プロローグ/彼氏のふりをしてほしい?
「……彼氏のふりをしてほしい?」
俺が聞き返した言葉に、唯がうなずく。
幼馴染の表情は、いつものからかうような顔ではなく真剣そのものだ。
「ダメ、かな?」
「ダメじゃないけど。どういうこと?」
──佐藤 唯。
俺の幼稚園時代からの幼馴染で、家は隣同士。
同い年で、同じ高校に通っている。
そんな唯から「話があるので部屋に来てほしい」と呼び出されたのは、六月半ばのある日の放課後。
俺は自室の窓から出て屋根を伝い、いつものように向かいにある唯の部屋にお邪魔していた。
「えーっと、どこから話したらいいかな……」
ベッドに座って小さく首をかしげる唯の部屋着は、初夏の夜に合わせて少し薄着。
中学のころから目立つようになった胸が、薄い水色のキャミソールをピンと張り詰めさせていて、正直目のやり場に困る。
うつむくように視線を下に逸らした俺だったが、そっちはそっちでショートパンツから伸びる美脚が目に毒で視線を彷徨わせることになってしまった。
「……ねぇ聞いてる?」
「あ、っと。すまん」
幼馴染の無防備な姿に気もそぞろだった俺は、唯の話を完全に聞き漏らしてしまっていた。
だって仕方ない。俺にとって唯はもうただの幼馴染ではなく、片思いの相手なのだ。
意識し始めてもう三年になるが、意気地のない俺は未だに切り出せていない。
「もう、健司ったら」
「悪かったって。それで、ええと? 彼氏のふりってどういう?」
喉まで出かかった「それは彼氏じゃダメなのか?」という言葉を飲み込んで、今度こそ唯に向きなおる。
……思えば、これはチャンスかもしれない。
こんなことを頼んでくるくらいだし、少なくとも唯にとって俺は『彼氏としてアリ』ってことだ。
『仮の彼氏』から『本当の彼氏』になれるように、うまく状況を誘導できるかもしれない。
だが、そんな俺の甘い見通しは、次の瞬間粉々に打ち砕かれた。
「その、わたしのカレなんだけど──」
「ん?」
今、唯は何と言った?
聞き違い、だろうか?
「……カレ?」
「うん。そう、彼氏。そのカレが、ちょっと変わっててね」
「彼氏がいるのか?」
「いるよ? わたしだってもう高校生なんだから」
ぽかんとする俺に、少し照れた様子で笑う唯。
驚きが、徐々に焦燥感じみた不快感となって胃からせり上がってくる。
……嘘だろ!? いつの間に? 誰が?
昨日も、一昨日も、一週間前だって変わった様子なんてなかったじゃないか?
「健司?」
「あ、ああ、ちょっとびっくりした。唯に彼氏なんてさ」
「何よそれ! わたし、結構モテるのよ?」
知ってる。
知ってるからこそ、俺もずっと焦っていたんだ。
だから、今年の夏こそはって……!
「健司?」
「あ、ああ……すまん。そ、それで? どうして彼氏のふりなんて」
「それがカレって、ちょっと変わった性癖あってね……えっとNTRっていうの? わたしが他の男の子と仲良くしてるのを見て、興奮するっていうか──そういうのが好きみたいなの」
唯に彼氏がいるというだけでも十分ショックなのに、耳慣れない情報が入ってきてさらに混乱する。
「それでね、健司に『彼氏役』を頼めないかなって。こんなこと、健司くらいにしか頼めないし」
「どういうことか、もう少し詳しく教えてくれ」
「うん? ……うん」
嘔吐いたり、泣き出したくなったりするのを何とか堪えながら、唯から話を聞きだす。
曰く、唯に彼氏ができたのは三か月前。
相手は、部活の友人から紹介された大学生。
何度か遊ぶうちに仲良くなり、付き合うことになった。
交際は順調でセックスも体験済み。
……ああ、吐きそうだ。
で、その彼氏の様子がおかしくなったのが、二週間前。
何か思い悩んでいる様子で、一緒にいても気もそぞろになることが多くなった。
そんな〝カレ〟を心配した唯が問い詰めたことで、彼氏の性癖が発覚したらしい。
そう──〝NTR性癖〟だ。
あまり馴染みのない言葉だったのでスマホで軽く調べてみると、これは隠語じみたネットスラングで、『寝取り』『寝取られ』『寝取らせ』を意味する言葉らしい。
俺には全く理解できないが、そういった状況に興奮するのだということは何となく理解できた。
それで、だ。
唯がこんなことを言い出したのは、その彼氏のためらしい。
吐き気がする提案だが、相談してくれたのが俺でよかったという安堵も少しある。
さっき調べた限りでは、出会い系アプリなどを通じて見ず知らずの人間にパートナーを抱いてくれと頼んだりすることもよくあることと書いてあった。
彼氏の性癖に付き合って、唯が見知らぬ誰かに抱かれるなんて、妄想でも考えたくない。
「話は、わかった」
なんとか言葉を絞り出した俺に、唯が神妙な顔で向き直る。
いつものように「なーんてね、冗談」などと行ってくれればいいものを、そんな気配は全くない。
「それで、引き受けてくれる?」
「いいよ、やっても」
嫌悪感と怒りに吐き気を覚えながら、できるだけ平静を装って唯にうなずく。
ここで俺がうなずかなかったら、きっと他の誰かがこの役目を担う。
それだけはどうしても許せなかった。
そして、もう一つ──『彼氏役』ということは、少なくとも唯のそばにいることができる。
で、あれば……唯を取り返す機会もあるはずだ。
そんな変態野郎に、唯を任せておけるか!
決意する俺の右手を取って、唯が口を開く。
「ありがと。それじゃあ、ルールを説明するね」
「ルール?」
「うん。カレと話し合って決めたの。二人で」
そう告げる顔は恥ずかしそうで、耳まで真っ赤。
見たことがない幼馴染の様子に、思わず生唾を飲み込む。
それほどに、唯の表情には艶があった。
「キスはダメ。セックスも、ダメ。でも、それ以外は『全部』……いいよ」
告げられた『ルール』に、小さく喉を鳴らす。
混乱と期待が入り混じった、奇妙な感情が頭を埋め尽くした。
「それって……」
「こういうコトしても、いいってこと」
唯が握っていた俺の手を引いて、俺に抱きついてきた。
薄いキャミソール一枚を隔てて、唯の体温と柔らかさが広がる。
俺がずっと求めていた幼馴染ではない距離感が、そこにあった。
「カレがね、キスとセックス以外なら、えっちなことも、していいって……。むしろ、ぎりぎりがいいんだって……」
「……!」
この感情に、名前はあるのだろうか?
嫌悪感と期待と苦しみと浮ついたような熱が一度にこみあげて混ざり合うような、この感情の名前を俺は知らない。
「実はね……この部屋、ライブ配信中なんだよ?」
「えっ」
唯が悪戯っぽく小さく笑って、部屋のすみにあるタンスの上を指さす。
所狭しと並べられたぬいぐるみに雑じって、小さなデジカメのレンズがこちらを見ていた。
「カレが、見てるの」
恥ずかしそうに、しかし少し嬉しそうに唯が微笑む。
その言葉は俺でなく、カメラの向こうにいる〝カレ〟に向けられているように思えた。
状況に呑まれて沈黙すること数秒、唯のスマホがメッセージの着信を伝える小さな音を立てる。
それを確認した唯が、小さく笑みを見せた。
「カレ、さっそく大興奮みたい。ありがとうね、健司」
「唯、俺は──」
「わたし、ちょっと出かけてくる。ありがとう! またね!」
俺の言葉が終わる前にベッドから立ち上がった唯は、デスクチェアにかけてあったロングパーカーを羽織り、どこか浮かれた様子で部屋を出ていってしまった。
おそらく、件の彼氏とやらのところに行くのであろう。
「……」
そんな唯を止めるでもなく見送ってしまった俺は、残響する幼馴染の言葉を脳裏で反芻するのだった。