1.彼氏役の日常
「おはよう! 健司」
モヤモヤとした浅い眠りのまま朝を迎えた翌日。
目を覚ますと、目の前に唯がいた。
制服姿のまま、ベッドに横たわる俺に馬乗りになっている。
「唯?」
「なに?」
「いや、『なに』は俺のセリフなんだけど」
寝間着代わりのスウェット越しに、唯の軽い体重と柔らかさを感じながら、俺は脳の混乱を鎮めようとする。
俺の部屋に唯が来ることは、別段珍しいことではない。
ゲームの相手、漫画の貸し借り、ただ何となく……などなど、お互いの部屋に立ち入るのはもはや自然なことで、よくある。
だが、こうして朝に起こしに来るなんてことは随分と久しぶりのことだった。
「どうしたんだ? いきなり」
「おやおや? 昨日から健司はわたしの何になったんだっけ?」
俺の言葉に、唯がにこりと笑う。
その屈託のない笑顔に、俺は昨日の出来事を思い出した。
「彼氏……役?」
「そ! だったら一緒に登校しないとね!」
「なるほどね」
唯の言葉に、あいまいに頷きながらも昨日のことが徐々に思い出されてきて、胃をじわりと蝕む。
あんな話……嘘や冗談であればどれほどよかったことかと、朝から暗澹たる気持ちになってしまった。
「昨日はありがとうね。〝カレ〟すっごく喜んでた」
「……お役に立てて何よりだよ」
「うん。ホント助かっちゃった! おかげ様で〝カレ〟ったら昨日はいっぱい『なかよし』してくれてさ──あれ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「ちょっと夜更かししすぎただけだ」
そう答えて上体を起こすと、唯の顔が近くなる。
鼻と鼻が触れあいそうなくらいに。目の前には、柔らかそうな唇。
昨夜、これが噂の〝カレ〟とやらに蹂躙されたのかと思うと胸が締め付けられるような気持ちになった。
いっそ、ここで唯を奪い去りたい。上書きしてしまいたいと考えてしまう。
そんな俺の気配を察してか、向かい合った唯が少し顔を赤くして顔をそむける。
「ダメだよ? ルール、覚えてるよね?」
「……わかってるよ」
──「キスはダメ。セックスも、ダメ。でもそれ以外は、『全部』……いいよ」
昨日の唯の言葉が脳裏に残響して、唯がもう〝カレ〟のモノなのだと、再認識する。
最高の朝なのに、最悪な気分だ。
「ほら、どいてくれ。それと、着替えるからちょっと出てて」
「もう、なに恥ずかしがってんの? 幼馴染で彼女役なんだから気にしないって」
そう、恥ずかしがる間柄でもない。ないはずなのだ。
しかし、唯が『他の男のもの』だと思うとどうも拒否感が募る。
〝カレ〟にも同じ態度なのだと思うと、逆にこの慣れた距離感に小さな嫌悪感すら覚えてしまうのだ。
「あ、その前に。これ」
着替え始めた俺の隣、唯が鞄から何やら小さな物体を取り出す。
小型の三脚と、小さなデジタルカメラ。
「……それ、なに?」
「カメラ。ここにも、置かせてもらっていい?」
唯が何を言っているのかわからず、数秒……意識が澱む。
俺の部屋をのぞき見て一体どうしようというのか。
「幼馴染でお隣同士のカップルが、普段どんな風なのか知りたいんだってさ」
「なんだよ、それ」
思わず不機嫌に返してしまう。
自分的には怒鳴らなかっただけマシかもしれないと思ったけど。
「怒んないでよ。置いとくだけでいいから。普段は布で隠しておいてくれればいいし」
「何が目的なんだよ、お前の〝カレ〟とやらは」
「んー、わたしもよくわからないんだけど……こうして、健司の部屋にいるわたしの姿も見たいんだって」
マジで意味がわからない……わからないが、従うしかない。
ここで俺が下手に断ったりすれば、『彼氏役』を別のやつに切り替える可能性だってある。
それは絶対に避けなくてはならない。
「わかったよ」
「その代わり、毎日わたしに起こしに来てもらえるんだよ? ちょっとお得じゃない?」
「……まあ、そうだな」
「あれ? 意外に素直」
驚いたように小さく笑う幼馴染に、俺は苦笑を返す。
憧れていたシチュエーションではあるのだ。
毎朝、唯が起こしに来てくれて、そのまま一緒に通学するなんてのは何度だって夢に見た。
それが叶うというのに、全くいい気分ではないが。
「じゃあ、ほら。着替えて着替えて。急がないと遅れちゃう」
「わかったわかった」
唯に急かされて、俺は着替えを始める。
カメラのことは気になったが、逆に少しばかり落ち着きもした。
あれを通じて、〝カレ〟とやらに俺と唯の仲を理解させてやる。
……例の狂った性癖の〝カレ〟とやらは喜ぶだけかもしれないが。
それでも、見せつけてやる。
俺と唯が、ただの友人なんて枠を超えた関係だということを。
◆
手早く着替えを終えた俺は、買い置いてあった総菜パンを一つ手にして唯と一緒に家を出る。
いつも通りのルーティンだったが、今日は隣に唯がいると思うと少しだけ気分がいい。
「朝ごはん、それ?」
「ああ。夕方に値引き品を買うのがコツだ」
「……ちゃんと食べてる?」
「それなりに?」
心配そうにする唯に、俺は少し詰まる。
一年前に父が転勤になり、半一人暮らしになってこの方、まともな食事はややおざなり気味ではある。
「なんか怪しいなー。うちにもあんまり食べに来なくなったし」
「あんまり迷惑かけるわけにもいかないだろ」
「そんなこと言って、自活できてないんじゃ意味ないじゃない」
唯の指摘にまたも詰まりながら、通学路を歩む。
学校までの距離は徒歩にして二十分ほど。
高校に入ってからは、俺が自転車通学ということもあって唯と共に登下校することはなかった。
「んふふ、こうして並んで歩くのも久しぶりだね」
「そうかもな」
隣を歩く唯は、思っていたよりも小さい。
中学の頃はそれほど背丈に差がなかったので、こうして並んで立つとそれが際立った。
そんな唯に思わず見入ってしまう。
揺れるポニーテール。形のいい耳。白く細い首筋。
ブラウスの隙間からちらりと見える鎖骨。
そこから形の良いふくらみが、足元への視界を遮っていた。
制服という画一的な規格のパッケージからこぼれる『唯』に思わず喉を鳴らす。
「どしたの?」
「いや、なんでも?」
視線に気づかれてしまったことを恥ずかしく思って、目を逸らす。
幼馴染をそんな目で見ていることに気付かれたくなかった。
だが、それと同時に昨日の柔らかな感触を思い出してしまう。
幼馴染から感じた、濃厚な異性。
あれのせいだろうか、こんな風な視線で唯を見てしまうのは。
それとも──。
「あれれぇ? もしかして、わたしの魅力に気付いてしまったのかなぁ~?」
「そんなんじゃねぇよ。ただ、ちっこくなったなって」
「む! 聞き捨てならないなぁ……。健司がデカくなっただけでしょ!」
頬を少し膨らませた唯が、俺の背中をぱしりとはたく。
痛みはない。いつものじゃれあい。幼馴染特有のボディタッチ。
だが、今日はそれだけではなかった。
俺の背中を離れた唯の手はそのまま流れるようにして俺の手に触れて、ぎゅっと握ってくる。
もぞもぞと指を動かして、ゆっくりと俺の指に絡めていく幼馴染。
「……唯?」
「『恋人繋ぎ』って言うんだって、これ。ほら学校から帰るまではわたし、健司の彼女だから、ね?」
「……!」
「も、もう。あんまり意識しないでよ? わたしまで恥ずかしくなっちゃうから」
小さく顔を赤くする幼馴染に、俺は心中で「無理を言うな」とため息を吐く。
ここで役得だ、などと気楽に楽しめる性質であればどんなに良かっただろう。
この手を握って恥ずかしそうにする唯も、このあと学校で冷やかされる唯も、帰ってから幼馴染として振舞う唯も……全ては〝カレ〟の唯なのだ。
「みんな、きっとびっくりしちゃうね」
「……だろうな」
「彼氏役、しっかりお願いね?」
唯の言葉に曖昧にうなずきながらも、ここにきて疑問が湧き上がる。
学校にカメラが仕掛けられてるわけでもないだろうに、どうして学校でも偽の彼氏彼女として振舞う必要があるのだろうか?
しかし、それを唯に問うには少しばかり遅かったようだ。
気が付けば校門はもう目と鼻の先で……仲睦まじく手を繋いで歩く俺と唯の姿は多くの生徒に目撃されてしまっていた。
──もう、後戻りはできない。
昼休みが終わるころには、もはやそう観念することしか俺にはできなかった。