15.最後の饗宴2
「僕が悪かった、イブリン。アーティとのことは戯れに過ぎないと気づいたんだ。彼女との愛人関係は解消するよ」
バーナード様は長い指先でアーティの手の甲を撫で、さらにその手を顔に近づけて恭しくキスをしようとしました。
手の甲に唇が重なる直前、アーティは上品な仕草でバーナード様の手から己の手を引き抜きました。
「拗ねているのかい? イブリンはきっと喜んでくれると思ったのだけど。ああ、愛人教育が無駄になったことに怒っているんだね! それについても謝る──」
「私、拗ねてなどいませんわ」
アーティが凛とした声を出しました。貴族らしい発音とアクセントは、まさしく上流階級の話し方。
我が国の言葉は、発音やアクセントと生まれ育った階級が密接に結びついています。例えば『私』という言葉をどのように発音するかで、その人の階級がすぐにわかります。
『貴族らしい発音と仕草、両家の紋章の刺繍、ダンスのステップをマスターし、国内外の主だった王族・貴族の名前をすべて暗記する』
ええ、自分で決めたこととはいえ、たった2か月で叩き込むのは至難の業でしたわ。
ちなみに、貴族らしい話し方の教師は私です。アーティには必要でも、私には必要のない教育ですから、王女様から引き継いだ教師陣の中に適任者がおりませんでしたので。
いえ、どなたかにお任せしても問題はなかったのですが──朝から晩まで一緒にいる人間が、生きた手本になった方がよろしいでしょう?
2か月みっちりマンツーマンのレッスンをした結果、アーティの話し方がどうなったか。ええ、もちろん私そっくりになりました。
淑女としての言葉の選び方やタイミングも、感情を交えない落ち着いた声音も、少しばかり尊大で高飛車な雰囲気も。
「アーティの幸せは、僕の幸せ以上に大切だ……でしたかしら。人生そのものとまで言っていらした愛が、たった2か月で冷めてしまわれましたの?」
「まいったな、あの女が喋ったのかい?」
当の女性がすぐ目の前にいることに、バーナード様は気づくそぶりも見せません。私たちは骨格の作りが似ていますから、声も多少似ているとはいえ……願った以上にものごとが上手くいきすぎて怖いくらい。
アーティが分厚いベールで隠した頭部をうつむかせ、身じろぎもせずに言葉を発します。
「心変わりの理由は予想できますわ。アーティのための使用人を探すという名目で、身分の卑しい女性たちとの火遊びを楽しまれたのでしょう? 色々とつまみ食いをなさって、ミルバーン公爵家の娘に比べれば『馬糞程度』の存在にすぎないとお気づきになった?」
ああ、アーティ。あなたはやっぱり聡い子ね。結婚式が近づくにつれ笑顔が少なくなったのは、バーナード様の心変わりが不安だったからなのね。この2か月、彼から1通の手紙すら届かなかったものね。
バーナード様がくすくす笑います。
「まったく君には敵わないな」
彼は媚びるような笑みを浮かべて立ち上がりました。そしてアーティの正面の椅子に座り、長い脚を組みます。
「その通りだよ。平民の女が気兼ねしないで済む使用人を探そうと思ったら、やっぱり平民になってしまうからね。面接にやってくるのが、ちょっと裕福な商人に仕えていた程度の経験の浅い娘たちばかりなものだから──少しばかり遊んでしまった。そして気づいたんだ、アーティに夢中になったのは、ただ単に平民の無知と、御しやすさが物珍しかっただけだってね」
「平民の娘と、お腹の子のために危険を冒す価値はないとお気づきになったのね」
「ああイブリン、僕が悪かった。あいつらは僕にとって、もはや何の意味もない。本当に僕はどうかしていたよ。僕にふさわしいのは美しく裕福で、実家の権力もあり、淑女たちから尊敬されているイブリンしかいないのに。アーティの代用品はいくらでも見つけられるが、イブリンの代わりは簡単には見つからない」
「アーティと子どもの処遇はどうなさるおつもりなの?」
バーナード様は「ああ」とうなずきました。
「生かしておけば、いずれ噂になるからね。アーティも腹の子も速やかに処分する」
そうしない方が恥知らずであるかのように、まったく正しい行為であると確信しているかのように、バーナード様はこともなげに言い放ちます。
手の下のアーティの肩がかすかに震えるのを感じました。
バーナード様の貴族らしい深みのある美声。威圧的で優しさのかけらもない、底意地の悪い微笑。
ああバーナード様。
貴男は私の期待以上でしたわ。
公爵家嫡男の皮を被ったごろつき。誠実さのかけらもない最悪の悪党。
私の脳裏に、テイラー公爵夫妻に条件を突きつけた日のことが思い浮かびました。
『ミルバーン公爵、ラフィア様、そしてイブリン嬢。本当に申し訳ない。そのアーティという娘はすぐに始末しよう』
翌日、アーティが我が家にやってきた日のことも。
『お前の首がまだ繋がっているのは、ここにいるイブリン嬢の恩情だということをゆめゆめ忘れるでないぞ、娘』
ふふ、やはり似たもの親子ですわね。テイラー公爵の行動や思考から、恐らくこうなるのではないかと思ってはおりました。
でも、おあいにくさま。アーティに対する生殺与奪の権利は、もはや貴男にはありませんの。
私はアーティの肩に置いた手にぐっと力を込めました。そして口を開きました。
「アーティ、ミルバーン家の娘は人前で泣いてはいけません。けれどベールで顔が隠れている間は、特別に許します」
アーティの肩が大きく上下しました。
「アーティ? え、イブリン、これは一体どういうことだ?」
バーナード様が片方の眉を釣り上げます。彼がイブリンだと思っている女性の後ろに、影のように立つ女から発せられた言葉の意味をはかりかね、美しい青い目が泳ぎ始めます。
私はゆっくりと己のベールをめくり上げました。




