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第17話「風の笑い、拍を乱す者」

 その朝の王都は、いつもの太鼓が妙に“軽かった”。皮が緩んだわけではない。叩けば響く。けれど、響きが次の建物の角を曲がる頃には、なぜか一拍、どこかへ消えている。

 輪路に並んだ布が、同じ風で違う向きに揺れた。赤は南、青は東、白は天へ。拍の旗が互いに嘘をつく。

 ミュナが祠の縁で揺枝を握り、耳をすませる。

「……笑ってる。風が」

 確かに、石畳の隙間や、欄間の彫りの中で、誰かがこっそり肩を震わせている気配があった。

 セレスティアが王路の中心へ一歩。深紅の瞳が朝の光を掴む。

「来たわね、第六天。拍そのものを弄ぶ者」


 イリスは早足で計測台へ上がり、秤印はかしいん灯籠の火に指をかざした。炎が細く伸び、突然、二本に裂ける。

「……“二重拍ダブルカウント”」

 彼女が低く告げる。「一つの拍が二つに分かれ、次の拍が痩せる。計測が滑る」

 レイナは剣を半ば抜いて、刃を“置く”。

「剣の所作も狂う。踏み出す前に地が逃げる感じ……気に入らない笑い方ね」


 その時、王鈴の音が――ずれた。確かに正音で鳴らしたはずなのに、耳に着く瞬間だけ半拍早く、半拍遅く、二つに割れる。

 空がすっと青を深め、旗がひとまとめにひるがえった。

 屋根の上、風見鶏の影から、ひとりが歩み出る。

 銀色の髪、透明な薄布を幾重にも巻いた衣。裸足。瞳は色を持たず、空の反射だけで笑っている。


『第六天の使い、零拍れいびょうのゼフィール』

 風は名乗りと同時に、人の輪の間をするりと抜けた。音が背中を追う前に、言葉が口からずり落ちる。

『歌、鈴、秤。どれもご立派。だから、指先ひとつで、崩したくなる』

 言うと同時、彼は指を弾いた。弾かれた空気が粒になって飛び、屋台の太鼓の皮を震わせ、別の路地の王鈴を勝手に鳴らす。

 拍は増えたのではない。“横取り”されたのだ。


「——拍泥棒」

 俺は鈴を胸の前で逆さに構えた。鳴らさない。形だけを風の中に置く。

「“いち・に・とまる”」

 輪に集う人々の肩が、一斉に落ち……ない。揺枝が一瞬だけ遅れて震え、子供の足が先に止まり、親の肩は半拍遅れ、老女は止まる代わりに息を漏らした。

 ゼフィールの笑いが、樋を駆け下りる雨水のようにさらさらと走る。

『止まる? じゃあ、止まる前を止めたらどうなる?』

 笑いの粒が、呼吸の“吸う”と“吐く”の間の細い一筋に入り込む。音が、崩れる。


 カイルが太鼓を抱え直し、膝で地を打った。

「“ひと呼吸、膝で受ける”!」

 太鼓ではなく、足。踏み締めの拍を先に置く。皮は風にさらわれても、地面は奪われにくい。

 レイナが剣の柄で石畳を“置き”、ミュナが揺枝で人のきびすを撫でる。

 崩れかけた拍が、かろうじて“底”を見つけた。

 イリスは秤印を風から隠すように両手で囲い、素早く言う。

「整律官、拍を“縫い止める”必要があるわ。——固定ではなく、仮止め」

「“錨拍いかりびょう”だな」

 俺は頷き、鈴を逆さにしたまま、王路の四隅に目だけで印を置く。

「祠と角楼に“凧鈴たこすず”を上げる。風を掴むための鈴。——ミュナ!」

「はいっ!」

 巫女たちが素早く長い紐を引き出し、紙と細い骨でできた四角い凧に鈴をくくりつける。揚げるのは子どもたちだ。小さな手が、風を“遊びながら”掴む。


 ゼフィールは小首を傾げ、愉快そうに拍手した。

『いいね。風は遊び相手を好む。……でも遊びは、いつだって勉強を壊すよ』

 その瞬間、凧がいっせいに揺れ、鈴の音がばらばらに弾けた。

 “鈴の合唱”が逆相ぎゃくそうになり、決め歌の拍に“裏拍うらびょう”の影が差す。

 裏拍は悪ではない。だが、「誰が先に息を吸うか」が見えない時、裏拍は足元を掬う。


「裏を、表に」

 俺は短く言い、胸の刻印に指を当てた。

「《いち・裏・に・裏——とまる》」

 決め歌の構文に、明示の“裏”を差し込む。見えないものを見える名前で呼ぶ。

 ミュナが即座に追い、巫女たちが二声目を重ねる。「裏」を歌にすることで、迷いが“場所”を得る。

 カイルは太鼓を「表・裏」と叩き分け、レイナは足の置き石を一つずつずらし、踏む場所に白粉で小さな点を打つ。

 イリスは灯籠の炎を二重にし、揺れ幅の“左右”を記録に残す。

 ——拍は乱れる。なら、乱れごと“譜面”にする。


 ゼフィールは笑って、屋根の端を滑った。

『名前を与えるのが好きだね、整律官。じゃあ、名のない笑いをひとつ』

 彼は王路の真ん中で、指を口元に当て、「しっ」と言った。

 たったそれだけで、広場の音が“恥じらい”を覚えたように、内へ萎む。

 叫ぼうとした声が自分に当たり、跳ね返る。

 笑いを取られた子が、泣くに泣けない顔でこちらを見る。

 ——風は、音の前段、「出るつもり」の芽そのものを撫でる。


「“声の受け皿”を外に出す」

 俺は即興で手旗を掲げた。王路沿いの布のあいだに、丸い輪の絵を描いた布を挟む。

「声は、この輪に投げろ。輪が噛む」

 人は、耳ではなく目で輪を見て、声を輪に向ける。輪は“恥じらい”を受け取る器になる。

 ゼフィールの「しっ」は輪に当たって砕け、砂になった。


 怒ったのは、ゼフィールではなく、黒笛の残党だった。

 彼らは風の加護を得ていた。笛を吹く前に、風が笛孔てきあなに指を置き、奏者より先に音を選ぶ。

 市場門から工房門まで、三方から“浮足立ち”の合奏が押し寄せる。

 表が裏に引きずられ、裏が表を笑い、足は前に出るようで、斜めに滑る。

 輪路の“受け皿”が揺れ、秤印の炎がすりガラス越しみたいに曇る。


「散る!」

 レイナが叫ぶ。騎士たちが細い路地へ流れ、一本一本の筋で“表・裏”を拾い直す。

 カイルは太鼓隊を二つに割り、一隊は表、一隊は裏を担当。

 ミュナは子どもたちの凧を見上げて叫ぶ。

「凧を“八の字”に! 風の“回り”を見せる!」

 子どもたちが歓声を上げ、糸を操る。空に描かれた八の字は、風の渦を“見える線”にした。

 ゼフィールの笑いが一瞬だけ途切れる。

『見えるの、嫌い』

 彼は指を弾き、八の字の交点に“無風”を落とした。凧がふっと力を失い、空で止まる。


 イリスがさらうように叫ぶ。

「交点に“錨拍いかりびょう”!」

 俺は王鈴の形をそこへ置いた。鳴らない鈴の輪郭が、空の一点で“重さ”になる。

 凧の鈴が一拍だけ“地”を得て、次の風を掴み直した。

 ゼフィールが一度だけ、わずかに目を丸くする。

『空に地、を置く? 面白い』


 小一時の押し引き。

 王路と路地、屋根と空。

 笑いと声、表と裏、受け皿と空白。

 風は形を持たない。けれど、形を嫌うあまり、形の輪郭に敏感だ。

 俺たちは「輪郭」を増やした。

 ——見える裏。見える風。見える交点。

 ゼフィールは、そのたびに新しい笑いを出してくる。

 たとえば「借り笑い」。誰かの笑いを半拍だけ遅らせて別の人に貼り付ける。

 たとえば「置き忘れ」。さっきの“息”を今さらポケットから出してくる。

 たとえば「揺り椅子」。座っていない椅子が前後に揺れ、立っている人の膝が勝手に“座る準備”をする。


 セレスティアは王路の中央で、行政の拍を一段上げた。

「布告。“風見祠かざみのほこら”を仮設。凧鈴は街区ごとに一基。——子どもの管轄とする」

 周囲がどよめく。

「良いの?」とレイナが眉を上げる。「子どもが“公器”を?」

 王女は平然と頷いた。

「風は遊び心を好む。大人が縛れば拗ねる。——秤と王鈴は巫女と監察、風見は子。三本柱で風を受ける」

 イリスが小さく満足げに笑い、記録に書きつける。「三機能分散。偏りに強い」


 ゼフィールが頬杖をつき、屋根の棟で寝転がる。

『王女、君、好き。……怒られるのも、笑われるのも、同じくらい面白がれる人』

「面白がっている暇はないわ」

 セレスティアが真っ直ぐ見返す。「王都は帰ってくる街。帰る拍が乱されるなら、乱れごと受ける仕組みを置く。それだけ」

『帰る? 良い言葉。じゃあ、“迷い帰り(リルート)”を贈ろう』

 ゼフィールがくるりと身を翻した瞬間、王都のあちこちで、帰路の標が半拍ずれて回転した。

 自宅へ向かっていた足が、似ている路地へ吸い込まれる。

 受け皿を目指した者が、受け皿の“裏側”に立つ。

 「帰れる街」は、帰れるだけに、“帰り間違い”に弱い。


「“迷いの輪”を作る」

 俺は即座に歌を置いた。

「《まよったときは いちど 高いところへ》」

 歌は単純だ。迷ったら、上へ。

 凧鈴がそれを聞き、風見祠から細い糸が垂れる。

 子どもたちが糸を引いて、迷った大人の頭上でくるくると輪を作る。輪の下に立てば、風が背中を押し、“正路”の方向だけが軽い。

 イリスがうなずく。「重力の可視化ならぬ、風圧の可視化。秤も読める」

 レイナが迷い子の肩を押し、「前。——今は前」と短く告げる。


 黒笛の合奏が、息切れを始めた。

 風の加護は絶大だが、持久は人の胸次第だ。

 彼らの胸は、偽声で鍛えられていない。

 “裏拍”を使い続けた足に、乳酸のような鈍い重さが溜まる。

 カイルの太鼓が、そこで効く。

「“やすむ・し”!」

 休む拍は敵にも届く。

 休めば、風の借り笑いが剥がれる。

 剥がれた拍は、自分のものだ。

 剥がれた者から、輪へ戻る者がいた。黒笛の中にも、ひとり、ふたり。


 ゼフィールはそれでも笑っていた。

『休みを、敵にも。君の歌の“甘さ”は、風に合う。——なら、最後に一つ、君専用のいたずら』

 風の粒が、俺の周りに集まる。

 胸の刻印の拍が、ゼフィールの指に摘まれて、半拍ずれる。

 視界の端で、ルミナの光が波打った。

『リオン、息を“置き換え”なさい』

 置き換え?

 ゼフィールがすぐ目の前まで来て、囁く。

『君の拍を、君以外が持っても良い? ——怖いでしょ?』

 怖い。自分のリズムは、自分の輪の中心だ。

 けれど、輪は離れて戻れる。支点は、もう自分だけではない。

 俺は短く頷いた。

「“拍の委譲ゆずり)”を置く」

 セレスティアが半歩、俺の横に出る。

 レイナが半身で前に立ち、ミュナが背に揺枝の光を載せ、イリスが灯籠を掲げ、カイルが太鼓を胸で抱く。

 五人で、俺の胸の拍を分け持った。

 ゼフィールの指が空を掴み、拍を掠めようとして、掴み損ねる。

 “中心”が分散した輪は、風に掴みにくい。

 ゼフィールは、笑ったまま、少しだけ真顔になった。

『……それ、嫌いじゃない』


 ひとしきりの押し引きのあと、風が一段、涼しくなった。

 ゼフィールは屋根の棟に立ち、両手を広げた。

『王都の歌、面白かった。裏にも名前、風にも遊び、迷いにも梯子。

 ——だから、今日は帰る。風は気まぐれ。君たちが風見を置いたから、見に来る口実ができた』

「“帰る”の?」

 セレスティアが問い直す。

『帰る。帰る街が好きなんだ、ボクも』

 ゼフィールは笑って、風と一緒に薄くなる。

『でも覚えておいて。風は“伝染”する。君の歌の流行はやりも、君の疲れも、君の優しさも。

 次に来るのは、風に乗った“噂”だよ』

 最後の言葉だけ、少し遠くから響いた。


 静けさ。

 王路に、遅れて“笑い”が戻った。今度は人の笑いだ。恥じらいではなく、安堵の笑い。

 凧鈴が空で小さく鳴り、子どもたちの糸が手の中で落ち着く。

 イリスが灯籠の火を指で整え、「記録」と短く言った。

 レイナが剣を鞘に納め、肩で俺を小突く。

「ゼフィール、嫌いだけど、ちょっと好き」

 ミュナが笑いながら頷く。

「風、友だちにできるといいな……猫みたいに」

 カイルは太鼓を撫で、「裏を表に、忘れない」と一言。


 セレスティアが王路の中央で宣言した。

「仮告示。——“風見祠”を常設とし、管轄を子どもと祠の共同に。凧鈴は王鈴の補助印、秤印は灯籠による“裏幅”記録を実施。

 輪路は、“表裏対応おもてうらたいおう”を制度化する」

 彼女の直線は、今日も迷いがない。

 ただ、視線の端で俺を見やり、いつもの硬さを一瞬だけ緩めた。

「……拍の委譲、ありがとう。私は君の拍を預かれる。いつでも」


 人々が三々五々に散っていく。

 帰り道は、風が整えてくれたのか、今日は妙に歩きやすい。

 王城に戻る途中、塔の影でルミナが淡く現れた。

『風は“噂”を連れてくる。噂は輪の外でも増える。決め歌にも、離れ歌にも、善い尾ひれ悪い尾ひれがつく』

「尾ひれまで、歌にする」

『うん。次は“訂歌ただしうた”だ。誤りを正す歌じゃない。“訂正の拍を許す歌”。

 人は、間違えた後の拍を持てば、噂を怖れにくい』

 胸の刻印が、軽く答えた。

 ——風の笑いは去った。けれど、風は街に残る。

 残るのは、凧鈴の細い影と、子どもたちの手の感触、そして表と裏に名前がついた譜面。


 夜。

 高殿の回廊で、セレスティア、レイナ、ミュナ、イリス、カイル——皆が同じ風を吸い、吐いた。

 “拍の委譲”をもう一度、ゆっくり、静かに確かめる。

 俺は鈴を胸の前に置き、ひと呼吸。

「《いち・裏・に・裏——とまる。さん・し・みわたす。

 ご・ろく・きめる、ななではこぶ。はちで、うける。はちで、むかえにいく。

 いちどはなれて、ふたたびもどる。》」

 風が笑い、今度は置いていった。

 拍は、乱されても、帰ってくる。


――――

次回:第18話「訂歌ただしうたの輪、噂の火種」

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