賢者の塔
2020/09/07、私『かわかみれい』の活動報告で発表したSSです。
句点など、気になった部分をほんの少し変えていますが、同じ話です。
その男は子供の頃から、飛びぬけて優秀だと言われてきた。
ありとあらゆる知識を、さながら砂地に沁み込む水のように吸収し、余さず理解出来る秀でた頭脳を持っていた。
学び始めて五年で、故郷の学校で彼に敵う者はいなくなった。
更なる知識を求め、彼は都の大学へ進んだ。
そこでも彼は優秀だった。
最高学府でありとあらゆる学問を修めたが飽き足らず、彼は、時には市井にくだり時には高い山へ登って師を求め、魔術や幻術、妖術や仙術などという怪しげなものまで学んで身に付けた。
もはや彼は人間ではあり得ないほどの知識を頭に詰め込み、人間ではあり得ないほどのあらゆる怪しの技を身に付けていた。
「私はすべてを知り尽くし、すべての技を身に付けた。これを無知なる者へ伝えることこそが、私の使命・天命なのだ」
白髪を戴く頃に己れを覚った彼は、かつての師である魔術師を滅ぼし、彼の居城を手に入れた。
そもそもが魔術師の方から、優秀な弟子に嫉妬したのか何なのか突然襲いかかってきたのだから、滅ぼしても当然の話なのだが。
知識のすべて、術のすべてを惜しみなくつぎ込み、彼は、かつての師の居城を素晴らしいものへと作り替えた。
どこまでも頑丈で、どこまでも美しく、そしてどの山よりも高い塔へと。
彼は、己れそのもののようなその塔を『賢者の塔』と名付け、最上階の玉座で無知なる者を待つことにした。
『ここにすべての知識と技術がある。至上の知が欲しくば、己れの足でここまで登り、三回伏して我に乞え。真の謙虚を知る者に、我は惜しみなく与えよう』
魔術・幻術・妖術・仙術のすべてを使い、彼は世界中にそれを喧伝した。
「さあ、来るがいい。知に飢えた若人たちよ」
玉座にどっかりと身を預け、満足そうに彼はほくそ笑んだ。
一年待ったが、誰も来なかった。
「まあ当然だ。世界のどの山よりも高いこの塔の、最上階まで登らねばならないのだ。足腰を鍛え、水や食料も用意せねばなるまい。事前準備を怠るような馬鹿が、至上の知を求めることなどあるまい」
三年待ったが、誰も来なかった。
「わからなくはない。私は『謙虚を知る者』という条件を出したのだ。謙虚な者はいくら知に飢えていたとしても、ガツガツと教えを乞いに来ることもなかろう。己れが至上の知を得るに相応しいか、自問自答して悩んでいるのかもしれない」
十年待ったが、誰も来なかった。
「……」
さすがに賢者もおかしいと思い始める。
賢者はもう一度『ここに至上の知がある』と世界中に喧伝した。
二十年待ったが、誰も来なかった。
身に付けた仙術のお陰で不老長寿になった彼だ、過ぎ去る時間など恐れるに足りぬが、さすがに永遠は待てない。
少し下界の様子も気になってきた。
身体を玉座に置いたまま、魂だけになって彼は、瞬きひとつするうちに下界へ降りた。
塔の入り口の近くで、近所に住んでいるらしい頭の悪そうな悪童たちが遊んでいた。
近付いてみると、彼らは下品な声で笑いながら実に楽しそうに、色とりどりのチョークで白亜の塔の壁に落書きをしていた。
賢者は怒髪天を衝くほど腹を立てた。
悪童どもを一瞬で塵芥にしてやろうと、彼は息を整え始めた。
「こらあ!」
その時すさまじい声が響き渡り、悪童どもが身をすくめた。
賢者も術を止めた。
「この馬鹿どもが!そこで遊ぶなと言っただろう!」
目を怒らせて必死に怒鳴っているのは、人品骨柄卑しからぬ壮年の男だった。
おそらくこの悪童どもを教えている、教師か何かなのだろう。
大したことのない男だが、知への敬意は感じられる。
賢者は少し、機嫌を直した。
「お前たち、これ以上馬鹿になりたいのか!この塔は『愚者の塔』、近付く者を底なしの愚か者にする塔なのだぞ!」
前言撤回。
やはりこの男は馬鹿だ。
もはや怒る気もなくなった賢者は、じろりと壮年の男を見た。
賢者の魂がそこにいることも知らず、男は熱心に悪童どもへ語っている。
「いいかお前たち。この塔はただの塔じゃないんだ。自分が世界一利口だと思い込んでいる男の、執念と怨念で作られた呪いの塔なのだぞ。そこを見ろ!」
男が指差すのは、かつて賢者が自ら筆を取り、持てる仙術を丁寧に字に込めて書いた、表札だ。
真新しい墨色のまま色褪せず、知を乞う者の標となるように。
『賢者の塔』……と。
しかし。
ああ、どうしたことか。
二十年前とまったく変わらない鮮やかな墨色で書かれた文字は
『愚者の塔』
とあるではないか!
賢者は意味が分からず、確かに己れの筆跡で書かれている『愚者の塔』という文字を、かなり長い間、眺めた。
気付くと、その場には誰もいなくなっていた。
寒々しい風に、賢者を自称していた男はハッと我に返る。
同時に、魂の底からすさまじい叫び声が沸き上がった。
頑丈で美しく、世界のどの山よりも高かった白亜の塔はその瞬間、蜃気楼のように大気に溶け、儚く消えてしまった。