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第1話「追放の烙印、崩れた神殿で」

 鋼鉄の扉が閉じる音は、心臓の中でこだまし続けた。

「……リオン。ここまでだ」

 勇者カイルの声は乾いていて、砂を噛むように痛い。

 俺の足元には、安物の鉄剣。訓練でも折れたことのないそれが、さっきの一撃で綺麗に砕けている。魔王軍の尖兵を退ける遠征の最中、俺は役に立てなかった。いや、いつものことだ。盾を出せば遅い、回復薬を投げれば方向が違う、援護魔法は上手く乗らない。全部、俺のせいだ。


「回復も剣も半端。索敵はゼロ。足を引っ張るだけなら、村に帰れ」

 僧侶エリナは冷たい瞳をまっすぐ俺に向ける。

「リオン、悪いが……パーティは実力主義だ」

 魔法使いのジードは視線を逸らし、いつもの癖で杖の柄を撫でた。

 最後に、盗賊のミナが肩をすくめる。

「死ぬ前に降りた方が、まだマシでしょ?」


 彼らの背後で、夕暮れの空が紫に滲む。野営地に燃える篝火が、俺の影だけをやけに長く伸ばしていた。

 言い返す言葉は、出てこなかった。たとえば「努力した」とか「次はやる」とか。そういう声は、胸の奥で粉々になった。

「……わかった。ありがとう、今まで」

 口が勝手に礼を言う。

 重い沈黙のあと、勇者は踵を返した。扉が閉まり、俺は世界から外れた。


 荒野に一人。

 夜は近い。風は冷たい。焼けつく喉に、水袋の最後の一滴まで流し込む。

「家に、帰る?」

 口に出した途端、虚しさが襲う。帰る家なんか、とうにない。孤児院は去年、火事でなくなった。世話になった院長はもういない。俺が騎士になると信じてくれた人の、手の温もりだけが指に残っている。


 足を引きずって歩くうち、丘の向こうに黒い影が見えた。崩れかけた石造りの建物。古い神殿だ。

 避けるべきだ、と頭が言う。夜の神殿は魔物の巣になっていることが多い。けれど、胸の奥のどこかが、そこへ行けと強く引いた。

 入口は半ば崩れ、梁が斜めに突き刺さっている。中に入ると、冷たい空気が頬を撫でた。埃っぽいのに、海の底のような澄んだ匂いが混じっている。


 最奥の間――祭壇。

 砕けた石柱に囲まれ、その中央にだけ、なぜか傷一つない台座が残っていた。上に載っているのは青白い光を閉じ込めた宝珠。

 近づくごとに、胸骨の奥で鼓動が合わさっていく。宝珠の光と、俺の鼓動が同じリズムになって、世界が一拍ごとに明滅する。

 ――触れるな。

 理性が警告する。だが、指先はもう伸びていた。


 瞬間、光が弾けた。

『……見つけた』

 複数の声が重なったような響きが、頭の内側から鳴る。男の声、女の声、老人の囁き、少女の笑い――それなのに、すべてが同じ一つの意志であるように感じた。

 光は俺の腕から胸、喉、頭蓋へと一気に駆け上がり、焼けるような熱で全身を満たす。膝が崩れたが、痛みはない。むしろ、誰かに抱き留められたような安堵だけがあった。


 薄闇の中に、女が立っていた。

 月の光を糸にして織り上げたような銀髪。夜の色を閉じ込めた瞳。流れる衣は星を散らし、裸足の足首に金の鈴がひとつ。

『名を、聞かせて』

「……リオン」

『リオン。ようやく来た。長い長い待ちの果てに』

 女は笑った。その瞬間、神殿の埃は風に溶け、崩れた柱に掠れた花の香りが宿ったように思えた。


「あなたは……誰だ」

『わたしは第一天の女神、ルミナ。世界を照らすはなの光』

 女は指先で空を撫でる。透明な水面が波紋を描き、そこに次々とかたちが映った。

 剣を掲げる巨人。鳥の翼を持つ聖女。大樹に寄りかかる少女。氷の冠を戴く女王――数えきれない「誰か」が、波紋のたびに現れては消える。

『わたしだけではない。多くが、お前を待っていた。だがまず――』


 ルミナは白い足を一歩進め、俺の胸にそっと掌を当てた。

 熱が、静かに置かれる。心臓の鼓動が、光の脈動と噛み合う。

『契約の刻印を授ける。お前は“理継ことわりつぎの器”。わたしたちの力を、この世界に繋ぐ鍵となる』

「俺に、そんな価値は――」

『ある。選ばれる者は皆、最後に自分を疑う。だから選ばれる』

 言葉は柔らかいが、否定を許さない強さがあった。


 肌に触れた掌の場所が熱を帯び、微かな光の紋が浮かび上がる。

 円の中心に小さな雫、その周囲を回る三つの星。簡素な印なのに、見ているだけで胸の奥が満たされていく。

『これが契約の印。お前は世界の理に触れられる。小さな調律チューニングから始めよう。呼吸を――合わせて』

 言われるまま、息を吸い、吐く。

 廃墟の風が、俺の肺にぴたりと重なるように入ってきた。埃の匂いが薄れ、どこか遠くの草の香りが混じる。風が一瞬止まり、次に吹いたとき、ぬるい空気は清冽な冷気に変わっていた。


「……今、風が」

『お前が“整えた”。世界は人の願いを拾い上げるが、正しい鍵がなければ錠は回らない。お前は鍵だ、リオン』

 信じられなかった。信じたかった。

 俺はずっと、役に立てなかった。誰かの背中を追って、つまずいて、謝るしかなかった。

 それが、今――

 神の手が、俺に触れている。


『ひとつ問う。お前は何を望む? 復讐か、栄光か、安寧か。答え次第で道は変わる』

 脳裏に、勇者カイルたちの顔が浮かぶ。軽蔑、嘲笑――喉の奥に焦げた何かが貼り付く。

 だが同時に、孤児院の庭の、陽だまりの匂いが蘇った。小さな子らの笑い声。院長が古い歌を口ずさむ声。

「……強く、なりたい」

『何のために?』

「誰かを守れるように。置いていかれる側じゃなくて、手を伸ばせる側に」

 言葉が口から零れた瞬間、胸の印が淡く脈打った。


 ルミナは満足げに目を細める。

『よい。ならば、わたしの光を分け与えよう。リオン、“照命しょうめいの調律”を授ける。生きるものの息と鼓動に触れ、乱れを正し、命を照らす。最初は微かな援けだが、いずれ――』

 女神の指先が、額に触れた。

 柔らかな光が視界に満ちて、次の瞬間――世界が違って見えた。


 闇が薄い。

 神殿の裂け目から差し込む夜の光は、青でも黒でもない、名づけようのない透明な振動の束だった。崩れた石柱は静かに冷たい息を吐き、遠くで小さな生き物の心音が跳ねる。

 俺は無意識に、息のリズムを合わせた。そこに“乱れ”を見つける。

 石の間に挟まった野うさぎ。足に破片が刺さって身動きが取れない。

 胸の印が、合図のように温かくなった。

「――整え」

 囁いた言葉に呼応して、風が優しく逆巻く。石片が滑り落ち、うさぎの足元から抜ける。小さな身体が跳ね、穴の向こうへ駆けて消えた。


『見えたか、世界の糸が。お前は才能がないのではない。鍵穴の違う扉ばかり叩かされていただけ』

 ルミナの声には、憐れみではなく、祝福が混じっていた。

 胸の奥がじんわりと熱い。初めて――誰かが、俺の「できる」に触れてくれた。


 その時、地の底から響くような咆哮が神殿を震わせた。

 嫌な気配。魔物だ。しかも一匹ではない。

 入口側の暗がりに、赤い眼が幾つも灯る。瘴気に濡れた獣――夜狩りのラージウルフ。群れで動く、厄介な相手。

 最悪のタイミングだ。武器は折れた。回復薬も空。逃げ道は神殿の外、つまり奴らの方角。

 足が竦む。喉が締まる。いつもの、置いていかれる夢の続き――


『リオン』

 ルミナの声が、鼓膜ではなく胸に響く。

『恐れはあってよい。だが、ひとつだけ忘れるな。お前は“整える者”。敵の牙より先に、自分の鼓動を整えよ』

 深く、吸う。遅く、吐く。

 世界の音が、一本の糸に揃っていく。

 獣の呼吸は速い。焦り、飢え、苛立ち。

 俺は自分の呼吸をさらに落とし、胸の印に意識を集める。

 ――整え。


 風向きが変わった。

 神殿の横穴から吹き込んだ冷気が、狼たちの鼻先に流れ、瘴気を薄める。足元の石がわずかに崩れ、先頭の狼の踏み込みが半歩遅れた。

 その半歩を、俺は生まれて初めて掴めた。

 砕けた剣の柄を逆手に取り、狼の目ではなく鼻先へ突き出す。

 鈍い音。悲鳴。群れの動きが一瞬乱れる。


『いい。次は、音だ』

 ルミナの囁きと同時に、俺は神殿の鈴の場所を直感で捉えた。崩れた柱の陰、金の小鈴がひとつ転がっている。胸の印が熱くなる。

 拾い上げ、ひと振り。

 澄んだ音が闇に広がる――はずだった。

 けれど俺の耳に届いたのは、音ではなく、音の“かたち”。

 輪。螺旋。飛沫。

 それらが狼の耳に触れ、平衡感覚を微細にずらす。群れが一斉によろめいた。


 今だ。

 俺は背を向けて走った――わけではない。

 足が自然に、神殿の側壁へ向く。そこには崩れた石と石の隙間。人ひとりがやっと通れる程度の抜け道がある。

 狼たちは体勢を立て直し、唸り声を上げる。しかしその唸りも、俺の鼓動と重なって、弱々しい滞りに変わる。

「行ける……!」

 抜け道を滑り抜け、夜の草原へ飛び出す。風が顔を叩く。月が高い。


 背後で神殿が震え、狼たちの気配が遠のく。

 走りながら、俺は気づく。

 足は、軽い。視界は、広い。呼吸は、深い。

 世界は敵ではない。俺に合う鍵穴は、ここにある。

 胸の印が、小さく明滅した。


 丘を越えたところで、灯りが揺れていた。

 野営の火。だが、俺の知る穏やかな光ではない。赤黒く、煙が激しく上がっている。

 駆け寄ると、倒れた馬車。武装した護衛が二、三人、地に伏している。

 そして――戦っている女がひとり。

 月光を弾く白銀の鎧。長い黒髪を高く結い上げ、鍔の広い剣を軽やかに振るう。姿勢は端正で、視線はまっすぐ敵を射抜く。

 相手はオーガ。しかも二体。

 女は巧みに間合いを外し続けているが、肩で息をしている。援軍は――いない。


『選べ、リオン』

 ルミナの声が、風に混じって耳の後ろへ滑り込む。

『ここで背を向けるのは容易い。お前はもう“追放者”ではない。誰にも責められず、どこへでも行ける。だが――』

 女がオーガの棍棒を受け流し、膝をついた。鎧の継ぎ目が裂け、白い肌に血が走る。

 俺は、気づけば走り出していた。


「下がって!」

「無理だ、今は――!」

 言いかけて、言葉が変わる。

「あなたの呼吸、合わせて。三つ数えて踏み込む。せーの、いち、に――!」

 女は一瞬だけ、俺を見た。目が合う。驚きと、判断の速さがそこに宿っている。

 彼女は素直に呼吸を合わせ、三つ目で踏み込んだ。

 同時に俺は、胸の印へ意識を落とし、“照命の調律”を女の足取りへ重ねた。

 踏み込みの一拍が、世界の糸と噛み合う。

 オーガの棍棒が空を切り、女の剣が関節を断つ。

 巨体が沈む。


 残る一体が咆哮し、俺へ突進してくる。

 逃げられる。脳が囁く。

 だが俺は、鈴を鳴らした。

 音ではなく、かたち。

 螺旋の輪がオーガの耳に挟まり、バランスが崩れる。

 女の剣が閃いた。


 静寂。

 草の香り。夜風。遠くの水音。

 女は剣を床に立てかけ、息を整える。

「助けられた。名を聞いても?」

「リオン」

「私は――レイナ。王都第一騎士団・副団長」

 副団長。俺よりよほど“選ばれた者”。

 レイナはじっと俺を見つめ、やがて小さく目を見開く。

「……それは、契約印?」

 彼女の視線は、俺の胸元――衣の隙間から淡く光る紋へと吸い寄せられていた。

「どこで、誰と?」

 言い淀む俺の肩の後ろで、夜の空気が柔らかに震える。

 月の糸をまとった女が、音もなく現れた。

 ルミナ。

 レイナは僅かに膝を折る。驚愕と敬意。

「第一天の……女神……」


 女神は俺とレイナの間に視線を落とし、軽やかに微笑む。

『よい出会いだ。リオン、お前が望んだ“手を伸ばす先”のひとつだろう』

 レイナは戦場の空気をまとったまま、しかし僅かに頬を紅くして、言葉を選んだ。

「……あなた、面白い人だわ。王都まで同行して。事情を聞きたいし、礼もしたい」

 胸の印が鼓動する。

 追放されたはずの俺が、いま誰かに“共に来い”と言われている。


 遠くで、夜を裂く角笛の音がした。

 レイナが顔を上げる。

「まずは合流を。――リオン、行ける?」

「ああ」

 返事は、驚くほど自然に口から出た。

 俺はもう、置いていかれる側じゃない。

 俺の呼吸に、誰かが合わせてくれる。誰かの呼吸に、俺が合わせられる。


 赤い焔の向こう、丘の下の街道に、別の灯りがいくつも揺れている。

 誰かが来る。

 胸の印が、次の鼓動を促すように熱くなった。


 そして――

『リオン』

 ルミナが囁く。

『次は“言葉”を整えよ。王都で、お前は多くの美女と、多くの神に出会う。喜びは調律を乱す。だが乱れは、時に甘美だ。自分を見失うな』

 甘い未来を予告するような微笑に、息が少しだけ乱れた。

 でも、整えられる。もう、できる。


 俺たちは並んで走り出す。

 追放の夜は、終わりつつあった。

 神々と美女の気配に満ちた、新しい夜が、始まる。


――――


つづく(第2話「王都への道、女神と副団長」へ)

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