レンタル家族
「私、家族で遊園地に行ってみたいわ」
妻の一菜からそう言われたのは、彼女の四十歳の誕生日を前にしたある晩だった。誕生日に何が欲しいか尋ねただけだったのに、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「家族で?」
思わず繰り返していた。僕たちには子供がいない。だから「家族」という響きに違和感を抱いた。
一菜は気まずそうに視線をそらし、やがてスマホを差し出した。
「これ、やってみない?」
画面に表示されていたのは「レンタル家族」という文字だった。結婚式や学校行事に両親役を派遣したり、休日に「理想の家族」を体験できるサービス。子供もレンタルできると書かれている。
「子供か……」
僕はつぶやいた。十年以上も不妊治療を続け、結局我が子を授かることはできなかった。
四十を迎えるころには、自然と治療からも距離を置いていた。それでも、一菜の心の奥に「母になりたい」という思いが残っていることは知っていた。
「一度くらい、いいんじゃないか」
僕は笑ってみせた。
「ほんとに?」
「ほら、前に里親の話をしただろう? でもあれは講習やら審査やら大変そうだったし……レンタルなら手軽に体験できるよ」
一菜は唇を噛んで、それから小さく笑った。その笑顔を見て、僕は賛成して良かったと思った。一菜に一度でいいから「お母さん」と呼ばれて欲しかったのだ。
彼女は町で子供連れの親子を見る度に、いつも少しだけ顔を曇らせた。
ベビーカーを押す若い母親、肩車をする父親、スーパーで子供からママと呼ばれる女性……
そんな光景を目にすると視線をそらし、買い物かごを握る指に力が入るのを、僕は何度も見た。
四度流産した後、彼女は泣かなくなった。泣くかわりに静かに笑うのだ。レンタル家族でその傷が少しでも癒えればいいと思った。
◇
週末の午後、呼び鈴が鳴った。玄関に立っていたのはスーツ姿の女性と、小学校三年生くらいの男の子だった。
「ラブスマイルファミリーから参りました岸川です。こちらがお子さんです」
差し出された名刺を受け取りながら、僕は子供を見た。長袖シャツに紺色のズボン。姿勢が正しく、大人びた顔立ちをしていた。髪はきちんと整えられ、目だけが少し泳いでいる。
「名前はご自由につけていただけます」
「では翔太……でお願いします」
「承知しました。では、一週間後の土曜日にお迎えにあがります。禁止事項は事前の説明書の通り、入浴の同伴や身体接触の過度な強要は不可です。ご質問は?」
「いえ、大丈夫です」
スタッフが帰り、三人だけになった。リビングの空気が少し緊張していた。
「翔太、お腹は空いてない?」
妻が恐る恐る声をかける。
「うん、ちょっと」
「じゃあ、何が食べたい?」
「……唐揚げ!」
その一言で一菜の顔がほころんだ。彼女は立ち上がり、キッチンに向かった。
キッチンからパチパチと揚げ油の弾ける音がするたびに、家の中に明るさと活気が満ちる気がした。
「さあ、できたわよ」
エプロン姿の一菜が、湯気の立つ唐揚げを大皿にこんもりと盛って、テーブルに置く。
「わあ、すごい! こんなご馳走、初めて」
翔太は目を丸くした。熱いから気をつけて、と言う間もなく、ひとつ頬張る。
「おいしい!」
演技かもしれない。でも、その表情は演技にしては無防備すぎた。
「レモン絞る?」
「うん!」
「塩で食べるのもおいしいぞ」
「じゃあ、半分レモン、半分お塩で」
箸はせわしなく動き、皿の上の唐揚げが、山肌が崩れるように少し低くなっていく。一菜は笑って「まだまだあるわよ」とキッチンに戻った。
◇
夜は和室に布団を三つ並べ、川の字で寝た。
「お父さん、お母さん、ありがとう。僕、ここに来れて嬉しい」
その言葉に、一菜は涙を見せまいとうつ伏せに顔を押しつける。僕は黙って彼女の背中に手を添え、もう片方の手で翔太の頭を軽く撫でた。
翌日は遊園地へ行った。翔太はジェットコースターに大喜びし、一菜は観覧車からの眺めに目を細めた。
「お化け屋敷は?」
「怖いかな……でも行ってみたい!」
お化け屋敷に入ってすぐ翔太は僕の腕にぎゅっとしがみつき、出口で「やっぱりこわかった!」と笑い泣きした。
「もう大丈夫よ」
一菜の指先が少年の頬に触れるか触れないかのところで止まる。過度な接触を避ける、という契約の条文が躊躇させたのだろう。
一週間、僕たちは子供がいたらやりたかったことを全部やった。公園でボールを蹴り、夕暮れに花火を見て、帰り道にスイカを抱えて帰った。
ただ一つだけ、翔太はプールにだけは頑なに行きたがらなかった。
「プールは……行かないとダメ?」
「行きたくないなら行かなくていいよ」
「……行きたくない」
理由は訊かなかった。泳ぎが苦手なのかもしれないし、単に気が進まないだけかもしれない。僕たちは彼の気持ちを尊重した。
◇
翔太を返却する日が来た。リビングの窓から午前の光が床を長く渡っている。三脚にスマホを載せ、タイマーをセットし、三人で肩を寄せた。
「はい、チーズ!」
カシャ、と軽い音がした。三人の笑顔は少しぎこちない。それでも、確かにそこに「家族」が写っていた。
やがてチャイムが鳴る。同じ女性スタッフが迎えに来た。翔太は小さな手で僕の手を握りしめた。
「お父さん、お母さん、ありがとう。僕、とても幸せでした」
声が詰まり、返事ができなかった。妻は玄関まで出られず、リビングで泣いていた。ドアが閉まった後も家の中には翔太の笑い声が残っている気がした。
「いい子だったな……」
「ええ、そうね……」
僕たちは互いに寄り添いながら、静かに涙を流した。泣きながら一菜は「ありがとう」と小さく何度も言った。
◇
半年後、夫婦で買い物をした帰り、駅前の商店街で「万引きだ!」という声が響くのを聞いた。
振り返ると、やせ細った少年が食料品を抱えて走ってきた。その顔を見た瞬間、胸が凍りついた。「翔太」だった。
彼は一瞬立ち止まり、こちらを見た。おびえるような、助けを求めるような目だった。だが次の瞬間、群衆に紛れて消えていった。
「あなた……」
一菜が震え声で言った。
「ダメだ。もう僕たちの子じゃない」
勝手に連れ帰ったら「誘拐」になる。レンタル期限が切れたら、僕らは「赤の他人」だ。少年の本名さえ知らないのだ。
商店の前で、店員が肩で息をしている。彼は「見失った」と言い、僕たちに疑わしげな目を向けた。僕は顔を伏せ、何もできずにその場を離れた。
◇
一ヶ月後、テレビで九歳の男の子が継父から虐待を受け、死亡したというニュースが報じられた。画面の隅に小さな写真が映る。そこに写っていたのは、あの「翔太」だった。
一菜はリモコンを握ったまま、ソファに崩れ落ちた。僕はテレビを消すこともできず、哀しげに画面を見つめ続けた。
翔太は最後まで袖をまくろうとしなかった。プールを拒んだ日のあのおびえたような目がよみがえる。
彼は傷を隠していたのだ。僕たちは、気づこうと思えば気づけたのに、契約を言い訳に見ないフリをしたのだ。彼を助けてやれなかった自分がやるせなかった。
◇
それから僕たちは夫婦で何度も話し合った。食卓で、寝室で、週末のカフェで。「どうしてあの時――」という言葉は禁句だった。
区役所で主催された里親制度の説明会に参加した。講習を受け、家庭訪問を受け、身上書を書き、近隣の聞き取りにも耐えた。何度もくじけそうになりながら僕たちは前へ進んだ。
半年後、八歳の少女を里子として迎えることが決まった。名前は梢。最初に玄関の敷居をまたいだとき、彼女は靴を揃え、顔を上げて言った。
「お世話になります」
教え込まれたようなぎこちない声だった。一菜は「いらっしゃい」と笑った。彼女もまた笑い方を少しずつ思い出しているようだった。
初めての夜、梢は食卓の端に緊張したように座っていた。山盛りの唐揚げを出すと、目が丸くなった。恐る恐る箸を伸ばし、唐揚げを口に含む。妻が「おいしい?」と訊くと、「おいしいです」と返ってきた。
数日後、梢がリビングの棚に置いてある写真立てに気づいた。別れの日、三人で撮った写真だ。真ん中で翔太が笑い、一菜は涙を堪えるように笑っている。
「この男の子は誰?」
梢が指さした。僕は一菜と顔を見合わせ、それから写真を手に取った。
「君のお兄ちゃんだよ。翔太っていうんだ」
梢は写真をじっと見つめ、それから「ふーん」と言った。
その夜、風呂上がりの梢の髪を、一菜がタオルでそっと拭くと、少女がくすぐったそうに肩をすくめた。
「ドライヤーがいい?」
「手で拭いてもらうのが好き」
「じゃあ毎晩やってあげる」
「……ほんとに? じゃあ約束ね」
梢の小さな指が妻の手を握る。血のつながりはないけれど、僕たちはようやく「家族」になれた気がした。翔太の短い命が、僕たちをここへ導いてくれたのだ。
あの写真の中で、翔太は変わらない笑顔のまま生きている。僕たちはレンタル家族かもしれない。でも、あの瞬間、僕たちは本当の「家族」だった。
梢を優しく見つめながら、僕は心の中でつぶやいた。
――翔太、ありがとう。