ポストが見つからない
ラジオが流れる店内で、私はおしぼりを巻き、伊東君はグラスを拭いていた。緊急事態宣言や営業時間短縮要請のため十ヶ月以上休業していたアルバイト先の店が、今日から再開する。
私がアルバイトしている店はアメリカ禁酒法時代に多く派生した潜り酒場、スピークイージーをイメージしたバーだ。隠し扉になっている入口を抜けると、そのままカウンターに繋がっている。席もカウンターの九席だけで、店内も広くはない。だから、バーテンダーの伊東君とアルバイトの私の二人だけで充分に店を回すことができていた。
開店準備中、伊東君はいつもラジオをかける。有名人が出ているようなラジオではなく、地方のラジオだ。パーソナリティの人も、会話に出てくるミュージシャンや土地の名前も聞き覚えのないものばかりだ。伊東君は多分聞いていない。何故なら、いつもラジオとは全く関係のない鼻歌を歌っているからだ。
どこかも分からない地方のラジオと、伊東君の鼻歌が流れる店内に懐かしさはなかった。日常が戻ってきたのだと思った。
グラスを拭き終えた伊東君がおしぼりを巻く作業を手伝ってくれる。しかし、伊東君の巻くおしぼりの形はとても歪で、それを一つ一つ直していくのも私の仕事だ。
奇妙に歪んだおしぼりを作りながら、伊東君は私に「就職、考えた?」と訊いた。おしぼりを巻き直しながら「まだ、あんまり」と答えると、「ゆっくりで良いと思う」と返してくれた。
伊東君は「ゆっくりで良い」と言ってくれたが、私はとても焦っていた。
バーが休業している期間、この店のオーナーが開いているダイナーで働かせてもらっていた。その時、就職について何も考えていない私に対して、オーナーから社員にならないかと提案をいただいた。普段の私なら、断っていただろう。しかし、母と祖母から一時間以上のお説教をいただいた直後の私は悩んでしまった。
オーナーは「卒業までに考えてくれたら良いよ」と言ってくれた。しかし、私は働き続ける自信がない。どこかに通い続ける自信がない。こんな事を言ったら、母と祖母は泣きながら怒るだろう。またお説教だ。「卒業したらどうするの?」という問いに対して「旅がしたい」と言った自分が悪かった。履歴書をおしぼりのように巻いてしまった自分が悪かった。
おしぼりを巻く力が弱くなり、形が崩れる。もう一度開いて巻き直す。伊東君の鼻歌が聞こえなくなり、ラジオから流れる男性の声がはっきりと聞こえる。話の流れは分からないが、星の話をしている。
『昔の人は星を見て自分のいる位置を確認していたんです。ただ星空を眺めていたわけじゃないんです』
この言葉で水島という男の子を思い出した。
水島とは通信制高校のスクーリングで出会った。通信制高校は年に数回、スクーリングという学校に登校して、授業を受ける日がある。授業は全日制高校と同じように教室で行われ、座席も決まっている。そこで授業を聞きながらレポート課題に取り組む。このレポート課題が進級、卒業の為に必要なもので、一枚でも提出し忘れたら留年になってしまう。
水島は私の席の後ろに座っていた。鞄も持たずに授業に遅刻してきて、私に「シャーペン貸して」と言い、私のレポートを丸々写して提出していた。水島は本当に全部写した。学籍番号までも写していた。すぐにバレて先生に怒られていたが、水島は笑っていた。
その日のうちに連絡先を交換し、卒業してからも連絡を取り合っていた。水島は就職し、私は大学に進学した。お互い慣れない環境で心細かったこともあり、連絡が途切れることはなかった。
大学一回生の冬休み、高校の先生から突然電話がかかってきた。
「水島がどこにいるか、知らないか?」
二日前から家に帰っていないらしい。先生は、仲の良かった私が何か知らないかと電話してきたのだ。
私はとても驚いた。何故なら、その電話の一時間前に水島とメッセージアプリで会話していたからだ。どんな会話をしていたかも思い出せないほど、普通の会話だ。
その事を先生に伝えると、私から電話をかけて欲しいと頼まれた。先生や父親が電話をかけても、怒られると思っているのか、出ないのだと言う。水島の気持ちは、よく理解できた。
私が電話をかけると、直ぐに出てくれた。先生から電話があった事を伝え、今どこにいるのかと訊いた。すると、普段とかわらない口調で「どこにいるか分からない。先生に居場所を伝えたいけど、ポストが見つからない」と言った。私は、すぐに先生に電話するように伝え、電話を切った。水島の電話口から風の音が聴こえていた。寒くないかと訊けば良かったと、少し後悔した。
水島はその日のうちに和歌山県で保護され、そのまま施設に入った。
後日、先生から水島は解離性遁走があり、突然行方不明になる事があるのだと聞いた。自分のいる場所や、どうやって来たのかも分からなくなることがあり、ひどい時には自分の名前も分からなくなるらしい。先生は水島に「知らない場所にいたら、ポストに書かれている住所の写真を先生に送るように」と言っていたそうだ。
「ポストが見つからない」と言っていた言葉の意味が分かった。水島にとってポストは、自分の位置を確認するための星だったのだ。
保護された時、海岸沿いを歩いていたらしい。自分がいる場所も自分のことも分からないまま、どんな気持ちで海を眺めていたのだろうか。ただ眺めていたわけじゃない、と思うことは考えすぎだろうか。
いつの間にかラジオは止まっていた。歪なおしぼりが溜まっている。
伊東君は「再開後、一人目のお客様です」と言ってカウンター席に座っていた。私はジントニックを作り、お客様に出す時と同じようにコースターの上にのせて出した。
「甘過ぎる。あと、ちょっと濃い」
顔をしかめる伊東君を横目に、おしぼりを巻き直した。




