第11話「王路の合唱、夜明けの決断」
夜半から吹いていた北風が、王都の中心を貫く大通り――王路――の旗を鳴らしていた。
輪路計画で繋いだ祠から祠へ、太鼓と王鈴が拍を渡す。だが今日は違う。街の拍が、ひとつの太い川に集められている。夜明け前、王路で“合唱”を張る――セレスティアの決断だった。
拝殿の影から広場へ出ると、王女が緋のマントを翻し、石畳の中央に立った。
「王路に歌を置く。外された者にも“受け皿”を置く。……王都は歩く。選んで歩く」
短い宣言に、近衛の槍が低く鳴る。レイナは先頭で斥候を散らし、ミュナは祠の巫女たちと“受け皿の輪”の設営を急ぐ。イリスは秤印の測定具を肩に、指揮所に上がった。カイルは太鼓隊を並べ、勇者隊に号令をかける。
俺は王女の横で鈴を持ち、胸の刻印に指を当てた。
――王路は舞台。エルネは必ず来る。
吸って、吐く。三拍で吸って、五拍で吐く。拍は人の輪の外へも届く。孤独の隅まで。
最初の拍は、夜明けを待たずに落ちた。
「いち・に・とまる」
石畳に並んだ人々の肩が同時に下がる。
「さん・し・みわたす」
視線が広がり、互いの顔を確かめ合う。
「ご・ろく・きめる、ななではこぶ」
列が動き、荷が進み、気持ちが前へ出る。
「はちで、うける」
輪から半歩外れた者に、巫女たちの“受け皿”が寄り添った。
王路の両側の建物の影で、竪琴の弦がひと撥ねした。
エルネの声が、風に溶けて落ちる。
「朝は、やさしい歌が似合う。……なら、私も」
偽声ではなかった。
“祈り”だった。
《そのままでいい》――昨日の路地で囁いた言葉が、群衆の胸に柔らかく触れる。
止まり続けるための祈り。進まない安堵。
輪から外れて“受け皿”に立つ者の目に、涙が滲む。やさしすぎる眠りが、足から力を奪う。
「——止まりすぎを、測る」
イリスの声が指揮所から落ちる。秤印が浅く鳴り、王鈴の音色が一段だけ変わった。
「“止まり”を一拍減らす。『はちの受け皿』は残す」
俺は鈴を鳴らさず、形を置いた。
輪の内側だけでなく、外側にも“空白”を。
「呼吸の広場」を王路に点々と生む。
「吸って——吐け」
合唱に入らない者、祈りに攫われかけた者、義務に息を詰まらせた者。皆、その空白で一度だけ自分に戻る。
エルネの祈りは弱くない。むしろ、強い。
けれど、“選ばせる空白”に触れるたび、少しずつ輪郭を薄めていく。
彼女は竪琴を置き、指先で唇を押さえた。笑っている。
「やっぱり、あなたは“空白”の人。……嫌いじゃない」
そこで、音が変わった。
笛。
“黒笛”の合奏が、王路の要所――市場門と港門、工房門――の三方から一斉に湧いた。
祈りの代わりに“促進”の歌。
《いそげ、いそげ、いそげ》
止まらせる祈りと、急かす歌。二つは同時に効く。
輪の外側が、千切れそうに揺れた。
「分断の合唱……来たわね」
レイナが片眉を上げ、王路の中央で剣を構える。
「ここは切らせない。——カイル、太鼓!」
カイルの太鼓が重く鳴る。勇者隊の足が、それに合わせて地面を叩く。
俺は位置をずらし、王路の真ん中に“基準”をもう一つ置いた。
王鈴の正音。
合唱の川に杭を打つように、真っ直ぐな音を。
イリスが秤印を掲げ、指示を短く飛ばす。
「市場門:偽装の濁り強。祠、秤歌! ——工房門:促進過剰。受け皿増やして減拍! ——港門:祈りと促進が干渉、個の歌を配布!」
ミュナが巫女隊を率いて走る。揺枝が揺れ、若草色の光が“受け皿”を温める。外れた輪の外側に、もう一輪の、柔らかな輪が生まれた。
敵は“輪の継ぎ目”を突いてくる。
市場門の角で、黒外套が王鈴に黒い刻印を焼き付けようとした。
レイナは刃を下段に、足を“置く”。一歩だけ遅らせて、相手の刃を空へ走らせ、柄で手首を打った。
「王鈴は民のもの。触らせない」
短い言葉に、相手の視線が揺れる。一瞬で足を刈り、昏倒させた。
工房門では、促進の合唱が労働者の足を勝手に加速させ、荷が転がり始めていた。
カイルが飛び込み、両腕で荷の流れを止める。
「いち・に・とまる!」
彼の声は、昔より少し低く、厚かった。
昔、彼は“勇者”の看板で叫んでいた。
いまは“カイル”の声で、輪の中に立つ。
止まった荷の背後で、泣きそうな若者が深呼吸をする。
「さん・し・みわたす」
目が広がり、足が戻る。
港門――。
そこだけは、“祈り”と“促進”がぶつかって、音の泥になっていた。
空気が重い。
笑い声と泣き声が同時に響く。
輪はほどけ、“受け皿”が悲鳴を上げる。
俺は王路の中央から外れ、港門へ走った。
鈴を……鳴らさない。
形だけを、広い空に置く。
輪、輪、輪――そして、空白。
「名前を呼べ」
俺は人の列に向かって言った。
「自分の名を、ひと呼吸」
男が自分を呼び、女が自分を呼び、泣いていた子が自分を呼ぶ。
名前は輪を作る。
“祈り”の眠りも“促進”の焦りも、名前に触れると少しだけほどける。
エルネが現れた。
王路の石像の上、竪琴を膝に抱え、脚を組んで座る。
「どれだけ空白を置けるか、見ものね」
「空白は足りなくなる。だから“支点”を増やす」
俺はセレスティアを振り返る。王女はすでに動いていた。
王路沿いの回廊に掲げた布――赤・青・白――の間に、もう一色、黄金の帯が足されていく。
“支点布”。
布ごとに役割を明記する。「止まりの減拍」「受け皿の増設」「個の歌の配布」。
王女の直線は、歌を行政に橋渡しする。
「王都は、歌える行政よ」
彼女は短く笑って言い、布を張る兵たちに合図した。
イリスが指揮所から降り、俺の隣に立つ。
黒衣の裾が揺れ、白磁の横顔に淡い熱が灯る。
「秤は目盛りを見せる。……でも、きょうは“見せる前に置く”が先ね」
「置いた秤を、あとから見せればいい」
「ええ。あなたの背中なら、借りられる」
短いやり取りの間にも、秤印の薄音が王路を循環する。
止まりすぎは削られ、急かしすぎはやわらぐ。
黒笛は引かない。
偽声の笛は、今度は“合いの手”に化け、合唱の隙間へ小声で忍び込んだ。
《うん、そう、それでいい》
肯定の形をした“誘導”。
気づきにくい。
ミュナがそれを嗅ぎ取り、揺枝を立てて小さな声で祈る。
「“そう”の前に、一度だけ、息」
受け皿の輪で、彼女が先に止まる。
巫女たちが真似る。
“合いの手”は、息に弱い。
肯定の前の半拍の沈黙が、偽の合図を砂に変える。
やがて――。
王路の音は、怖いほど整った。
太鼓、王鈴、合唱、受け皿、個の歌、秤印。
整いすぎる音は、刃にもなる。
胸の刻印が、弱く警鐘を鳴らす。
“秩序が人を縛る”。
イストラの言葉が蘇る。
「止める」
俺は王鈴を低く鳴らし、合唱の川に“鞘”を入れた。
「《やすむ・し》」
自分のための歌。
輪の中に、一瞬の眠りを置く。
レイナが剣を腰へ戻し、カイルが太鼓を一拍だけ止め、ミュナが揺枝を胸に抱いた。
そして、再び動く。
人の拍だ。
機械ではない。
東の空が、淡く白む。
夜明けだ。
王路の石畳が、冷たさを失い、薄い温度を帯びる。
エルネが竪琴の弦を撫で、立ち上がる。
「綺麗。ほんとうに綺麗。……だからこそ、壊したくなる」
「知ってる」
俺は肩の力を抜いた。
「でも、今日は壊れない」
「今日は、ね」
彼女は笑い、姿をほどく。
黒笛の影も、ひとつ、またひとつ、街角へ溶けた。
静けさが降りる。
人々は互いに頷き、太鼓の皮を温め、王鈴の紐を整える。
セレスティアが王路の中央で片手を上げた。
「市街戦――第一幕、終わり。被害の確認を。祠は“受け皿”の数を昼までに報告。工房は槌を再開。市場は偽声の棚卸しを」
行政の拍が、歌の拍に重なる。
イリスが秤印を収束させ、レイナが部隊を立て直し、カイルは子どもたちへ太鼓を一つ貸した。ミュナは受け皿の輪に残り、足をすくませた老人の手を握る。
俺は王路の端に立ち、朝日の中で息を吐いた。
胸の刻印が、穏やかに、しかし深く脈打つ。
輪は、回り続ける。
合唱の外にも、空白を置けた。
今日のところは、勝てた。
セレスティアが隣に来た。風が彼女の髪を少しだけ乱し、深紅の瞳に朝日が刺す。
「整律官。——決断の刻よ」
「何を?」
「王都だけでは足りない。輪路を、近隣の村にも伸ばす。歌と鈴と秤と“受け皿”を、王国の動脈にする。……あなたに、その先駆けを任せたい」
胸の下で、熱が膨らむ。
王都を出る。輪を外へ持ち出す。
エルネは追ってくるだろう。
そして、きっと――別の神も。
背後で、イリスがひとつ咳払いをした。
「条件を」
「聞こう」
「“王鈴は民のもの”を、王国全土で明文化。秤印の管理は祠に委譲。監察局は“測るだけ”。——歌の操作はしない」
セレスティアは即答した。
「承認する。王命として刻もう」
レイナが顎を上げ、笑う。
「行くなら、護りは任せて」
ミュナが揺枝を抱いて頷く。
「春、持っていきます」
カイルが太鼓を肩に、短く言う。
「朝を叩く」
俺は王路の真ん中で、鈴を胸の前に置いた。
「出る前に、最後の条件を置く。——“どこへ行っても、空白を忘れない”」
ルミナの微笑が、朝光の端で揺れる。
『よく歌った。よく置いた。……そして、よく休んだ』
淡い声に重なるように、別の気配が塔の上で瞬いた。
鋼のように冷たく清冽な律。
第三天の衡女神イストラが、見えない秤を傾け、わずかに頷く。
『次は、第四天』
微かな熱――炎のような、歓喜のような、祭りのような拍。
遠くの地平で、太鼓が無数に答えた。
夜明けは完全になり、影が短くなる。
王路の旗が、同じ風で、しかしそれぞれに揺れた。
俺は一歩、前へ出る。
輪を外へ、歌を外へ、秤を外へ、空白を外へ。
選ばせる歌で、王国を、運ぶ。
――――
次回:第12話「炎の祝祭、第四天の使い」