試しなら まあ」
「今年だけやな」
次々に 頷きが広がっていく
課長代理がまとめた
「では今年はホタル観察は 試験的に制限付きで実施します」
拍手は起きなかった
けれども誰も反対しなかった
説明会が終わり 椅子が片付けられた
女将が 菫に小さく頭を下げた
「ありがとうな」
菫は首を振った
「私も…この村のホタル 好きなんです」
外に出ると 夜風が涼しかった
まだホタルは飛んでいない
でも今年は
静かに飛べる場所が 守られた
数日後 夜七時半
役場前の駐車場には 思ったほど車は多くなかった
係員の腕章をつけた私は 懐中電灯を下に向けて立つ
光は弱く 足元だけ照らす
「ここから先は ライトを消してください」
声も低く
観察場所へ続く道は 仮説のロープで区切られていた
舗装路を離れ 土の道になると
足音が自然と小さくなる
菫は少し後ろを歩いていた
歩いてくる人達は 誰も急がない
話し声もほとんどないt梅拓
ちゃんと伝わってる
川に近づくにつれ 空気が冷たくなる
最初の一つが飛んだ
誰かが息を吸う音だけがした
白く 淡い光
点いては消え また点く
一つ 二つ 三つ
やがて川面の上にゆっくりと増えていく
写真を撮ろうとする人はいない
スマートフォンは ポケットの中だ
水の流れる音
葉が触れ合う音
遠くで 温泉旅館の戸が閉まる音
女将が少し離れた場所で立っていた
客に声をかける事もなく
ただ 川を見ている
これでええ
そう言っているように見えた
菫は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた
都会では夜は明るすぎた
ここでは暗さが守られている
人が我慢した分だけ 光が戻って来ている
私は川辺に立ち 動かなかった
指示を出す必要もない
制限は守られている
役場前に残した車の鍵
歩いた距離
夜の不便さ
それら全部が この光と引き換えだった
川の上で二匹のホタルが交差する
一瞬 同じ光を放ち また離れる
誰かが囁くように言った
「きれいやな」
それだけで十分だった
暫くして女将が小さく合図を送る時間だ
名残惜しそうに 人々がゆっくりと道を戻る
騒ぐ者はいない
最後に 菫が振り返る
川はもう暗い
ホタルは静かに消えていく
来年も
そう思えた夜だった




