表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/45

第15話「沈む秤、浮かぶ輪」

 黒い水面が、呼吸を忘れた胸のように鈍く脈打っていた。

 影の都の大広間。祭壇は池に浮かぶ黒い島で、その中央に第五天の使い――水鏡ネレイオが静かに立つ。青い瞳は深く、こちらを映すだけで裁かない。裁かない代わりに、すべてを沈める目だ。


『歌は揺らぎ。火は昂ぶり。秤は疲労。……眠りなさい、整律官』

 低い波が足元へ寄せ、石床の境目から冷気が立ちのぼる。耳の奥で、遠い雨の音が始まった気がした。


 レイナが一歩前に出て、刃先を下げる。

「剣は“起こす”ためにある。眠りの毛布を裂くのも、役目よ」

 カイルは太鼓の皮を掴んで一打、深く落とす。

「いち・に・とまる!」

 厚い響きが天井を震わせ、人の胸に拍を返す――はずだった。だが音は水面へ吸い込まれ、丸くなって沈んだ。


 イリスが灯籠の秤印はかしいんを掲げる。灯は生きているのに、輪郭が滲む。

「……濁りの“形”が崩される。見えるのに、測れない」

 ミュナが揺枝を握りしめ、唇を結ぶ。

「芽吹きの光も、土に落ちる前に濡れてしまう……!」


『恐れることはない。私は奪わない。流すだけだ』

 ネレイオの言葉に、広間の四隅の祠像が静かに涙を垂らした。石の頬を伝う水は床に落ち、細い筋となって池へ帰っていく。

 ――循環。すべては戻る。だから戦いも、選択も、意味を失う。

 胸の刻印が、冷たさと熱のあいだで軋んだ。火と水の綱引き。内側がきしむ。


 俺は鈴を握る。鳴らさない。形だけを、空間に置く。

 輪。空白。秤。

 けれど、輪の縁に水が沿って、すぐに線が太り、重みで沈みそうになる。

『輪は器。器は満てば沈む』

 ネレイオの声が、痛みではなく倦怠で刺してくる。


「なら、器に“底”を」

 俺は短く息を吸い、吐き、胸の刻印に声を落とす。

「《やすむ・し》」

 自分のための歌。

 沈む前に、一瞬の休みを置く。

 鈴の形はそのまま、水の底に“鞘”のような空白が現れ、輪の線がそこへ静かに触れて止まった。完全には救えない。けれど、沈みきらせない“底”は作れる。


 レイナが息を合わせ、剣を水平に置く。

「置く一拍。……いいわ、そこに乗る」

 彼女は刃を振らない。刃を“置く”。床に薄い線が走り、線の上に黒い水が集まり切れずに留まった。

 カイルの太鼓が二度、低く鳴る。沈む音ではない、底を確かめる音だ。

「さん・し・みわたす」

 ミュナが揺枝を底の空白へそっと浸す。薄緑の光が、水に“縁側”を作った。立ち上がる一歩分の乾いた場所。


『……興味深い。底を置くか。だが、底は“容積”を減らす。上にいる者が重いほど、下は押しつぶされる』

 ネレイオが手をかざすと、池の奥からばしゃり、と黒い影が浮かんだ。

 人影。祠から攫われた神官、黒笛の若者、名も知らぬ市井の人。

 彼らは眠っている――いや、“起きる決断を奪われた”顔だ。

『君の輪は、誰を先に浮かべる? 秤に問おう。どの命を先に、という秤だ』


 イリスが息を呑む。

「最悪の問い……でも、避けては通れない」

 秤は残酷だ。測るということは、線を引くということだ。

 胸の刻印がうるさく主張する。

 ——選ばせる歌に、順番を置け。


「“受け皿”を、輪の外にも」

 俺は仲間を見渡す。

「レイナ、カイル、ミュナ。……輪の内側は巫女たちに任せる。俺たちは眠りの縁に“個の受け皿”をばら撒く。名を呼ぶ拍を先に置くんだ」

 カイルが頷き、太鼓を肩に鳴らす。

「《なまえをよぶ・いち》」

 石天井に名が反響し、黒い水の下で閉じたまぶたがわずかに震えた。

 レイナは刃の平で床を叩き、間を置いて静かに告げる。

「《いきをきく・に》」

 ミュナが続ける。

「《てをひろげる・さん》……《やすむ・し》」

 四つの短い歌が、眠りの表層に小さな泡を作る。泡は儚い。だが、無数なら、泡の面は“橋”になる。


 ネレイオの瞳が初めてわずかに動いた。

『泡の橋。……脆いが、軽い者からなら渡れる』

「軽い者から。順番を隠さない」

 俺は王鈴を胸の前に置き、はっきり言う。

「子ども、呼吸の弱い者から出す。重い者は“浮き木”を渡す。順番は“見える歌”にする」

 イリスが即座に札へ書き込み、灯籠の色を三つに分けて上げた。青は最優先、黄は次、白は耐えられる者。

「秤は視覚化する。誰にどの拍が必要か、嘘をつかせない」


 泡の橋が、広間の半分へ延びる。

 巫女らが灯籠を掲げ、工房の女たちが腕まくりして引き上げ綱を取る。

 最初の子が、水面から顔を出した。咳き込んで、泣いた。泣き声に合わせて、太鼓が一打響く。

「ご・ろく・きめる――!」

 輪が引き、子は床の“底”へ上がる。“受け皿”がふわりと抱く。

 二人目、三人目。

 橋はきしむ。だが、落ちない。


『順番を置く歌。選ばれない痛みを、歌で見せる気か』

 ネレイオの声は淡い怒りを含んだ。

『苦しみを、語の上でならしても、底で溜まる沈殿は消えない』

「分かってる。だから“後の拍”を約束する」

 俺は王鈴を鳴らし、輪の端々へ届くように言葉を置く。

「《待つ者の歌》を重ねる。『はちで、うける』の後ろに、『はちで、むかえにいく』を――」

 鈴の形に、約束の空白が一つ増える。

 今すぐではなくても、必ず迎えに行く拍。待つ者の中で、呼吸が浅すぎる者がいれば、その空白が目印になる。

 イリスが頷き、灯籠の一つに小さな矢印の影を踊らせた。

「“迎えの印”、可視化した」


 ネレイオは黙った。沈黙の中で、水面だけがかすかに揺れる。

 やがて、彼は右手を上げ、手のひらで水を撫でた。

 池の奥――黒笛の若者が一人、目を開けた。

 彼は唇を震わせ、か細い声で言う。

「……おれ、は……」

 名を、言いかけて、言えない。

 偽声に絡まった名は、最初に失われる。

 俺は空白を彼の耳元に置き、短く囁く。

「呼び出しは要らない。お前が“決めて”いい」

 太鼓が一打。

 若者は、胸を張って、震える声で言った。

「おれは……ファル」

 泡が弾け、彼は橋に乗った。

 順番の二列目――黄の灯籠が、ふわりと揺れる。待つ者の列で、ため息が吐かれる。嫉妬も、安堵も、混ざったため息。

 秤は、見せる。だからこそ、嘘を減らす。


『……やめないのだな』

 ネレイオの瞳に、微かな陰が走った。

『水は、争いを嫌う。君の方法は、争いの「形」を見えるまま残す』

「残す。消すためには、先に見る必要がある」

『見たままに責められる者も出る』

「責める歌は置かない。置くのは、受け皿と、迎えの印だ」

 言い切る俺の声に、胸の刻印の熱が少し落ち着いた。

 火と水の綱は、まだ軋む。けれど、結び目がひとつ、増えた気がする。


 救出は続く。

 橋の端で、ミュナが片手を伸ばし続け、肩で息をする。

「リオンさま……“後の拍”を、絶やさないでください」

「絶やさない。約束する」

 レイナは脇で刃を“置き続け”、底の空白が潰れないよう支える。

 カイルの太鼓は、待つ者の側でときどき止まり、そして再開する。止める勇気と、再び叩く勇気。

 イリスは灯籠の色を切り替え、秤印の浅い音を聴き分け、先に崩れそうな心へ一拍を寄せる。

 それぞれの役目が、輪の一部として回る。


 やがて、半数以上が床の“底”へ上がった。

 疲労が来る。泡の橋の一部が潰れ、闇が舌のように伸びる。

 ネレイオが静かに言う。

『十分だろう。残りは私が流そう。痛みは均され、歌も休める』

「まだ終わらない」

 俺は鈴――ではなく、竪琴の記憶に触れた。

 エルネの“合いの手”。肯定の小声。

 あれは厄介だった。だが、善用できる。

 俺は輪の外で待つ者たちの耳へ、ほんの小さな合いの手を置く。

 《うん、そこで、息》

 肯定を、止まりの手前に挟み込む。

 肯定は動かす刃にもなるが、呼吸を許す手にもなる。


 水面の向こうで、ネレイオが初めて笑った。

『君は敵の歌も、飼いならすのか』

「歌は刃にも盾にもなる。なら、盾にする」

 俺は肩で息をしながら、鈴を一つだけ鳴らした。

 基準の音が、広間の最奥まで届く。

「最後に――“秤の鞘”を置く」

 イストラの名を胸の中で呼び、見えない秤に鞘をかぶせる。測り続けると、人は削れる。削れきる前に、秤も休ませる。

 灯籠の光が一段温かくなり、待つ者の肩のこわばりが少し溶けた。


 最後の一人が上がった時、広間は長い吐息で満たされた。

 床に座り込む人々、祈る者、泣く者、笑う者。

 泡の橋は消え、池はただの黒い水へ戻っていく。


 ネレイオは祭壇の上で、静かに手を下ろした。

『……見事だ。沈める私の前で、“浮かぶ輪”を置いた。底も、迎えも、休みも。

 だが、覚えておくといい、整律官。底はいつか沈殿を孕む。迎えはいつか怒りを呼ぶ。休みはいつか怠惰へ転ぶ』

「知ってる。だから“間引く歌”を、次に置く」

『間引く?』

「輪が過密になったら、一度“離れの間”へ。……“離れ歌”。

 《いちどはなれて、ふたたびもどる》

 輪は、離れて戻れる構造にする。繋ぎっぱなしは、腐る」

 イリスが小さく驚き、すぐに微笑んだ。

「動的均衡。秤が喜ぶわ」


 ネレイオは青い瞳をすっと伏せ、やがてこちらを見る。

『君は私の望む“静けさ”には辿り着かない。だが、静けさを知った上で動く。……それを、調停と呼ぶ者もいるだろう』

「あなたは止めるか?」

『いいや。流れの一部として、見届ける。第五天は、君の“輪”が腐る徴を探す。見つけたら、また会おう』

 水の衣がほどけ、祭壇ごと影へ沈んだ。黒い池は浅くなり、底の石が所々に顔を出す。


 静寂。

 その静けさは、ネレイオの押し付ける“死の静寂”ではない。

 働いた後の、短い休みの息。


 レイナが剣を鞘に入れ、俺の肩を軽く小突いた。

「底を置くの、上手かったわね」

「刃を置くのを見て、真似した」

 彼女が珍しく照れた顔で笑う。

 カイルは太鼓を抱え直し、短く言う。

「“離れ歌”……勇者隊にも要る。張り詰めっぱなしは、折れる」

 ミュナは揺枝を胸に抱き、涙と汗でぐしゃぐしゃの顔で笑った。

「迎えの印、すてきでした。待つ人の心に、灯りが残る」

 イリスは灯籠の火を指で隠し、また開く。

「秤も休んだ。……あなたが休む番」


 帰路、地下道に朝の冷気が少し流れ込んできた。

 階段を上がると、王都の空は灰色で、しかし高かった。

 セレスティアが城門で待っていた。緋のマントは夜露を含み、深紅の瞳は冴えている。

「影の都は?」

「水位が下がり、祭壇は沈みました。人は全員、浮かせました」

 報告に王女は小さく息を吐き、続けて言葉を継ぐ。

「王命。輪路計画に“離れ歌”を組み込む。祠は週に一度、輪を意図的に開き、翌朝に再結節する――“呼吸の休日”だ」

 イリスが満足げに頷く。

「秤は拍の“休憩所”を記録に刻む。監察は“閉じっぱなし”を嫌う」


 広場に出ると、人々が手を振った。助け出された子が、太鼓を一つ叩いて見せる。

「いち・に・とまる!」

 そこに続く小さな声がある。

「いちどはなれて――ふたたび、もどる」

 輪から少し離れて遊ぶ子、遠巻きに見守る老人、それを笑って見ている親。

 離れても、戻れるように。

 輪は、そういう形になっていく。


 胸の刻印が、静かに、確かに脈を打つ。

 火に鞘を、秤に鞘を、水に底を、輪に離れを。

 “沈む秤、浮かぶ輪”――あの日の題は、結果的に、こういう意味になったのだと思う。


 高殿の上で、細い風が旗を鳴らす。

 ルミナの光が一瞬、塔の影で揺れた。

『よく置いた。よく外した。……よく戻した』

 遠く、どこかで、祭りの余韻のような軽い手拍子が混じる。

 第四天の気配も、第五天の余冷も、完全には消えない。

 けれど、輪は回る。

 選ばせる歌は、次の拍を呼ぶ。


――――

次回:第16話「離れ歌の朝、帰ってくる街」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ