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余命一年の君へ

作者: 阿部凌大

 僕が君と出会ったあの屋上の景色を、こうして手紙を書いている今もありありと思い浮かべることが出来る。あの日はどこまでも鮮やかな青空で、その下で一人ベンチに腰掛けていた君は、その空が放棄した黒い感情を全て引き受けてしまったみたいな顔をしていた。うつむいて、一人きりで、傍らに点滴台を抱えていて、ただでさえ小柄な君の横にあると、その点滴台は随分と高く見えた。

「これだけ青かったら、魚が泳いでても不思議じゃないと思わない?」

 僕が君に話しかけたのは、特に理由なんて無いのだと思う。暗い顔をしていた君を放っておいたらいけないんじゃないかという気になって、元気になってもらうために、僕の思いつく限りの冗談で語りかけた。けど君は僕の顔を見上げて、その警戒心を露わにしながら、怪訝な表情を浮かべていた。

「いや、雲一つなくてさ、こんだけ青くて、こんだけ広くて、僕が魚だったらさ、もう泳ぎたくて仕方がなくなると思うんだよね!」

 眉をひそめる君の顔はとても白くて、それは清潔を保ち続ける僕らの入院着に決して負けてはいなかった。これでもしこの子が笑顔でも浮かべてくれたなら、きっと完封勝ちに違いないのにと思った僕は、君を笑わせるために、へたくそなくせに必死に言葉を紡いでいくのだった。

「もし魚がこの空を泳いでるとこ見つけたらさ、僕はそれをみんな捕まえて、空中に水族館を作ろうと思うんだよ!それでイルカの背中とかに乗せてもらってさ、みんなで空を泳ぐんだよ!どう?面白いと思わない?」

「……別に」

 この空に溶けいるほど透明な、ビードロみたいな声だと思った。

「だってもう魚は、空を泳いでるから」

「え?」

 君がゆっくりと腕を上げ、指さす方向を見ると、青空の端に、細やかな多量の小さな塊が、寄り集まって帯のようになっているのが見えた。

「あぁ、イワシ雲だ」

「これからこっちに泳いで来るよ」

 君の顔を見ると、穏やかな笑顔を僕に向けてくれていた。


 それから僕らはどこまでも自然な流れのうちに、毎日屋上にやってきては話をするようになったと思う。娯楽に乏しい病院の中で、お互いでお互いの隙間を埋めてしまうように、僕らは語らい、君はいつしか眩いほどの笑顔を、僕に見せてくれていた。

 丁度一か月ほどが経った時だと思う、君が突然に黙り込み、うつむいてしまったことがあった。その君の顔は、何かを絞り出そうと懸命にもがいているようだった。

「……あのね、あの、私、私の、病気は、」

 吐き出していく言葉の一つ一つを恐れるように、君は声を振り絞っていた。

「ゆっくりでいい。全部聞くから」

「わた、わたしの、病気は、もう、なおら、なお、らなくて、だから、私は、もう、」

 君は自分の重い病気のこと、そしてそれはもう治る見込みが限りなく薄いのだということ。そして君はこの病院で治療を受けながら、生きていかなくてはいけなくて、おそらく余命はあと一年ほどだろうということを、最後は涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、僕に打ち明けた。

 もし君に僕の命を分けてあげることが出来たなら、どれほどよかったことだろう。けどそれも出来なかった僕は、ただ君の顔を胸に埋め、抱きしめてやることしか出来なかった。どこまでも広がるあの空が憎く思えるほどに、僕の中で震える君は、小さく弱く感じられた。

「……けど、笑ってなきゃだめだよ」

 その時の君には無責任な言葉に感じたかもしれない。けど僕は君のあんな顔を見ているのが、苦しくて仕方なかった。

「笑おうよ。これから君のしたいことをさ、ここで、思いっきりやろう。全部。それに絶対治らないってわけでもないんでしょ?そしたらそんな顔してたらさ、ほんとに負けちゃうよ。そうじゃなくて、これから二人で好きなだけ楽しんで、笑って、そのままの勢いで、病気なんかコテンパンにやっつけちゃえばいいんだよ!ね?」

「……うん」

「負けないよ、絶対負けるわけないよ、負けるなんてだめだよ」

「うん、うん」

「紙にさ、二人でやりたいこと片っ端から書こう、それで上から順番にやっていくんだよ、それできっとすぐに全部終わっちゃうから、どんどん次にやりたいこと書いていくんだ」

「うん、うん、分かった」

「絶対楽しいよ、泣いてる暇なんか無いんだから、そしたらきっと明日が来るのとかも、楽しみで仕方無くなる、」

「うん、そしたらさ、そっちだって、そうやって泣いてたらダメだよ」

 君が指先で目元をぬぐうと、ぼやけた視界をかき分け君の顔が、僕の目に飛び込んでくれた。僕らは互いに涙や鼻水で汚れた顔を見合わせながら、ひとまず笑った。


 それから僕らはノートを開いて、そこに思いつくことを片っ端から書き込んでいった。すぐに出来てしまうことや、すぐには出来そうにないことまで、書いちゃいけないことはないことにした。美味しいものを食べる。観たかった映画を観る(病気で最後死んじゃわないやつ)。両親に今までの感謝を伝える。お世話になっている看護師さんにも伝える。水族館に行く。公園で思い切り走り回る。苦い薬はもう飲まない(これはガマンすること)。犬を飼う。二人でのんびり話す。二人でいつまでもおしゃべりして過ごす。笑う。

 文字にするだけで僕らの周囲にはいくつもの夢が転がっていることに気づくことが出来た。僕らが一通り描き終わるころにはもう夕方で、どちらがそのノートを持っていくかで少し揉めたけど、結局は君に譲って僕は手ぶらで病室に戻った。けどあの時僕の頭には、あのノートがまるっきりそのままに入っていたから、目をつぶり眠りにつきながら、記憶の中のそのノートをめくって眺めることで十分に楽しむことができた。

 次の日から僕らは、すぐに実現することが出来ることを順に楽しみ始めた。売店でアイスを買って食べた。君は同時に三個食べるという離れ業を見せてくれた。アイスと一緒に買ったシャボン玉を飛ばして、空に向かい大声で歌った。大したものなど何もない屋上ではかくれんぼは不向きすぎた。隠れるところが二か所しか無くて、それに僕らの点滴台の先が飛び出して満足に隠れることも出来なかった。

 失敗しても僕らは笑うことが出来たから無敵だった。疲れるとベンチに座って話していればよかった。話題なんてなんだってよくて、空にはまた一面にイワシ雲が広がっていた。

「もしほんとにこれだけイワシがいたらさ、日本中もう一生イワシに困らないね」

「うん、魚屋さんが潰れちゃうかも」

「あー、なんか本当に水族館行きたくなっちゃったかも。ねえ、ここ抜け出せないかな?」

「点滴台ひいて?」

「だよね」

 残念がる君の横顔を眺め、僕はまたどうにかならないものかと頭を悩ませた。

「じゃあさ、水族館一緒に作ろうか」

 僕らは紙の束と色鉛筆を抱えると、二人で思い思いの魚をその上に書き始めた。大きな魚や細長い魚、見たことの無い色をした魚や魚とは思えない形をした魚まで、どこまでも自由に、僕らは僕らが見たい魚を紙の上に次々と泳がせていった。そしてそれらを抱えて君の部屋に行くと、僕らは壁や窓の至る所にそれを張り付けた。僕らが描いた魚たちはあっという間に部屋を埋めて、その中を泳ぎ始める。

「私が一人部屋で良かったね」

「うん」

 僕も一人部屋だったけど、それは黙っておいた。

「あれなに?タコ?」

「イカだよ」

「うそ、あんなイカいるわけないでしょ」

「どうみてもイカだよ、そしたら君のイワシだって変だよ」

「あれイルカなんだけど」

「嘘だろ」


「ずっとこんなことやってたらさ、あっという間に一年なんか過ぎちゃうね」

「そしたらまた次の一年が来るだけだよ」

 けど本当にあっという間に、半年近くの時は流れた。半年経っても君はまだ元気で、僕はそれが何よりも嬉しい。けど僕はどうやらもう君に会うことは出来なくなってしまったらしい。だからこの手紙も、看護師さんから受け取ってくれているんじゃないかと思う。

 僕の病気のことを君に話したことは無かったけど、僕の病気だってそれはそれは酷いものだった。君に負けないぐらい。お医者さんから告げられた余命は、たった半年だった。

 今こうやって考え、生きていられるこの状態が半年も経てば全て崩れ落ちて消え去ってしまうことが、僕はどうしようもないくらい怖くて、だからもういっそのことまだ元気なうちに、屋上から飛び降りて死んでしまおうかと思った。けどそんな時、君と出会った。

 僕は君を見た瞬間になんとなく、僕と同じだと感じることが出来た。僕と同じように恐怖に全てを覆われてしまっている君を見て、僕は気づいたら話しかけていた。

 だから笑ってなくちゃとか、負けちゃダメだとか、君に向けてかけた言葉は、みんな僕自身にも語りかける意味を持っていたんだ。そして次第に元気を取り戻していく君の姿は、僕にとっての希望だった。それだけで明日も、まだ生きていようと思うことができた。

 けどどうしたって僕は、この病気に勝つことは出来なかったらしい。君もほんとは気づいていたと思うけど、僕はもう座っているのもやっとで、きっとこれから寝ていることしか出来なくなってしまう。そんな姿を君に見せたくはない。だから僕は今のうちに君にこの手紙を書いて、看護師さんにお願いして渡そうと思う。

 今の僕がとても言えたことではないけれど、君にはもっと生きていてほしい。最後まで戦っていてほしい。いつまでも、その素敵な笑顔のままでいてほしい。君のその笑顔に、僕はどれだけの生きる力を分けてもらったか分からない。早く元気になって、思い切り走り回ってほしいし、今度は本当の水族館に行ってほしい。君なら絶対に大丈夫!

不思議と僕は今、悲しくなんて無くて、君に会えなくなる寂しさを感じるくらいで、それは間違いなく君のおかげなんだ。ありがとう。あとは僕は目を閉じて、君の顔や、君の声や、そして君と出会ったあの青い空を思い浮かべていようと思う。僕は幸せだった。

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