0017実習の頃
実習室に入ると 空気が少し張りつめていた
白いカーテン 低い照明 整えられた器具
其処は教室でありながら 病室に近い雰囲気を持っていた
「今日は新生児の沐浴実習です」
教員の声に 葵は背筋を伸ばす
机の上には 小さなバスタブと新生児モデル
想像していたよりも ずっと小さい
最初に教えられたのは 触れる前の準備だった
手洗い
消毒
爪の長さ
「新生児は皮膚がとても薄いです
力加減だけでなく 清潔であることが何より大切です」
お湯を張る
温度計は使わず 手首で確認する
「三十八度前後
大人が 少しぬるい と感じるくらいが適温です」
葵はそっと手を浸した
思っていたより 頼りない温かさ
次に人形を抱き上げる
「首は 必ず支えて
首と背中は 一体で考えます」
左手で首元を支え
右手で背中からお尻にかけて包む
軽い それが怖かった
「声をかけてあげてください」
「今から お風呂だよ」
思わず 小さな声になる
教室なのに 自然と音量を落としていた
足先から ゆっくりお湯をいれる
反応を確かめる様に 動きを止める
「急がないこと」
ガーゼで体をなぞる
洗う というよりも 触れるに近い
「力はいれません
落とす より 守る 意識で」
顔は最後
目や口に水が入らないよう 角度を変える
一つひとつが 細かい
だが どれも理由がある
沐浴が終わると 直ぐにタオルで包む
「冷えは 大きな負担になります」
水気を押さえるように拭き
再び 優しく声をかける
実習が終わった瞬間
葵は 思わず深く息を吐いた
「どうでしたか」
教員が問いかける
「…簡単じゃなかったです」
葵は 正直に答えた
「でも 一つでも雑にしたら危ない って
ずっと思ってました」
教員は静かに頷いた
「それが大切です
今日学んだのは 技術だけではありません」
「命の始まりに 責任を持つということです」
実習室を出ると 廊下の光が少し眩しかった
いつもの学校の音が戻ってくる
葵は 自分の手を見下ろす
さっきまで 命を守る前提で使っていた手
この仕事軽い気持ちでは出来ない
そうはっきり分かった
看護職になるということは
目立たないところで
命の一番弱い瞬間を支えることなのだと
葵は その重さを 静かに受け取っていた
実習楝の裏に広がる畑は 朝露を含んでいた
長靴の底に土がまとわりつく
「今日は 農業体験から入ります」
教員の声は 教室より少しだけ低い
ここでは 声を張る必要はない
さくらは 軍手をはめ直した
同級生たちも同じように 鍬や収穫かごを手に取る
「この授業は 食を作る 前に
作られる現場を知るためのものです」
畝に並ぶのは 季節の野菜
形は揃っていない
だが どれも土の色をしている
「市場に出るのは ここから選ばれた一部や」
地元の農家が そう言って笑った
「味は変わらん 見た目だけや」
さくらは 手に取った野菜の重さを確かめる
土がついたままの感触は
パックに入ったそれとは まるで違った
次は 室内での講義だ
黒板には 矢印でつながれた図が描かれる
生産 加工 流通 消費
「食品に関わる仕事は 作る だけでは終わりません」
教員がいう
「安全 表示 価格 責任
どころか一つ欠けても 成立しない」
さくらはノートを取りながら思う
村で話題になっている 道の駅のこと
直販所
加工品
表示と管理
全部ここにつながっている
午後は生産者を招いた話を聞く時間だった
果樹農家 加工品を作る人 出荷を担う人
「地産地消って ええ言葉やけどな」
一人が言う
「近いから安心 じゃない
近い分 顔が見える
それが 怖くもある」
別の人が続ける
「間違えたら 直ぐに信用なくなる」
教室は静かだった
「せやから」
農家は最後に言った
「一緒に考えてくれる人がおると 助かる」
さくらは その言葉を胸の中で反芻する
食品衛生を学ぶということは
誰かの仕事を 軽くしないことだ
授業の最後 レポート課題が出された
地域の食を どう次につなぐか
答えは一つじゃない
だが 現場を知らずに書けるものでもない
帰り道 夕方の風が畑を抜ける
さくらは土の匂いが残る手をみた
作る人と 食べる人の間に立つ
それが
自分の選んだ道なのだと
少しだけ はっきりした
命の始まりに寄り添う葵の学びと同じように
食の始まりに向き合う責任が
さくらの中にも 静かに根を下ろしていた
消灯迄 まだ少し時間があった
寮の部屋は 机のスタンドライトだけが点いている
葵はベットの下段に腰を下ろし ノートを閉じた
さくらは椅子を回して 背もたれに体を預けている
「今日さ」
葵がぽつりと言った
「沐浴の実習やってん」
「新生児の?」
「うん」
少し間を置いてから 続ける
「思ったより 怖かった」
さくらは 直ぐに聞き返さなかった
それが いつもの二人の間合いだ
「軽いんよ」
葵は 自分の腕を見た
「軽いのに 雑にしたらあかんって ずっとおもってて」
「それは 分かる気がする」
さくらが言う
「今日 農家さんの話聞いたんやけど」
椅子を少し前に引く
「野菜もな 作るとこ見たら 商品 って言葉
簡単に使われへん」
葵は顔を上げた
「どういうこと?」
「形悪いだけで弾かれるやつとか
味は同じやのに 行き先決まってしまう」
「ああ」
「近いから安心じゃなくて」
さくらはゆっくり言葉を選ぶ
「近い分 責任が近いんやって」
葵は昼間の教員の言葉を思い出していた
冷やさないように
急がないこと
「看護も 似ているかも」
葵が言う
「出来るからやる じゃなくて
出来る様に整えてから やる」
「それ」
さくらは小さく笑った
「今日は 道の駅のこと考えてた」
「やっぱり」
「食品表示とか 管理とか
やりたい より先に
守れるか って思った」
葵は天井を見上げる
「人が来る場所って
楽しいだけやないんやな」
「せやな」
少し沈黙が落ちる
「でもさ」
さくらが言った
「今日の授業 嫌じゃなかった」
「うん」
「むしろ
ちゃんと向き合う場所なら
関わりたいって思った」
葵は静かに頷いた
「私も」
スタンドライトを消す
暗くなった部屋で
二人はそれ以上話さなかった
それぞれ違う学びを
同じ村につなげられた
その夜
二人は少しだけ大人になって眠った




