第15話「沈む秤、浮かぶ輪」
黒い水面が、呼吸を忘れた胸のように鈍く脈打っていた。
影の都の大広間。祭壇は池に浮かぶ黒い島で、その中央に第五天の使い――水鏡ネレイオが静かに立つ。青い瞳は深く、こちらを映すだけで裁かない。裁かない代わりに、すべてを沈める目だ。
『歌は揺らぎ。火は昂ぶり。秤は疲労。……眠りなさい、整律官』
低い波が足元へ寄せ、石床の境目から冷気が立ちのぼる。耳の奥で、遠い雨の音が始まった気がした。
レイナが一歩前に出て、刃先を下げる。
「剣は“起こす”ためにある。眠りの毛布を裂くのも、役目よ」
カイルは太鼓の皮を掴んで一打、深く落とす。
「いち・に・とまる!」
厚い響きが天井を震わせ、人の胸に拍を返す――はずだった。だが音は水面へ吸い込まれ、丸くなって沈んだ。
イリスが灯籠の秤印を掲げる。灯は生きているのに、輪郭が滲む。
「……濁りの“形”が崩される。見えるのに、測れない」
ミュナが揺枝を握りしめ、唇を結ぶ。
「芽吹きの光も、土に落ちる前に濡れてしまう……!」
『恐れることはない。私は奪わない。流すだけだ』
ネレイオの言葉に、広間の四隅の祠像が静かに涙を垂らした。石の頬を伝う水は床に落ち、細い筋となって池へ帰っていく。
――循環。すべては戻る。だから戦いも、選択も、意味を失う。
胸の刻印が、冷たさと熱のあいだで軋んだ。火と水の綱引き。内側がきしむ。
俺は鈴を握る。鳴らさない。形だけを、空間に置く。
輪。空白。秤。
けれど、輪の縁に水が沿って、すぐに線が太り、重みで沈みそうになる。
『輪は器。器は満てば沈む』
ネレイオの声が、痛みではなく倦怠で刺してくる。
「なら、器に“底”を」
俺は短く息を吸い、吐き、胸の刻印に声を落とす。
「《やすむ・し》」
自分のための歌。
沈む前に、一瞬の休みを置く。
鈴の形はそのまま、水の底に“鞘”のような空白が現れ、輪の線がそこへ静かに触れて止まった。完全には救えない。けれど、沈みきらせない“底”は作れる。
レイナが息を合わせ、剣を水平に置く。
「置く一拍。……いいわ、そこに乗る」
彼女は刃を振らない。刃を“置く”。床に薄い線が走り、線の上に黒い水が集まり切れずに留まった。
カイルの太鼓が二度、低く鳴る。沈む音ではない、底を確かめる音だ。
「さん・し・みわたす」
ミュナが揺枝を底の空白へそっと浸す。薄緑の光が、水に“縁側”を作った。立ち上がる一歩分の乾いた場所。
『……興味深い。底を置くか。だが、底は“容積”を減らす。上にいる者が重いほど、下は押しつぶされる』
ネレイオが手をかざすと、池の奥からばしゃり、と黒い影が浮かんだ。
人影。祠から攫われた神官、黒笛の若者、名も知らぬ市井の人。
彼らは眠っている――いや、“起きる決断を奪われた”顔だ。
『君の輪は、誰を先に浮かべる? 秤に問おう。どの命を先に、という秤だ』
イリスが息を呑む。
「最悪の問い……でも、避けては通れない」
秤は残酷だ。測るということは、線を引くということだ。
胸の刻印がうるさく主張する。
——選ばせる歌に、順番を置け。
「“受け皿”を、輪の外にも」
俺は仲間を見渡す。
「レイナ、カイル、ミュナ。……輪の内側は巫女たちに任せる。俺たちは眠りの縁に“個の受け皿”をばら撒く。名を呼ぶ拍を先に置くんだ」
カイルが頷き、太鼓を肩に鳴らす。
「《なまえをよぶ・いち》」
石天井に名が反響し、黒い水の下で閉じたまぶたがわずかに震えた。
レイナは刃の平で床を叩き、間を置いて静かに告げる。
「《いきをきく・に》」
ミュナが続ける。
「《てをひろげる・さん》……《やすむ・し》」
四つの短い歌が、眠りの表層に小さな泡を作る。泡は儚い。だが、無数なら、泡の面は“橋”になる。
ネレイオの瞳が初めてわずかに動いた。
『泡の橋。……脆いが、軽い者からなら渡れる』
「軽い者から。順番を隠さない」
俺は王鈴を胸の前に置き、はっきり言う。
「子ども、呼吸の弱い者から出す。重い者は“浮き木”を渡す。順番は“見える歌”にする」
イリスが即座に札へ書き込み、灯籠の色を三つに分けて上げた。青は最優先、黄は次、白は耐えられる者。
「秤は視覚化する。誰にどの拍が必要か、嘘をつかせない」
泡の橋が、広間の半分へ延びる。
巫女らが灯籠を掲げ、工房の女たちが腕まくりして引き上げ綱を取る。
最初の子が、水面から顔を出した。咳き込んで、泣いた。泣き声に合わせて、太鼓が一打響く。
「ご・ろく・きめる――!」
輪が引き、子は床の“底”へ上がる。“受け皿”がふわりと抱く。
二人目、三人目。
橋はきしむ。だが、落ちない。
『順番を置く歌。選ばれない痛みを、歌で見せる気か』
ネレイオの声は淡い怒りを含んだ。
『苦しみを、語の上で均しても、底で溜まる沈殿は消えない』
「分かってる。だから“後の拍”を約束する」
俺は王鈴を鳴らし、輪の端々へ届くように言葉を置く。
「《待つ者の歌》を重ねる。『はちで、うける』の後ろに、『はちで、むかえにいく』を――」
鈴の形に、約束の空白が一つ増える。
今すぐではなくても、必ず迎えに行く拍。待つ者の中で、呼吸が浅すぎる者がいれば、その空白が目印になる。
イリスが頷き、灯籠の一つに小さな矢印の影を踊らせた。
「“迎えの印”、可視化した」
ネレイオは黙った。沈黙の中で、水面だけがかすかに揺れる。
やがて、彼は右手を上げ、手のひらで水を撫でた。
池の奥――黒笛の若者が一人、目を開けた。
彼は唇を震わせ、か細い声で言う。
「……おれ、は……」
名を、言いかけて、言えない。
偽声に絡まった名は、最初に失われる。
俺は空白を彼の耳元に置き、短く囁く。
「呼び出しは要らない。お前が“決めて”いい」
太鼓が一打。
若者は、胸を張って、震える声で言った。
「おれは……ファル」
泡が弾け、彼は橋に乗った。
順番の二列目――黄の灯籠が、ふわりと揺れる。待つ者の列で、ため息が吐かれる。嫉妬も、安堵も、混ざったため息。
秤は、見せる。だからこそ、嘘を減らす。
『……やめないのだな』
ネレイオの瞳に、微かな陰が走った。
『水は、争いを嫌う。君の方法は、争いの「形」を見えるまま残す』
「残す。消すためには、先に見る必要がある」
『見たままに責められる者も出る』
「責める歌は置かない。置くのは、受け皿と、迎えの印だ」
言い切る俺の声に、胸の刻印の熱が少し落ち着いた。
火と水の綱は、まだ軋む。けれど、結び目がひとつ、増えた気がする。
救出は続く。
橋の端で、ミュナが片手を伸ばし続け、肩で息をする。
「リオンさま……“後の拍”を、絶やさないでください」
「絶やさない。約束する」
レイナは脇で刃を“置き続け”、底の空白が潰れないよう支える。
カイルの太鼓は、待つ者の側でときどき止まり、そして再開する。止める勇気と、再び叩く勇気。
イリスは灯籠の色を切り替え、秤印の浅い音を聴き分け、先に崩れそうな心へ一拍を寄せる。
それぞれの役目が、輪の一部として回る。
やがて、半数以上が床の“底”へ上がった。
疲労が来る。泡の橋の一部が潰れ、闇が舌のように伸びる。
ネレイオが静かに言う。
『十分だろう。残りは私が流そう。痛みは均され、歌も休める』
「まだ終わらない」
俺は鈴――ではなく、竪琴の記憶に触れた。
エルネの“合いの手”。肯定の小声。
あれは厄介だった。だが、善用できる。
俺は輪の外で待つ者たちの耳へ、ほんの小さな合いの手を置く。
《うん、そこで、息》
肯定を、止まりの手前に挟み込む。
肯定は動かす刃にもなるが、呼吸を許す手にもなる。
水面の向こうで、ネレイオが初めて笑った。
『君は敵の歌も、飼いならすのか』
「歌は刃にも盾にもなる。なら、盾にする」
俺は肩で息をしながら、鈴を一つだけ鳴らした。
基準の音が、広間の最奥まで届く。
「最後に――“秤の鞘”を置く」
イストラの名を胸の中で呼び、見えない秤に鞘をかぶせる。測り続けると、人は削れる。削れきる前に、秤も休ませる。
灯籠の光が一段温かくなり、待つ者の肩のこわばりが少し溶けた。
最後の一人が上がった時、広間は長い吐息で満たされた。
床に座り込む人々、祈る者、泣く者、笑う者。
泡の橋は消え、池はただの黒い水へ戻っていく。
ネレイオは祭壇の上で、静かに手を下ろした。
『……見事だ。沈める私の前で、“浮かぶ輪”を置いた。底も、迎えも、休みも。
だが、覚えておくといい、整律官。底はいつか沈殿を孕む。迎えはいつか怒りを呼ぶ。休みはいつか怠惰へ転ぶ』
「知ってる。だから“間引く歌”を、次に置く」
『間引く?』
「輪が過密になったら、一度“離れの間”へ。……“離れ歌”。
《いちどはなれて、ふたたびもどる》
輪は、離れて戻れる構造にする。繋ぎっぱなしは、腐る」
イリスが小さく驚き、すぐに微笑んだ。
「動的均衡。秤が喜ぶわ」
ネレイオは青い瞳をすっと伏せ、やがてこちらを見る。
『君は私の望む“静けさ”には辿り着かない。だが、静けさを知った上で動く。……それを、調停と呼ぶ者もいるだろう』
「あなたは止めるか?」
『いいや。流れの一部として、見届ける。第五天は、君の“輪”が腐る徴を探す。見つけたら、また会おう』
水の衣がほどけ、祭壇ごと影へ沈んだ。黒い池は浅くなり、底の石が所々に顔を出す。
静寂。
その静けさは、ネレイオの押し付ける“死の静寂”ではない。
働いた後の、短い休みの息。
レイナが剣を鞘に入れ、俺の肩を軽く小突いた。
「底を置くの、上手かったわね」
「刃を置くのを見て、真似した」
彼女が珍しく照れた顔で笑う。
カイルは太鼓を抱え直し、短く言う。
「“離れ歌”……勇者隊にも要る。張り詰めっぱなしは、折れる」
ミュナは揺枝を胸に抱き、涙と汗でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「迎えの印、すてきでした。待つ人の心に、灯りが残る」
イリスは灯籠の火を指で隠し、また開く。
「秤も休んだ。……あなたが休む番」
帰路、地下道に朝の冷気が少し流れ込んできた。
階段を上がると、王都の空は灰色で、しかし高かった。
セレスティアが城門で待っていた。緋のマントは夜露を含み、深紅の瞳は冴えている。
「影の都は?」
「水位が下がり、祭壇は沈みました。人は全員、浮かせました」
報告に王女は小さく息を吐き、続けて言葉を継ぐ。
「王命。輪路計画に“離れ歌”を組み込む。祠は週に一度、輪を意図的に開き、翌朝に再結節する――“呼吸の休日”だ」
イリスが満足げに頷く。
「秤は拍の“休憩所”を記録に刻む。監察は“閉じっぱなし”を嫌う」
広場に出ると、人々が手を振った。助け出された子が、太鼓を一つ叩いて見せる。
「いち・に・とまる!」
そこに続く小さな声がある。
「いちどはなれて――ふたたび、もどる」
輪から少し離れて遊ぶ子、遠巻きに見守る老人、それを笑って見ている親。
離れても、戻れるように。
輪は、そういう形になっていく。
胸の刻印が、静かに、確かに脈を打つ。
火に鞘を、秤に鞘を、水に底を、輪に離れを。
“沈む秤、浮かぶ輪”――あの日の題は、結果的に、こういう意味になったのだと思う。
高殿の上で、細い風が旗を鳴らす。
ルミナの光が一瞬、塔の影で揺れた。
『よく置いた。よく外した。……よく戻した』
遠く、どこかで、祭りの余韻のような軽い手拍子が混じる。
第四天の気配も、第五天の余冷も、完全には消えない。
けれど、輪は回る。
選ばせる歌は、次の拍を呼ぶ。
――――
次回:第16話「離れ歌の朝、帰ってくる街」