4-04 公爵夫人は離婚したい。〜もちろん親権は私が貰います〜
そうだ離婚しよう。そんなどこかに旅行に行くような気軽さで人生を変えるワードが頭に降ってきた。いいな。離婚しよう。
目の前では絵に書いたような完璧な家族が談笑している。
「好き嫌いしないで食べないと大きくなれないぞ、ちびうさぎ」
「そんなことないもん!!それにうさぎちがう!!」
「ジョシュア、タチアナをいじめるのはやめなさい」
食べ物の好き嫌いをする末っ子を諌める兄、それを朗らかに笑う父親。そして黙ってそれを聞き流す私と私の子供。これがこの家の日常だった。
私たちは正しくこの家の家族ではなかった。だから仕方ないのだ。
だから、離婚しよう。
我慢するのはもううんざりだ。
風切羽を切られた鳥の気分を知っているだろうか?大空を飛ぼうとしたら空の絵を書いた豪華な箱に詰められた鳥の気分は?のびのびと大地に根を張ろうと思ったら硬い壁に阻まれた植木鉢の植木の気分は?立ち上がり、餌を食べるギリギリの長さしかない鎖に繋がれた犬の気分は?
そしてそれらが視線を向けた先でのびのびと自由と愛を謳歌している存在がいたらどんな気分になるだろうか。
大抵の人は知らないだろう。私も知らなかった。
でも今は知っている。
無邪気な笑い声が食卓に響く。カトラリーが皿にぶつかる音と同時に嫌いなものが入っていたのだろう皿をテーブルの奥に押しやる幼子を見て無意識にため息を飲み込んだ。
「タチアナお嬢様、行儀が悪いですよ」
「はぁい、お義母さ…あっ、奥さま」
視線を向けると大袈裟に怯えたようにピンクブロンドが跳ねる。またか。そんな苦い気持ちが込み上げるのを飲み下し、口元を拭く。8歳になってテーブルマナーがなってないことや嫌いなものがあったとて皿を投げるな等言いたいことは沢山あるが突き刺さる周囲の視線にこれ以上言葉を重ねるのも億劫になり鉾を収める。
ここ最近はため息と憂鬱を飲み込みすぎて食欲が直ぐに失せるから困ったものだ。
「母と呼んでいいと前にも伝えたはずですが」
「すみません……お義母さま」
「気にしないでください。」よその食事にお招きされた時のことを考えて好き嫌いも多少は直しましょうね」
いかにもしょんぼりと俯くタチアナ。いかにも庇護欲を誘う姿は貴族の8歳の娘としてはあまりにも頼りなく、情けない。すぐ横で5歳のアディが余程上手く、好き嫌いなく食べている姿を見て余計に情けないという気持ちが込み上げてくる。
「タチアナはそんなこと気にしなくていい!」
「そうだ、私たちの公爵家に対して失礼なことを言える存在は居ないのだから安心していい」
責めるような視線が長男ジョシュアと夫から注がれる。壁に下がったメイドたちからも避難の目が刺さる。口の中に苦い味が広がれば良かったとは思うが、あいにく慣れてしまったので口の中は公爵家の美味しい料理の味のみだ。
「夫人、あなたは少し厳しすぎるのではないか?」
「厳しい?これくらい礼法でも、マナーでもなく平民を含めた常識の範囲内ですわ。嫌いなものがあったとしても食器を投げない。4歳のアディですらできることです」
「そんな!タチアナのことをバカにしてるんですね奥様!」
私の言葉にタチアナが悲鳴のような声を上げてから泣き出す。何とかもう一度ため息を飲み込んだ。ついでにさらに込み上げたあくびを噛み殺す。人前であくびなんて人のこと言えないわよ、私。
目の前でくだらない茶番が続く。仕方がない。この場所は彼女のための場所なのだから。
「体調が悪いので失礼いたします。アディ、残りは部屋に持ってきてもらいましょうね」
「はぁい、おかあさま」
「返事は短く美しく」
「はい!」
横に座る可愛いドレスを着た我が子の顔を軽く拭いてから自室に下がる。扉が閉まる寸前。夫に縋るタチアナの、甘ったれた声が聞こえた気がした。
「お嬢様に奥様、どちらもお互い家族として認めてないって点ではタチアナを責められないわね」
「おかあさま?」
「なんでもないわ、今日も好き嫌い無く食べて偉かったねアディ」
ふとしたつぶやきに反応した我が子の頭を撫でる。柔らかな赤毛に可愛いそばかす。緑の目は春の色をしている。ふくふくしたえくぼの可愛い小さな手をもつ、ミルクの匂いの優しくて気遣い屋さんの私の可愛い可愛い子供。
この子だけは守らなければ。
──11年前、私はタチアナの母親、イリスの家庭教師としてこの家に雇われた。イリスは子爵令嬢だった私の幼馴染で侍女だったのだが、タチアナの父親、イアン・グレイ公爵に見初められて大恋愛の末に結婚。
平民出身だったあの子はあろうことか私を、子爵令嬢であり、元雇い主の家の娘だった私を貴族社会に慣れるための家庭教師として指名したのだ。
想像できるだろうか?先日まで自分に仕えていた侍女に自分が膝を折り、物事を教えるのだ。外に出る度にあらゆる令嬢からバカにされた。
『平民に負けた、魅力のない女』
『侍女の管理も出来ない馬鹿女』
今、思い出しても胃が掻き毟られるような屈辱だった。しかし公爵家に逆らうほど馬鹿げた勇気は実家にも私にもなく、泣く泣く従った。
元々親戚の家の子の家庭教師に、と首都に出たのにイリスのわがままのせいで全ての時間をイリスに捧げることになった。
そして、長男のジョシュアが産まれるとジョシュアの乳母兼家庭教師もすることとなる。
それなのにあの子は私を見せびらかすようにわざとらしくあちこちに出歩き、わざとらしく私をお嬢様呼びし、わざとらしく元侍女をいじめる家庭教師に仕立てあげては針のむしろに立たせたのだ。
こんなことにも気付かずに何が運命の恋人だと当時は冷めた目で2人のことを見ていたが、ある日イリスはタチアナを身篭ったまま行方をくらませた。
教会からの帰り道に襲撃にあってそのまま連れ去られたのだ。
あのころの公爵の混乱ぶりは目を見張るものがあった。国王まで脅し、国中に手配書を貼り、あちこちに騎士を派遣していた。それでも見つからない。3年たち、法的にイリスの死が認められると今度は長男だけでは後継者のストックが足りないと周りの重臣たちが騒ぎ始める。
見つからない最愛、そして日夜騒ぐ重臣に参ったのだろう公爵閣下はあろうことか私を両親から金で買い、重臣の中でも特に忠誠心の高い伯爵家に養子入りさせ、結婚するというとんでもない暴挙に出たのだ。
しかも私に一言の声掛けもなかった。勝手に婚姻届が教会に出されたその日、あの公爵は一言こういって私を押し倒した。
「君ならきっとイリスも許してくれると思ったんだ。君のことは愛せないが家族という形を作らせてくれ」
頭が真っ白になった。嘘だろう。私の意思は関係ないというのか。そんなことを考えつつも怒りと羞恥と屈辱で動けないまま初夜は終わり、3年間妻を忘れられなかった男を健気に慰めた公爵夫人としてのくだらない噂を広められ、幸か不幸かその一晩で私はアディを身篭った。
絶対に信用しては行けない。この公爵家の人間は1人たりとも信用出来ない。人間不信に陥った当時の私は公爵をあらん限りに罵倒し、ものをなぎ倒し、ハンガーストライキをしようやく一つだけ要求を飲ませることに成功した。
出産するまで公爵家の人間は1人も私に関わることを許さず、身の回りの全てのことを子爵家から連れてきた人手に任せると。
もちろん反発も強かった、実は公爵以外の男の子供なのだろうと言われたこともあるし、毒を盛られそうになったこともある。しかし子供の頃から親しんでいた使用人たちが支えてくれたことで私は無事にアディを産むことが出来た。
アディは男だった。
「この子は女の子として届け出ます」
その言葉はほとんど無意識のうちに出た。この家の人間は信用出来ないのだ。子爵家は位は低いが確かに貴族の家。平民との子供である長男と血の正当性は火を見るよりも明らかだ。この子が男として成長したら最愛の女との子供の正当性を疑われた公爵から何らかの冷遇を受けるかもしれない。そんな嫌な想像が頭を離れず、私は女として育てると使用人たちに言い張った。
そして私の出産から3日後、イリスの娘タチアナが帰ってきたのだった。
予想とは違ったが、私と愛するアディは案の定放置された。何をするにもタチアナ、タチアナ、タチアナ。私たちはタチアナの安眠のために別館に移動になり、食事の時だけ呼ばれるようになったのだ。そしてジョシュアからは家族として認めない発言を受けたり、授業をボイコットされたり、タチアナからはお母様は1人だけだと宣言されたりと散々だったが4年間、何とか歩み寄ろうとは頑張った。
頑張ってはいたのだが、さすがにもう無理だ。
「おかあさま?」
アディの呼びかけに我に返る。自室でその柔らかくてあったかい身体を抱きしめる。耳元で笑う彼の声にようやく人心地着いた気分になった。膝の上に乗せて、4年間の小さく可愛い思い出を振り返る。
この子に対しての色々な気持ちは初めてこの子の胎動を初めて感じたあの日に全て飲み込んだのだ。味方のほとんど居ないこの家でたった一人の私の家族。
私が守らなければ。
「ねえアディ、おかあさまとお父様、さよならしてもいいかしら」
「さよなら?」
「ええ、アディの本当とお爺様とお祖母様と住むか、おかあさまと2人暮らしになると思うけど」
「おかあさまといっしょ!」
腕の中で無邪気に我が子が笑う。嗚呼、この笑顔を守るためなら、どんな苦労だって厭わない。
──そうだ、離婚しよう。