4.たかなしこまり
──翌朝。
窓を叩く雨音に目を覚ました俺達は、お互いどこか気まずい空気のまま、いそいそとベッドから出た。
昨日のあれこれは、夢か何かかもしれないと思うくらいお互いに話題にはしない。
ただ、「雨はやだね」だとか、「今日の授業は体育館に変更かー」などと他愛ない話題を交わしながら朝食を食べる。
……夢でないことくらい、わかっている。
朝、二人で同じベッドで目覚めたのだから。
だが、その経緯は少しばかり情けないものだった。
そんなことを考えていると、ふと唯が俺をちらっと見て小さく笑う。
目を逸らしながら、俺はバツの悪さに黙り込んだ。
「……へたれー」
「っ」
詰まる俺に、唯が悪戯っぽく笑ってジト目を向ける。
「健司があんなに意気地なしだなんて」
「だ、だってさ……!」
「わたしの勇気とか恥ずかしさとかどうしてくれんのよー。もー」
俺の手をつんつんと指でつつきながら、唯が恥ずかしげに笑う。
「彼氏役でしょ?」
「わかってるよ。次は──」
と、そこまで口に出して……『次は』どうするべきかと考える。
昨夜の唯は、あまりに不意打ちが過ぎた。
風呂での出来事ですでにキャパオーバーだった俺は、その後の唯の行動にまるで対応できなかったのだ。
──「キスはダメ。セックスも、ダメ。でもそれ以外は、『全部』……いいよ」
『全部』ってなんだ?
俺は唯に──好きな女に『何』をしていいんだ?
『何』をしたらいいんだ?
そんな混乱が、俺を支配してしまった。
唯の肢体が目の前にあって、その柔らかさと温もりが直に触れているというのに、俺は何一つできず……ただただ抱き枕のように幼馴染を抱きしめることしかしなかった。
したいことはある。たくさんある。
俺が唯に向ける肉欲は、高校生男子としては正常か──あるいは、少しばかり異常ですらあるかもしれない。
だが、その一部始終を〝カレ〟に見られるということが、俺を躊躇させたのかもしれない。
部屋の端で小さく光るあの赤いランプが、俺が『偽物』だということをいやがおうにも自覚させてしまうから。
「〝カレ〟、しょんぼりしてるかも」
「連絡、あったのか?」
「うん。毎日モーニングコールしてくれるんだ。マメでしょ?」
そんなの、普通だろ──という言葉を、静かに飲み込む。
長らく唯の隣に住んでるっていうのに、俺はそういうことをまるでしてこなかった。
片思いをただただ拗らせていただけの俺には、それを普通だなんて言う資格はない。
「でも、今日は金曜日だし……学校終わったら、会いに行っちゃおうかな」
嬉々とした表情を見せる唯に、胸がぎゅっと痛む。
唯が本当の彼氏の元に行くのは、当たり前のことだ。
さりとて、胸中に渦巻く嫉妬はいかんともしがたい。
だから、俺は軽口をたたく。
「彼氏役として、俺は今、どんな顔をしたらいいんだ?」
「む、どうかなぁ? なかなか難しいよね。でも、その顔でいいんじゃないかな?」
「……どんな顔?」
質問した俺の頬に、唯がそっと手を触れる。
「ちょっと寂しそう、かな? ふふ」
小さく笑った唯が俺の頬に口づけをして囁く。
「え」
「カメラもないし、ほっぺだからセーフってことで。ね?」
◆
金曜日の学校は、少しばかり憂鬱に過ぎていく。
雨模様で日の光に乏しいせいなのかもしれないが、週末は唯に会えないという事実が俺の気をかなり滅入らせていた。
これまで、週末に顔を合せないことなんて当たり前のことだったはずなのに。
……我ながら現金な話だと自嘲する。
ただ、これはもしかするとチャンスかもしれないとも思い直した。
唯が彼氏に会いに行くということがわかっているなら、後をつけることもできる。
直接〝カレ〟と対面することができれば、唯に対する態度を改めるように説得できるかもしれないし、なんなら暴力に訴えたっていい。
とにかく、『唯の彼氏』の正体をつかまねば、話にもならない。
「よし」
退屈な授業とホームルームが終わると同時に、俺は鞄を掴んで立ち上がる。
幼馴染に先んじて、自宅に戻るためにはそれなり素早い行動が必要だ。
彼氏に会いに行くとして、よもや制服のまま出掛けることはないだろうから、一度は自宅に帰るはず……と、急ぐ俺のスマートフォンが小さく震動した。
画面を確認すると、唯からのメッセージを知らせるポップアップが表示されている。
なんだか嫌な予感をがしたが、意を決してタッチするといくつかのメッセージが唯から届いていた。
『今日はこのままカレの所に直帰デス!』
『彼氏役はいったん休憩! オツカレさま!』
『週末はゆっくりしてね! 帰ったら、そっちにいくから』
メッセージを読み進めるにつれて、早足で歩いていた俺の脚は徐々に鉛のように重くなって……とうとう、止まってしまった。
週末に足取りを軽くする同級生たちが隣をすり抜けていく中、俺はその場で膝をつかないようにするのが精いっぱいで、ただただ立ち尽くす。
「あれ? 先輩? どうしたんスか?」
倒れる代わりに壁にもたれかかってしまっていた俺に、誰かが声をかけた。
少し高めなその声には、聞き覚えがある。
「小鳥遊?」
「ッス。……顔色悪いっスよ? 大丈夫スか?」
俺の前にちょこんと立つ小さい影──小鳥遊 小毬──は中学時代からの後輩だ。
当然、唯の後輩でもある。俺達は、中学時代同じ部活に所属していたから。
「ああ、大丈夫だ。問題ない」
「問題ないって顔色じゃないっスけどね?」
とことこと近づいてきた小鳥遊は、背伸びして俺の額に手を伸ばす。
少しひやりとした手が触れて、心地が良かった。
「熱はなさそうッスけど。保健室いきます?」
「ああ、いや。今日はもう帰るだけだしな。心配ない」
「じゃ、途中までご一緒するっス。あ、でも佐藤先輩に怒られちゃいますかね?」
くるくると表情を変えながら首をかしげる小鳥遊。
どこか小動物っぽく、中学時代から男女問わずに多くの友人や先輩から可愛がられている。
これでなかなかよく気が付くやつで、俺も部活で助けられるとこが何度かあった。
──ここで、ふと思い当たる。
唯は、例の〝カレ〟について『部活の友人から紹介してもらった』と言っていた。
俺は高校に入ってから帰宅部になってしまったが、小鳥遊は唯と同じ部活に所属しているはずだ。
もしかすると、その『友人』について何か知っているかもしれない。
「なぁ、小鳥遊。今日、部活は?」
「今日……てか、金曜は基本休みっす」
「せっかくだし、帰りにちょっと寄ってかないか? 奢るからさ」
「なんスか? 恋バナッスか? 惚気っスか?」
そのどちらでもないが、ここで立ち話というのも人目につくし、落ち着かない。
できれば、腰を落ち着けて話したかった。
「単に先輩風を吹かしたいだけだよ。久々にちょっと話もしたいし」
「乗ったっス! 靴、履き替えてくるんで待っててくださいっス」
ショートボブにした黒髪を躍らせながら、小鳥遊が一年生の靴箱に向かってぱたぱたと駆けていく。
その背中を見送って、俺は息を整えつつ頭の中を整理しようとした。
……何を話すべきか。どこまで話すべきか。どう話すべきか。
小鳥遊はあれでそこそこに察しが良くて、それなりに賢いやつだ。
ヘタを打てば、今の俺と唯の関係を察しかねない。
どう切り出せば、うまくいくだろう?
「お待たせっスー!」
考えがまとまりきらぬまま、小鳥遊と並んで校門を目指す。
どこか上機嫌な後輩と連れ立って、俺は自宅と反対方向……駅の近くにあるカフェに向かって、小雨の中を歩くのだった。