第16話「離れ歌の朝、帰ってくる街」
影の都の水鏡が沈んでから三日。
王都には奇妙な“空白”が生まれていた。輪路は生きている。太鼓も王鈴も、日常の中で鳴っている。けれど、人々は自ら一度、輪を外れるようになった。
市場の端で子どもが一人、輪から抜けて石段に座る。すると親も隣に腰を下ろし、二人で一息。数拍遅れてまた輪に戻る。
工房の若者は槌を置き、昼の太鼓の音に合わせて“休む拍”を刻む。隣の職人が眉をひそめかけるが、すぐに笑って真似る。
「離れ歌」が街に浸透し始めていた。
評議室。
セレスティアは赤い布を広げ、その中央に金色の糸で「離」と縫われた小さな札を置いた。
「これを輪路計画に正式に組み込む。“離れ歌”は制度になる」
イリスが眼鏡越しに記録を確かめる。
「秤も安定しています。離れがあることで“止まりすぎ”が減り、“促進”に耐えやすくなった」
レイナは腕を組み、頷いた。
「戦でも応用できる。詰めすぎた隊を一度解き、呼吸を戻してから再編する。……負け癖を防げる」
カイルは太鼓を叩きながら、低く言った。
「勇者隊も同じだ。休む勇気を持てば、叩く一打は重くなる」
ミュナは揺枝を撫で、柔らかな笑みを浮かべた。
「外れた人が帰ってくるのを見るのは……芽吹きを待つのと似てます」
俺は胸の刻印に触れ、静かに頷いた。
火と秤と水。どれも輪を壊しかけた。だが、離れ歌によって輪は“呼吸”を持った。
夜。
王都の路地を歩くと、太鼓は静かだった。だが、どこかで小さな拍が生きている。
石段に腰かける老人が、自分の名をぽつりと口にする。
「……トウジ」
隣で孫が笑い、拍に合わせて足を揺らす。
名前を呼ぶ。それだけで帰ってこられるのだと、街が覚え始めていた。
その時、塔の影に淡い光が揺れた。
ルミナの声。
『輪に離れを、秤に休みを、火に鞘を、水に底を……よく置いた。だが、次は“風”が来る』
「風……?」
『掴めないもの。だが歌に最も早く溶けるもの。——第六天』
胸の刻印が、遠い旋律に応じて震えた。
風の神が近づいている。
翌朝。
セレスティアは王路の中央で短く告げた。
「今日から王都は“帰ってくる街”と呼ばれる。輪は繋がるが、外れても戻れる。……これが我らの在り方」
人々の拍が重なり、離れて、また戻った。
その瞬間、風が広場を駆け抜けた。
誰かの声に似た笑い声が混じっていた。
——第六天の使いが、もう街に足を踏み入れていた。
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次回:第17話「風の笑い、拍を乱す者」