貴方に伝えたいこと
「食べてみたい」と貴方が言ったから、朝からビーフシチューを煮込んだのに、「いただきます」も言わないまま無言で食べられた。「時間をかけて煮込んだの」と言えば「あぁ。どうりで…」と答える。どうりで。の続きは待っても出てこなかった。
美味しかったのか、いまいちだったのか。何も分からない。
「美味しかった?」自信なく聞いた言葉は小さかったのか、テレビの笑い声に消されてそのまま。
畳まれていない洗濯物。作れなかった晩御飯。
仕事で疲れて帰ってきた貴方が見るのはソファで昼寝をする私。
悪阻が酷くて、体調も精神的にも弱っていた私に「妊娠は病気じゃないんだから」と貴方は言った。
甘えていた私が悪かったのだと、無理して動いていたら「妊婦だって自覚しろよ」と怒られた。
貴方は私がどんなに辛いか分からないのに、その場その場で違う事を言う。
旅番組で贅沢な温泉旅館が紹介されていた。1泊5万円。
「子どもたちが大きくなったら、こういう所に泊まりに行きたいね」
夫婦でふたりっきりの贅沢な時間。
無理かもしれないけど、夢ぐらいみたい。
「なんで?5万円もする部屋に泊まるぐらいなら1万のビジホに泊まって美味しい焼き肉でも食べようよ」
心底不思議そうに貴方は言う。
「大体、温泉に入るだけだろ。他に観光する場所があればいいけど、ここって周りに何もないだろ。行くだけ勿体無く無い?」
貴方はいつも効率を考える。せっかく出かけるならあれもこれもと詰め込む。
2人でのんびりと過ごすなんて、思いつきもしないのね。
今晩のおかずを聞かれたから「アジフライよ」と答えた。子どもたちは「えー!!お魚嫌いっ」「ハンバーグが良かった」と不満を口にする。だって、アジが安かったんだもの。昨日も一昨日もお肉だったから今日はお魚なの。
澄まして料理をしていたら、貴方はテレビを見ながら「あんまり騒ぐとママが怒るぞ」と子どもたちを注意する。
どうして怒るのは貴方じゃなくて私なのかしら。
食べ終わった食器を洗って、お鍋を洗ってしまう。濡れた手を拭いてカレンダーを見たら結婚記念日だった。
最近忙しくて忘れてた。
でも、貴方は今年も忘れてるのね。
スマホのゲームに夢中な貴方は私の視線なんて感じてない。
ねぇ、今年で15年経ったのよ。
言いたい言葉をため息に変えてそっと吐いた。
貴方と、後何年夫婦を続けていけるのかしら。
10年後、20年後、私は貴方と夫婦かしら。
ポリープを取る簡単な手術だと医者は言った。
貴方は仕事を休む事だけをずっと気にしていた。
大丈夫だと分かっているのに、貴方が帰ってこない家はなんだか少し寂しい。
1日の終わりに2人で飲む珈琲。今日はいつもより静かなリビングで自分の分だけを淹れる。
誰もいないソファが冷たい。
娘の結婚式の夜。
「綺麗だったわね」
「朝早く出発って言ってたけど、ちゃんと起きられるかしら」
いつもよりおしゃべりになった私の前で、焼酎を飲みながら「あぁ」としか言わない貴方。
今日から2人暮らしになっちゃったわね。貴方だけじやなくて私も寂しいのに、仕方のない人。
先に寝るから、飲み過ぎないでね。
泣き止まない赤ちゃんに困って私を呼びつける貴方。
子どもたちの面倒を全部私に任せるから、孫をあやせないのよ。今から精進することね。
あら、まあ。孫のおむつなら替えようと思うのね。
成長したわね。でも、お世話は私の方が先輩ですからね。
温泉旅館で1日過ごそうなんて、明日は雨かしら。
退屈で嫌だっておっしゃったじゃないの。いいえ、言いましたよ。どこにも行かないなんて勿体無いって。
私、貴方と2人で旅行に行くなんて考えられなかったわ。今は、どうかしら?
とりあえず、のんびりと温泉を楽しみましょう。
もうすぐ金婚式ね。凄いわよね、50年よ?こんなに長く続くなんて思わなかったわ。
今だから言うけれど、何回か本気で離婚しようと思ったんですよ。え?何回かですって。そうねぇ、離婚届まで取りに行ったのは1回ね。離婚について調べたのは3回かしら。
あら、やだ。熟年離婚なんて考えてませんよ。若い時ですよ、若い時。
あぁ、残念ね。来年の金婚式は貴方と海外に行こうかと思っていたのに。
どこって、決めてませんでしたよ。ハワイもいいけど、イタリアに行って見たかったわね。ほら、昔観たあの映画。フィレンツェが舞台だったじゃない。美術館に行って、有名なドゥオーモから街を見るのよ。
2人で行ってみたかったわ。残念ね。
ねぇ、貴方。私、貴方と夫婦で良かったわ。
色々あったけど、本当にそう思うのよ。
あら、やだ。泣かないでくださいな。
後の事、お願いしますね。
大丈夫ですよ。ちゃんと待ってますから。貴方、たまに方向音痴なんですもの。
私、のんびりと待ってますから、貴方ものんびり、ゆっくり楽しんでから来てくださいね。
ねぇ、貴方。お話は苦手でしょうけど、今度会ったらたくさんお話ししてくださいね。
伝えた事は無かったけれど、私ね、貴方の声が大好きなのよ。
お読みくださりありがとうございました。