3.事故は起きるべくして起こるもの
シャワーから出るお湯が床を叩く音を聞きながら、俺は遮られた視界の中で考える。
一体全体、どうなっているのか、と。
どうして、俺はこんな状態で風呂にいるんだ?
「温度どう? 熱くない?」
背後からの声に、思わず背筋がピン伸びる。
そう、唯が俺の後ろにいるのだ。
『メシと来たらフロ』というのは聞いたが、まさか一緒に入るなんて聞いてない。
「丁度いいけど……唯?」
「なぁに?」
「何で一緒に入ろうなんて」
「そのほうが恋人らしいでしょ?」
唯の言葉に、心がぞわりとざわつく。
『恋人らしい』。そんなキーワードがまるでカエシのついた釣り針のように俺を現実へと釣り上げた。
「どうかした?」
「いや、どうもしてないけど。これ、なんでだ?」
察しのいい唯を誤魔化すべく、俺は目隠しに巻かれたタオルをつまむ。
これのおかげで視界は真っ暗だ。
「ちょっと! とっちゃダメだよ? さすがに裸見られるの、恥ずかしいんだから」
唯の不意打ちな返事に思わずドキリとしてしまう。
いや、落ち着こう。きっといつもの悪戯だ。
実際は何か着ていて、後でからかわれるに決まってる。
だから、少し落ち着いて軽口を返す。
「なに言ってんだ。幼馴染で彼女役なんだから、なんて言って朝は俺の着替えを見てたくせに」
それに今だって、俺は何もかもを引っぺがされた後だ。
「健司はいいけど、わたしはダメ」
「不公平すぎる」
「……え、見たいの?」
再度の不意打ちに、俺はまた固まってしまった。
そして、これにどう返事するべきか……と思考を巡らせる。
幼馴染として、友人として。もしくは、恋人役として。
どちらの俺で、返事するべきなのか。
今の俺は、どっちなんだ?
「見たい」
迷う俺の口から出た言葉は、実に正直で直球なものだった。
こんな直接的な欲望を口にするなんて、と自分に嫌悪感を抱きもするが……恋人役としても、片思いの相手としても、これが正解だと思えてしまった。
「もう、健司ったら! わたしのことそんな目で見てたの?」
唯の表情はわからない。
だが、不意にシャワーで俺の背を流し始めた幼馴染の動揺は、視界が遮られていても見て取れた。
もしかすると、返答を誤ったのかもしれない。
「うーん……やっぱり、ダメ。さすがに恥ずかしいもん」
「彼氏役としていい仕事ができたか?」
「む。健司ったら、なまいき!」
シャワーが止まり、何かごそごそとする音。
それと、カシュカシュというプッシュ音が聞こえた。
「なんだか怖いんだけど?」
「はいはい、じっとしててね。お背中流しますよー」
ぺたりと何かが背中に触れる。
柔らかな唯の手の感触と、そしてそれが左右に動く感触。
俺の背中の上を、ゆっくりとした動きで唯の手が滑る。
「背中、広いねー」
「そう、か?」
「うん。子供の頃に洗いっこした時と全然ちがう」
そう囁きながら、俺の背中を上に、下に、左に、右に、そして肩、腰、脇腹と手を伸ばす唯。
やがて、その手が、ゆっくりと腹に回っていく。
これはまずい、と俺は身を固くする。
「唯、ストップ。自分で洗える」
「そ、そう?」
少し焦ったような唯の声。
すでに雰囲気と唯の手の柔らかさに呑まれて、もういろいろと限界だった。
唯が何かを目にしてしまっている可能性は否めないが、これ以上はまずい。
しかし、すぐに柔らかな手の感触が背中に再び触れた。
「唯?」
「もう、いまさら! 昔は一緒にお風呂だって入ってたんだし、いいもん」
「おい、おいおい」
焦る俺に耳を貸すつもりはないらしく、再びまさぐるようにして俺の体を手で洗いはじめる唯。
そのやや乱暴な手つきが――事故の元となった。
◆
風呂を上がって、少し。
俺はのぼせきった頭で、自室のベッドに腰かけていた。
まるで考えがまとまらない。
そもそも、どうしてこんなことになったのかという根本的なところからわからない。
唯に彼氏ができて。その彼氏が特殊性癖を持つ変態で、それでもって唯は俺の恋人の真似事をしながら、本物の恋人である〝カレ〟の歪んだ欲望に応える。
……言葉にしてみれば、これだけだ。
しかし、唯は先ほどの出来事で俺が『男としての欲望を向けている』ことを知った。
知った上で、俺に触れることをやめなかったし……俺は彼氏役にかこつけて唯を止めなかった。
これでは〝カレ〟とやらの思うつぼだとわかっていながら。
「……健司?」
「お、おう」
思考を途切れさせて顔を上げると、唯が開いた扉から小さく顔をのぞかせていた。
先ほどのこともあって、気恥ずかしくもあり気まずくもある。
長年幼馴染をしていて、これまでいろんな失敗やかっこ悪いところも見られてきたが、それらとは全く別な恥ずかしさに戸惑ってしまう。
「えっと、電気消してもらっていい?」
「ん? 消すのか?」
「うん」
言われた通り、手元のスイッチで部屋の明かりを消す。
六月とはいえ、この時間になれば外は真っ暗だ。
当然、部屋の中も暗闇に包まれる。
「消したぞ?」
「うん、ありがと」
返事と共に、小さな足音。
それは、俺の部屋に備えられたスチールラックの前で止まった。
なにやらごそごそとした後に、『ピッ』という電子音とうっすらチラつく赤く小さなランプ。
それを見て、あの位置に唯が設置した〝カレ〟のカメラがあることに思い至る。
「つけたのか? カメラ」
「うん。ちょっと気になると思うけど、ごめんね」
暗闇になれぬ視線の先、窓から入る月の光が、唯のシルエットをうっすらと浮かび上がらせる。
薄暗くてよく見えないが、唯がはにかむように小さく笑った気がした。
「じゃあ、いまからそっちにいきます」
「唯?」
俺の目の前でとまった足音が、甘い匂いと共に俺の理性をかき乱す。
「ルール、覚えてるよね?」
唯の声に、暗闇の中で喉を鳴らす。
期待か、それとも別の何かか。
――「キスはダメ。セックスも、ダメ。でも、それ以外は『全部』……いいよ」
暗闇の中、『ルール』が脳裏で小さく反響した。