2.彼氏役のリアリティ
「いやー、大変だったね」
放課後。
手を繋いで隣を歩く唯が、どこか気恥ずかしそうな様子で笑う。
「疲れた。もうくたくただよ」
「あはは、お疲れ様」
俺と唯が交際を始めた……という情報は、瞬く間に学校に広がった。
親しみやすく、それでいて可愛いと評判の唯は同学年ならず先輩や後輩にも人気がある。
特別な関係になりたいと願っていた男子は、俺も含めて多かったはずだ。
そんな唯が、いきなり恋人繋ぎを見せびらかすようにして男と登校してくれば噂にもなる。
「なあ、唯」
「ん?」
「その、彼氏役だからってのはわかるんだが、なんで学校でまで?」
朝にできなかった質問を投げかける。
俺は唯の彼氏役であって、彼氏ではない。
悔しいことだが、〝カレ〟とやらの度し難い性癖の受け皿に過ぎないのだ。
だというのに、〝カレ〟の目が届かぬ学校で俺が『周知上の彼氏』でいることに何の意味があるのか。
「えーっと、わたしにもよくわかんないんだけど……」
そう小さく首をかしげながら唯が口を開く。
「リアリティが重要なんだって」
「なんだ、それ……」
「実際に、健司とわたしが付き合ってる風に見せたいみたい」
意味は分かる。だが、意図がまるで分らない。
そんなことをして、一体何になるというのか。
「お前の彼氏は一体何がしたいんだよ」
「えへへ、わかんない。でも、〝カレ〟がそう言うなら……なるたけ聞いてあげたいんだ」
どこか熱っぽい様子で微笑む唯。
手を繋いでいるっていうのにまるで遠くにいるようで、その虚ろな気持ちが吐気に変じるのに時間はそうかからなかった。
俺の唯にここまでさせるなんて、一体どこのどいつなんだ……!
ここまで考えて、ようやく俺は当たり前のことに行きついた。
どうして今まで気が付かなかったのか。
己のぼんくらさを思わず心の中で自嘲する。
「なあ、唯」
「ん?」
「その彼氏とやらに会わせてくれよ」
俺の言葉に、唯が小さく目を見開いて……そのあと「ぷっ」と噴き出した。
面白いことを言ったつもりはなかったが、どうして笑うのだろうか。
「すごい。〝カレ〟の言ったとおりだった」
「……え?」
「昨日、〝カレ〟が言ってたの。健司がそう言うだろうって」
押し殺すように笑う唯に唖然とすると同時に、悔しさに似た感情がこみ上げてくる。
読まれていた。唯の彼氏に。俺がどんなふうに動くのかを。
そして、今の俺がどんな気持ちでいるのかも読まれているのだろう。
「ごめんね。〝カレ〟のこと、わたしは紹介したいんだけど……」
「ダメなのか?」
「うん。〝カレ〟ったら、その方が気兼ねなく健司が彼氏役しやすいだろうって。それと……」
「それと?」
俺の聞き返しに、一拍置いて唯が口を開く。
「その方がコーフンするんだって。ホント、ヘンタイだよねぇ」
「……ッ」
顔を赤くして恥ずかしげに笑う唯だが、その瞳はどこか艶っぽく見える。
〝カレ〟の興奮が自分に向けられる未来を想像しているのかもしれない。
つまり、俺は唯の彼氏に侮られている。
面と向かうことなく徹底的に姿を隠して、こそこそと自分のNTR性癖を満たすつもりなのだろう。
俺が嫉妬と怒りに駆られて接触しようとすることも読み切った上で、だ。
くそ! これじゃあ、唯が救えないじゃないか!
……いや、そもそも唯はどう思ってるんだ?
こんな風に、好きに扱われて。
俺の中に湧き出た疑問は、すぐに吹き飛んだ。
唯が、答えを口にしたから。
「あ、でもすっごく優しんだよ〝カレ〟。今回のだってわたしが嫌ならいつでもやめていいって」
「嫌じゃないのか?」
「最初はちょっとどうかなって思ったけど、その、さ……相手、健司、だし」
握る手に少し力がこもる。
隣を見れば、唯が頬を染めてもじもじとしていた。
恥じらうような幼馴染の仕草に、不意に胸が高鳴る。
「昨日だってさ、結構ドキドキしてたんだよ? あんなこと、お願いするの恥ずかしかったし」
「……!」
「変なこと頼んじゃって悪いなーとは思ってる、し……」
しりすぼみに小さくなる唯の声。
「なら──」
「でも〝カレ〟がそういうのがいいって、言うんだもん」
俺の言葉を掻き消すように放たれた唯の言葉が、俺の心を重くする。
結局のところ、いま唯の中心にあるのは〝カレ〟なのだ。
だから、俺は少しばかり心を切り替える。
今この段階で俺にできることは、唯とその彼氏の性癖に付き合う事だけだ。
余計な口出しをして、これ以上に事態が深刻化することだけは避けなくては。
唯の彼氏については、尻尾を掴むまでノータッチを装う他あるまい。
「……わかった。唯に協力する」
「うん! ありがとうね、健司。愛してるぜー」
冗談めかして放たれた言葉がもつ切れ味の、なんと鋭いことか。
こんな状況で、聞きたくはなかった。
「さてと、じゃあ。早速だけど……彼女っぽい事、しちゃおっかな!」
心の生傷に耐える俺を知ってか知らずか、唯が手を引く。
向かう先は、唯の家──の隣。
つまり、俺の家だった。
◆
「おお……!」
帰宅してから、しばし。
ダイニングに備えられたテーブルには、湯気を立てる料理が並んでいた。
どれもこれも、唯が作ってくれたものだ。
野菜サラダにオニオンスープ。一口ハンバーグ。
それに、ふわふわに仕上げられたオムライス。
長らく食卓に上がることのなかった、まともな料理が並んでいる。
「すっげぇうまそう。いただきます!」
「すとっぷ! まだ仕上げが残ってるの!」
意気揚々とスプーンを掴んだところで、エプロン姿の唯に制止された俺はぴたりと動きを止める。
すごく美味しそうで、しかも唯の手料理。
さすがに「待て」は殺生ではなかろうか。
「こうして、っと」
オムライスにケチャップで『ケンジ♡』と描く唯が。
出来栄えに満足したのか、スマートフォンを取り出して写真をぱしゃり。
そして、スプーンを握ったままの俺に向き直る。
「はい、完成! 召し上がれ」
「いただきます」
唯の手料理は、どれもうまかった。
長年幼馴染をしているが、こうして料理をふるまってもらう機会などなく「唯が料理上手だなんって少し意外だな」とすら思っている。
「どう?」
「うまい」
「えへへ、喜んでもらえてよかった」
俺の食べる様子を、正面に座ってにこにことした様子で見つめる唯。
そんな唯の視線を感じつつ、俺は並べられた手料理を胃に収めていく。
昨日から調子のあまりよくない俺の胃だったが、唯の手料理とあらば関係ないらしい。
「ごちそうさま。うまかったよ」
「うん。これから、できるだけ毎日作ったげる」
「……マジ?」
「大マジ。週末以外だけどね」
言外にそれが何を意味するのか察してしまい、思わず表情がこわばる。
そんな俺に小さく苦笑して、唯が俺の手に触れた。
「なになに? 寂しい?」
「そんなんじゃ、ないけど……」
「彼氏役としては、悔しがってほしかったり?」
「ここにはカメラはないだろ? 意味あるのか?」
俺のややつっけんどんな返答に、困ったような顔をした唯がオムライスの皿をちょいちょいと指さして囁く。
「わたしは、ちゃーんと彼女役として健司にハジメテをあげたのになー……」
「はじめて?」
「オムライスに名前なんて〝カレ〟にだってしたことないよ? 結構恥ずかしかったんだから」
俺の手の甲を指でいじいじとする唯。
これは『拗ねてますよ。かまってください』の合図だと、俺は知っている。
そう、俺だけがこの唯のサインを理解しているのだ。
「わ、悪かったよ」
「ふーんだ。わたしは真面目に彼女役をやろうとしてるのに」
「機嫌直してくれよ。謝るからさ」
唯の手を両手で包んで、頭を下げる。
そうだ、俺は彼氏役を完遂せねばならない。
ここにきて、俺はようやく唯の彼氏の真意がうっすらと理解できた。
──おそらく〝カレ〟とやらは、俺と唯を本当の恋人同士にするつもりだ。
もちろん、当事者にとっては何もかも偽装で、俺達に恋人フリをさせようというのは変わらないが、自分の目の届かないところであっても唯に『浮気』を公然とさせることで、周囲にそう認知させ……『リアリティ』とやらを補強するつもりなのだろう。
反吐が出るほどに狂ってやがる。
「もう。でも、今回は許す! 無理なお願い聞いてもらってるからね」
「今後は善処するよ」
「なにそれ、政治家みたい」
くすくすと笑った唯が、すっくと立ちあがる。
「それじゃあ、行こっか」
「え、どこに?」
「メシと来たら……次はフロでしょ?」
あっけらかんとした様子で、唯がバスルームに続く廊下を指さした。