第19話「土の拍動、重さの歌」
訂歌の札が街に馴染み始めた頃、王都の地面は“深呼吸”を覚えたかのようにわずかに上下した。
太鼓は正しく鳴る。凧鈴も気持ちよく揺れる。だが、足の裏の遠いところ――石畳のずっと下で、鈍い拍が、遅れて返ってきた。
「……地が、息をしている」
ミュナが祠の縁でしゃがみ込み、掌で石を撫でた。揺枝の先がほんの少し重く垂れる。
イリスは秤印の灯籠を地面に近づけ、炎の柱の太さを測る。
「“下からの拍”。数値がゆっくり増加しています。周期は八、振幅は小さいけれど、確実に太っている」
レイナは踵で石畳を軽く叩いた。
「踏み込みの底が、いつもより深い。剣の起こりが、地に吸われる感じ」
セレスティアは王路の中央で短く息を吐く。
「第七天――“土”の来訪。……来るわ」
その日の正午、王都北の石切り場から急使が駆け込んだ。
「石壁が鳴っています! 槌が、勝手に重くなるんです!」
俺たちはすぐに現地へ向かった。空気は乾き、埃が太陽の光を薄く曇らせている。巨大な石壁に階段状の切り口、そこかしこに転がる石材。
と、その石面が――低く、喉を鳴らす獣のように震えた。
『軽さは嘘、速さは逃げ、風は移り気、火は昂ぶり、秤は口やかましい。……土は置く。置かれてこそ、歩ける』
声は石の中から来た。
石面の割れ目に、ゆっくりと人影が立ち上がる。
褐色の肌、苔のように緑がかった短髪、厚い肩。衣は粗い布だが、その皺一つが地形のように落ち着いている。瞳は土壌の断面――幾層もの時間を重ねた、深い色。
『第七天の使い、“地拍のオルガ”。』
名乗りと同時に、足元の土が一拍、重く沈む。
『お前たちはよく歌った。輪を作り、秤に鞘をかけ、風を見せ、噂に帰路を置いた。……ならば、重さを分けろ。重さの歌を持て』
石切り場の若者が槌を肩に載せたまま、汗で濡れた額を上げる。
「お、重さの、歌……?」
『そうだ。誰がどれだけ持ち、どこで置き、いつ替えるか。誰が“重かったか”を見えるように。そうでなければ、重さは弱い者の膝を折る』
オルガの言葉に、周囲の空気がわずかに濃くなった気がした。
俺は王鈴を胸の前に置く。鳴らさない。形だけで、地の拍に“空白の底”を添える。
「受ける用意はある。……けれど、“誰にどれだけ”は、秤が要る」
イリスが頷き、携えてきた薄板を広げる。そこには簡素な表が描かれていた。
「『荷の輪表』。一輪で持つ重量、交代の拍、休息の“離れ”――すべてを、見えるように」
レイナは槌を借り、重心のかけ方を示す。
「踏み込みは“いち・に・置く”。上体は“さん・し・渡す”。“ななで運ぶ”。ひとりで背負わない。足の裏で受ける」
カイルは太鼓を低く鳴らし、工夫たちに短い節を繰り返し教える。
「《持ち替えの歌》――『いちでよこして、にでとる、さんでさがって、しで息、
ごでささえる、ろくで寄る、ななで運ぶ、はちで置く』」
ミュナは揺枝を肩にあて、筋のこわばりを緩める“芽吹きの拍”を添えた。
「硬くなったところは“ふくらませる”。芽は重みがあっても、ふくらめば折れにくい」
オルガは黙って見ていたが、やがて顎を引いた。
『悪くない。だが、重さは“配られた量”だけではない。“踏んだ時間”、 “待った時間”、 “支えた沈黙”。それも重い』
イリスが灯籠の炎を細くし、「時間秤」を取り出した。
「“重さの記録”に“拍の長さ”を加えます。持った総重量ではなく、“重さ×拍”で記す。名前も刻む」
石切り場の長が腕を組み、渋い声で言った。
「誰がどれだけ持ったかを、後から揉めないよう、俺たちの目でも見届けよう」
セレスティアが短く頷く。
「王都でも同じ。“重さ×拍”で賦役を再編成。見えない重さを可視化する。……第七天の要請として布告する」
オルガの眸が、ほんの少し柔らいだ。
『“見せる”なら、土は答える。見せずに押しつけるのは、土への冒涜だ』
その時だ。
遠くで、鈍い崩落音が響いた。石切り場の反対側――古い坑道の方角。人々のどよめき。
「地下倉の梁が落ちた!」
俺たちは走った。
坑口は低く、空気は重い。内へ入るほど湿り気が強く、足元が吸われる。支柱は古い。木はところどころ黒く、年輪の奥に疲労が溜まっている。
崩れた梁の下には、二人が挟まれていた。片方は足。もう片方は肩。周りにいた者たちは手当り次第に梃子を差し込もうとしていたが、どれも“底”を外している。
「“底”を先に置け!」
俺は叫び、石の欠片で楔の位置を示した。
「“いち・に・置く”――“さん・し・見渡す”。“ご・ろく・決める”。“ななで運ぶ”。“はちで受ける”」
カイルが太鼓で指示を刻み、レイナが力の流れを読み替える。
ミュナが挟まれた肩に揺枝を添え、痛みの波を“拍”に変えていく。「痛みは“裏”でもいい。表に乗せなくていい」
イリスは時間秤を挟まれた側へ向け、支え続ける者の“重さ×拍”を記録する。
オルガが無言のまま、梁の根元に掌を置いた。土が、ゆっくりと息を吐く。“底”がわずかに上がる。
やがて――梁が持ち上がった。
足の男が引き抜かれ、肩の男が、皆に抱き上げられた。
坑道の外へ出ると、光がまぶしかった。
救い上げられた二人は、涙と汗で顔を濡らしながら、何度も息を吐いた。
その肩へ、オルガが短く手を置く。
『重かっただろう。……次は、替わりを頼め』
石切り場での救助を終えた頃、王都からの使いが再び駆け込む。
「市場の地床が沈んでいます! 荷が集まりすぎて、“受け皿”が軋んでいる!」
俺たちは市場へ戻った。
果実や穀袋、鍋釜、布束。輪で運ばれ、祠へ集められ、分配を待つ荷の“重さ×拍”が、受け皿に滞ったまま増えている。
“帰ってくる街”の仕組みは生きている。けれど“帰ってきた重さ”が、受け皿に蓄積し始めていた。
「“受け皿”にも離れを」
セレスティアが即断した。
「受け皿は“受け続ける器”ではない。“渡す器”。……“受け皿の離れ”を制度化する」
イリスが補足する。
「受け皿の底に“逃げ道”を作ります。『はちで受ける』の後ろに、『九で流す』。流し先は“歩台”――移動式の小さな台車祠」
カイルが太鼓で新しい節を提示する。
「《うけたら ながす またうける》」
ミュナが歩台の取っ手に揺枝を添え、押す手の肩に“芽吹き”を置く。
レイナは市場の床目に白粉で「受→流→受」の矢印を描き、荷の向きを目で分かるようにした。
オルガは市場の中央で膝を折り、掌で石を押し撫でた。
『良い。“底”は、移るためにある。底が固定されれば、受け皿はいつか砕ける』
救助と再編が一段落した頃、オルガが俺の前に立った。
『整律官。重さの歌は、置いた。……だが、もう一つ。土は“残るもの”を欲する』
「残す?」
『“重さ×拍”の記録を、歌にする。……“詠”。背負った者の名を、輪の中で、祠の前で、定例で唱える。
栄誉ではない。“残り”。重さは残る。残ることを、残す』
俺は頷いた。
「“詠帳”を作る。『今日の重さ』を記す。歌う時は、必ず“離れ”と“迎え”を挟む。……誇りでなく、帰る拍の一部として」
イリスが記録様式を書き起こし、ミュナが詠む調べを柔らかく整える。
カイルは太鼓で基礎の脈を置き、レイナは“詠の前後に剣を置かない”という規矩を皆に示した。
セレスティアは布告する。
「“詠”は罰ではない。賛美でもない。帰ってくる街の“覚え”。……王都の新しい柱にする」
夕刻。
王路の祠前で、初めての“詠”が行われた。
書記が詠帳を広げ、名前と“重さ×拍”を読み上げる。声は淡々としていて、熱はない。
けれど、その間に、太鼓はゆっくり息を置き、王鈴は浅く鳴り、凧鈴はひとつ下がった。
立って聞く者、座って聞く者、輪から少し離れて聞く者。
聞き終えた後、全員で短く息を吐き、「《やすむ・し》」と呟き、また目の前の拍に戻っていく。
オルガが石段に腰を下ろし、こちらを見た。
『“詠”を、軽くしないのが良い。軽くすれば、土は怒る。重くしすぎれば、心が折れる。
……今日は、ちょうどいい』
「明日も、その次も、揺れるだろう」
『揺れよ。土は揺れを“層”に変える。層は、街の根になる』
オルガは立ち上がり、石壁へ掌を当てた。
『一つ、条件だ。重さの歌に“盗み”を入れるな。重さを、誰かの名誉で奪うことを禁じよ』
セレスティアが即答した。
「“詠”の転売を禁じる。記録の政治利用を禁じる。……王命として刻む」
イリスが満足げに頷き、記録に「禁詠の条」を加筆する。
オルガは土の中へ戻っていく……と思いきや、足を止めて振り返った。
『最後に、歌を一つ教えよう。“肩替え歌”だ』
低い声が、一拍ずつ、確かに地を踏む。
「《ひとつの肩に みっつの手
ふたつの足に よっつの地
みっつの息で ひとつの荷
よっつの“離れ”で もどる道》」
子どもたちが真似をして、笑って、肩に手を載せ合う。
重さは遊びではない。けれど、遊びを知る重さは、折れにくい。
夜。
高殿の回廊で、オルガが最後の言葉を残した。
『土は置いた。……次は“星”だろう。遠い拍。お前たちの歌が、どこまで届くか、試される』
胸の刻印が、今度は遠雷ではなく、微細な星砂のざわめきで応えた。
王都の空は高く、星が多かった。
王路の詠は短く、その後の静けさは長かった。
“重さ×拍”の記録は祠の壁にかかり、人々はそれを見上げては、息をひとつ吐いて歩き出す。
受け皿は受け、流し、また受ける。
歩台はゆっくり街を巡り、凧鈴は子どもたちの手で夜風を撫でる。
俺は鈴を胸の前に置き、歌った。
「《いち・に・置く さん・し・見渡す
ご・ろく・決める ななではこぶ
はちで受ける 九で流す
やすむ・し むかえにいく
いちど離れて ふたたび戻る》」
地は返事をした。深く、静かに、しかし確かに。
その拍は、街の骨になっていく。
――――
次回:第20話「星の遠拍、届く歌と届かない祈り」