4-01 コインロッカーに学ラン詰めて
私は、2000年代初頭の小倉の街を回顧する。当時、私は18歳の高校生だった。受験生だった。童貞だった。大学受験の帰りに私は小倉駅裏側の風俗街を通りかかった。客引きの鴉を目にした私は、受験期の煩悶と思春期の性欲の狭間で、コインロッカーに学ランを詰めて風俗店に入ろうとするが……
私は寒空の下、小倉の街を歩いていた。2000年代はまだ始まったばかりの頃合いである。
小倉は博多に次ぐ福岡の大都市で、九州の田舎から出て来た私は忙しなく人々行き交う雑踏に息苦しさを感じ、歩を速めた。きょろきょろと街頭の標識を見渡していたのは、駅を目指していたからだ。まだ握っている携帯電話がガラケーと呼ばれていた頃合いだ。二つ折りの小さな携帯は当時流行の悪趣味なデコレーションが施されていて、今日日のスマートフォンと違い、地図の代用にはならなかった。
――大学受験の、返り道だった。進路希望調査の紙には、第一志望と記していた大学だった。未来にさしたる熱意も希望もなく、肥大した自意識と茫漠たる不安に苛まれる私は、今思えば笑える程に類型的な悩める思春期の高校生で、今回の試験が結果を待つまでもなく散々なものだったのは、受験勉強に熱を注がなかった当然の代償と言えるだろう。
人並み外れて自尊心が高かったわけでも、自虐的だったわけでもない。それでも、否応なしに社会のスケールと己のスケールを思い知り、その擦り合わせを行わなければならない年頃だった。
多感で不安なありきたりな青春期――今の私が後知恵でそう笑い飛ばしてしまうのは容易いが、当時の私にとって己を取り込む悩みの一つ一つは切実で、暗い顔をして地面に視線を落としながら歩んでいた。
当時の小倉の駅裏は薄汚く、煤けたアスファルトには吐き捨てられたガムが黒い斑となって点々と続いていた。
――ラーメンでも食べて帰ろう。私はそう思い歩を急いだ。幾度か小倉駅を乗り換えに使用していた私は、駅地下のショッピングモールでラーメン食べるのを楽しみにしていた。確かあの頃の好みは、「小倉らうめん横丁店」の「桜吹雪が風に舞う」だったと記憶している。当時流行していた背脂系の豚骨ラーメンを、今の私の胃では耐えらない程にギトギトの背脂を載せて、大盛りに替え玉まで注文して平然としていた。若さの成せる業だろう。
近道をしようと駅裏の小径を進んでいると、飲み屋や風俗店の並ぶ猥雑な区画に差し掛かった。昼間から夜の店に立ち入る客は疎らで、「お兄さん、いい子いますよ」という鴉の呼び込みにも熱がない。普段の私は、その通りを顔を伏せてそそくさと足早に通り過ぎるばかりだった。
だが、重たい足取りで進む私の前を、ネオンで縁取られた一枚の看板が阻んだ。
『40分7000円』
その価格に、ふと、思った。
――思ったより、安い。
それは、ピンクサロンと呼ばれる業態の風俗店の一つだった。呼び込みの鴉は、私の姿を認めると、勧誘の声を止めた。当然だろう。その時の私は、学生服にマフラーという、どうみても高校生といった出で立ちだ。
私は、財布の中身に思いを巡らせた。
7000円は、九州の田舎住まいの高校生にとって、決して安い金額ではない。しかし、当時の私の小遣いが、月に5000円ぴったりだったこともあり、一月分の小遣いと少々の手の届かない値段でもなかった。
当時、部活も引退し、受験勉強の合間にトレーディングカードゲームを楽しむ程度しか楽しみが無かった私の財布には、帰りの切符と一万円以上の紙幣があった。
不意に、下腹部にどろりとした溶岩のような欲望が湧いた。
それは、思春期の少年にしか訪れないだろう、猛烈で刹那的な性衝動だった。
男盛りを過ぎつつあるとはいえ、今の私も人並みの性欲は保っている。だが、ニトログリセリンを焚きつけたような、爆発的で衝動的で、己を乗っ取るような思春期の性衝動は、二度と私に訪れることはないだろう。
そして、18歳の私は、一度暴れ出したら理性が手綱を握れなくなるような獰猛な青い性欲と、若さ特有の無分別さを併せて持ち合わせていた。
高校生活も、じき終わりを迎えようとしている頃合いだった。
だのに私は、性体験がなく、それが小さなコンプレックスとなっていた。
部活の後で女子の先輩がエロ本を広げながら、私をからかうように語った己の性体験を。
修学旅行の布団の中で、友人が語った恋人たちとの性遍歴を。
私はただ、痛い程に自分の性器を勃起させながら聞いていることしかできなかった。
――その時の私は、未だ童貞であることを、酷く羞じいり、先に進んだ友人達に羨望を抱いていたのだ
私は足早に色町を通り過ぎ、小倉駅へと急いだ。向かったのは予定通りのラーメン街ではない。
寂れた大型のコインロッカーだ。
私は、いそいそと詰襟の黒い学ランを脱いで、折り畳んで丸めた。脱いだ学ランは冬空の下でかじかんだ指に仄かな暖を与えてくれた。
大型のコインロッカーに、学ランと鞄を詰め込み、鞄のポケットには、学生証と、携帯電話、それから財布の中に入っていた現金以外のものを全て抜き出して詰め込んだ。
当時の私は性風俗産業に疎かった。客の素性や本名などを一切問わずに受け入れるのが斯界の慣習だったが、無知な私は反社会勢力との癒着が存在するのではないかという疑念があり、何か己の瑕疵あれば、因縁をつけられ金銭の要求や脅迫を受けるかもしれないという漠然とした恐怖を抱いていた。それ故、出来る限りの稚拙な素性の隠蔽を試みたのである。
――無論、そんな必要は微塵もなかったのは言うまでもない。
コインロッカーに百円玉を三枚投入し、鍵を捻る。
スカスカになった財布を尻ポケットに押し込みコインロッカーの鍵を入れる。
私は踵を返し、通ったばかりの道を遡る。
学生服を脱いだせいか、寒風が私の背筋を震わせた。その時の服装は今も覚えている。ユニクロの茶色のフリースだ。胸元にアイヌ模様のようなオレンジ色の柄が入っていて、ちょっとしたお気に入りだった。私は昔からオレンジ色が好きで、持ち物や衣服に差し色でオレンジを入れるのを好んでいた。当時持っていた携帯電話も、機種変をする度に機能ではなくオレンジというカラーリングを目安に選んでいた記憶がある。
そして、学生服のズボンと、学生靴。
今思えば、私の姿は本当に、学ランを脱いだだけの高校生に過ぎなかった。
何一つ、誤魔化せる通りもなかった。
けれども、私は若さ故の蛮勇に身を任せ、再び『40分7000円』の看板の前に立った。
緊張をした、顔をしていたと思う。
客引きの鴉と目が合った。
鴉は私の姿を認めると、にっ、と歯を出して笑った。面白くて溜まらない、というような笑顔だった。
「遊んでいきませんか? いい子いますよ?」
日に百度は繰り返しているだろう台詞を、鴉は私に投げかけ、私は頷いた。
鴉は、ニタニタとした笑みを浮かべて私を店へ誘った。
彼は、一目で全てを理解しただろう。私が先ほど通りがかった高校生であることも、学ランを脱いで背伸びして店にやってきたことも、風俗店で遊んだ経験が私にないだろうことも。
今でも、あの鴉の面白がる笑顔を時折思い出して、その胸中を思う――さぞかし愉快だったことだろう。女も知らないような青臭いガキが、学ランを脱いだだけで大人面して、緊張した顔で夜の店を訪れたのを案内するのは。
私の緊張に反して、拍子抜けするほどあっさりと支払いの手続きは済み、私は店内の待合室に通された。
室内はやや暗く、赤紫の照明で淫靡な雰囲気が演出されていた。
嗅ぎなれない香りが鼻をつく。香水かそれとも何かのアロマか、私には判別がつかない。そこは、私が知らない大人の世界だった。
重厚そうなフェイクレザーの応接椅子に腰かけ、出されたドリンクのストローの先を口先で啄む。
私は風俗店でキャストの準備が整うまでの待ち時間の存在をしらなかったし、手持ち無沙汰で腰かけてただ待つ時間は、想像よりも遥かに長く、苦痛すらを伴っていた。
早くキャストに会いたいという逸りは無かった。この先へ進むのが怖いという恐怖感。
己が今行っている行為が高校生にあるまじき不道徳なものであることは最初から理解していた。
あらゆる恥を掻き捨て、学生服のズボンのままでピンクサロンに飛び込んでおきながら、背徳感と期待感の二律背反の感情は私の中で鬩ぎあい、その天秤は前者へと大きく傾いていた。
供されたドリンクはあっという間に底をつき、溶けかけた氷の間をストローで啜る間抜けな音が、私独りの待合室の中に響いた。
両手で握り締めたグラスで、氷が震える音がした。
情けないことに、私は手足が震える程の緊張を五体に漲らせていた。応接机の下では、学生服のズボンに包まれた両の脚すら、生まれたての小鹿のように怯懦に震えていた。
――今すぐ、逃げ出してしまいたい。
そんな衝動に幾度も駆られながら、私は堪え難き沈黙を独り耐え抜いた。
そして、唐突に扉が開いた。
「お待たせしました、どうぞいらしてください」
鴉に導かれるままに、私は細く薄暗い廊下を進んだ。
「さ、中で女の子待ってますんで」
思い返せば、この一言は不要だ。後には、こんな自明なことを説明されたことはない。もしかしたら、ガチガチに緊張していたのを見て取った彼なりの気遣いだったのかもしれない。
――部屋は薄暗く、待合室よりも尚濃い赤紫の照明で淫靡に照らし上げられている。
ベッドの隣には、透けるようなワンピースを纏った女が立っていた。
「よろしくおねがいします」
彼女は源氏名を名乗った。その名前は私の胸の奥にずっと根を下ろしていたが、長い年月に晒された果てに忘却の狭間に消えてしまった。その顔すらも今は朧だ。それでも、あの瞬間の興奮と背徳だけは、今も脳裡に焼き付いて離れない。
……綺麗な女性だ、と衒いなしに思った。
(続)