0024温泉旅館にて
三月の最後の週末
山の空気はまだ冷たいが
日差しには春が混じっていた
菫は 午前中に洗濯を済ませてから
そのまま温泉旅館の方へ歩いた
観光客向けではない 村の人が通る裏道だ
玄関をくぐると
ふわりと温かい空気が流れてくる
「あら 菫ちゃん」
女将が帳場から顔を上げた
「お休み?」
「はい 今日は完全に」
「珍しいな」
菫は笑う
「たまには 何もしない日も必要かなって」
女将は 湯呑を差し出した
「座っていき
今日は団体もはいってへんし 静かやで」
縁側に腰を下ろすと
川の音が近くに聞こえる
「最近 忙しそうやな」
「まあ…少しだけ」
「少しだけ は信用ならんな」
二人で笑う
「でも」
女将は湯気の向こうで行った
「前より 顔が硬うない」
菫は 一瞬だけ言葉に詰まった
「そうですか?」
「うん
決めなあかん顔 から
進んでる顔 になった」
菫は 川を見る
「決まっただけで
何も出来ていないんですけど」
「それでええ」
女将はきっぱり言った
「決まらんまま
歳だけ取る方が しんどい」
近所の女子高校生が二人
自転車がやってきた
「こんにちはー」
「お 今日は休みか?」
「はい」
菫は少し離れたところに座る
「道の駅 どうなるんですか?」
屈託のない声
「まだ これから」
「でも 出来るんですよね」
「出来るかどうかを ちゃんとやる 感じ」
「難しい言い方」
「仕事なんで」
高校生は笑う
「でもさ」
別の子が言う
「ちょっと楽しみ」
「何が?」
「人 来るやろ」
「うん」
「でも
村の人も使えるやつやったら ええな」
菫は頷いた
「それは 私もそう思っている」
暫く 他愛のない話が続く
学校の事
進路の事
村に残るかどうか
「都会 行ってみたいなあ」
「うん」
「でも 戻ってきてもええかな とも思う」
「どっちでもええんちゃう?」
菫は そう言った
「選べるってだけで 結構 強いから」
昼どきのピークを過ぎて静かだった
湯上りの客が数人いるだけで 川の音が聞こえる
菫は二人を待っていた
ほどなくして 葵とさくらが並んで入ってくる
「こんにちは」
「お疲れさん
今日は仕事とちゃうから 気楽に座って」
三人は 同じテーブルを囲んだ
湯呑から 湯気が立ち上がる
「三月も もう終わりやな」
菫が何気なく言う
「はい」
「四月ですもんね」
言葉は軽いが
その先に何があるかは 全員分かっている
「高校三年生 か」
菫は二人を見る
「実感ある?」
さくらが 少し笑った
「ないです
でも 避けられない感じはあります」
葵は 黙って頷く
料理が運ばれてくる
地元の野菜を使った 素朴な定食だ
「進路の話
今日は 結論 は出さんでええから」
菫は 箸を持ちながら言った
「今 考えているかだけ 聞きたい」
さくらが先に口を開いた
「私…」
一度 息を吸う
「道の駅 出来るなら
ここで働きたいなって思ってたんですけど」
「この前 農家さんと話して」
「ここやと 逃げられへんなって」
「顔知ってるから 手抜いたら 直ぐ分かる」
菫は 微笑んだ
「それ 一番しんどくて 一番強い理由やな」
次に 葵が箸を置く
「私は…」
言葉が続かない
「まだ 決めきれてないです」
「うん」
「看護の勉強は ちゃんと意味あると思ってる」
「でも」
窓の外を見る
「ずっとここか 一回外に出るか
どっちが正しいか分からなくて」
菫は直ぐには答えなかった
一口 味噌汁を飲む
「正しいかどうか で考えんでええ」
「え?」
「自分が納得できるか で考えたらええ」
葵は少し驚いた顔をした
「出てみて 戻らんでもええ」
「戻りたなったら 戻ったらええ」
「どっちも 逃げやないから」
さくらが 横で言う
「私も 決めたんですけど」
「うん」
「途中で変わる気 ちょっとしてます」
三人で笑う
「それでええ」
菫は きっぱり言った
「進路って 一回決めたら終わりやない」
「考え続けることやから」
食事処に
別の客の笑い声が響く
「こうして話せてる時点で」
菫は二人を見る
「もう 一歩進んでいる」
菫は 少し肩の力を抜いた
「…焦らんでいいんですね」
「焦らんでええ」
「でも 考えるのをやめたらあかん」
二人は 同時に頷いた
外を見ると川沿いの梅が色づいていた
未だ満開ではないが 確実に春だ
夕方 帰り際
女将が言った
「また来な
仕事でも 仕事じゃなくても」
「はい」
三人は玄関で一礼する
それぞれ違う気持ちをもったまま
同じ風の中を歩いた
空が少し赤くなっていた
それで十分だった




