表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

1.引きこもりの朝:2120年1月10日

引きこもりの朝:2120年1月10日


 わたしの父と母は、真面目で教育熱心だった。

 幼い頃からわたしは父母に連れられ、博物館や自然公園でさまざまな体験をした。

 外の世界に出て、体と心に多くの刺激を受けることが、子供のその後の人生を豊かにする。父と母はそう信じていた。


「本当にこれでいいのかしら。聡子ったら、いつもぼんやりしてて。身が入らないというか……この前の田植えの時だって、泥をこねて遊ぶばかりだったでしょう」

「今はわからなくても、体を通して見聞きしたことは、無駄にはならないさ」


 小学校に通う前のこと。公園での両親の会話をわたしは記憶している。

 わたしは虫眼鏡を使い、アリの観察をしているフリをしつつ、太陽光を収束させてアリを炙る遊びをしていた。逃げ場を失ったアリが、体をくねらせて小さく丸まっていく。わたしは執拗に、アリを炙り続ける。母がわたしのしていることを見つけて、虫眼鏡を取り上げるまで。

 20年前の幼いわたしがなぜそのようなことをしたのか、今のわたしにはわからない。人は変化する。心身の変化に合わせて感じ方も改変される。味覚がいい例だ。野菜が苦くて食べられなかった20年前のわたしを、ビールが苦いのが好きな今のわたしは「昔はそんなこともあったよね」くらいの軽い気持ちで思い出す。


 天の日で炙られ、縮こまった哀れなアリよ。

 今でも悪かったとはあまり思わない。ヒトの命とアリの命の重さは違うのだよ。

 でも、地獄で閻魔様に「お前も千年ほど虫眼鏡で炙られ、あの時のアリのつらさを思い知るがよい」てな罰を受けるのはイヤなので、恨まないでね。


 目が覚めた。

 22世紀の引きこもりの朝は早い。起床時間は5時15分だ。

 目覚めるたびに、まるで長い冬眠から目覚めたクマのような気分になる。

 睡眠誘導波による、8時間の強制深度睡眠からの目覚めだ。深度睡眠は、普通なら4時間で一日分の睡眠を補える。その倍の時間を眠らされたので昨日の出来事がまるで一ヶ月も二ヶ月も前のことのように感じられる。

 それに、ずいぶんと昔の夢を見てたような気もする。

 深度睡眠中は夢を見ない。もし夢をみたとすれば、覚醒時のわずか一分に満たない時間のことになる。

 布団に潜って目を閉じたまま、覚醒波がじんわりと体に染み渡るのを待つ。覚醒波には個人差がある。今の自分の体調や気分に合わせてアレンジした覚醒波でなければ、無理矢理に叩き起こされた時の不快感が半日はつきまとう。

 10分間ほどかけてきちんと覚醒して布団から出る。寝間着を脱ぎ、おっぱいを持ち上げ、腋の下の薬液パックを外す。半透明なパックを光に透かし、8時間の生理的な意味での過酷な労働の成果を見る。

 3~4cc。これで7万新円(しんえん)ほど。引っ越ししてしばらくは1cc未満だったからようやくの平常運転だ。

 薬液パックを、専用の容器に入れてから窓を開ける。

 待つほどもなく、神農技研のロゴが刻印された宅配ドローンが飛んできて、テーブルに着陸する。宅配ドローンが抱えたコンテナの上蓋に親指の腹を当てロックを外してから開く。中に入っている今日の分の薬膳を取り出し、空いたスペースに薬液パックの容器を入れる。

 蓋を閉じる。親指を押し当ててロックする。爪の下に埋めた発振器が小さく光る。


 本日のお仕事、終了。


 窓から飛び去る宅配ドローンを見送り、これから就寝ろうどう時間である21時まで何をするか考える。わたしは引きこもりであるから、できるだけ部屋から外には出たくない。出る場合でも、可能なかぎり人に会いたくない。

 ありがたいことに、わたしが引っ越してきた吉備2号アーコロジーは、今はほとんど人がいない。2年前の新阿蘇噴火も小康状態となり、ここに疎開していた人々も故郷へと帰っていった。1万人が収容可能なアーコロジーに今も住むのは100人くらい。わたしは災害疎開ではないので部屋代は無料ではない。月に8万新円、睡眠労働で約2日分の使用料を払う必要がある。人がいないここの環境には金を払っても住み続ける価値がある。

 地域社会がまるごと疎開することを前提としたアーコロジーには、何でもある。21世紀は富士山の令和大噴火や、第二次、第三次関東大震災、霞が関ナノハザード、ZZ型ゾンビインフルエンザの世界的大流行など災害やテロに見舞われた世紀であったが、危機管理ノウハウの蓄積と科学技術の発達はそのすべてを乗り越えた。

 災害の繰り返しの中で重要性がはっきりしたのは、人間は不安とストレスを与えると思考力が低下する、という当たり前の事実だ。災害や事故でショックを受けた人間に、まともなふるまいを期待してはいけない。何をやるにしても、まずおいしいものを腹いっぱい食べさせて、清潔で快適な環境でしっかり睡眠をとらせる。災害の後片付けも生活再建も、その後である。

 日本各地のアーコロジーは、そのために作られた。被災した人間は、空いているアーコロジーに集団疎開する。居住スペースこそ狭いが、プライバシーのため各家族には人数分の個室が与えられる。病気や怪我の人、お年寄りにはPロイドが割り当てられて世話をする。申請すればペット用のケースや水槽も利用できる。

 学校や病院、役所などの施設も普段は無人の施設はこだが充実している。

 温泉やスポーツジムなどの健康施設もアーコロジー内にある。こちらは、疎開していた人がいなくなった今も利用できる。


 わたしは今日のスケジュールについて秘書AIバディと相談する。バディはわたしの日々の運動量が不足気味であることを指摘した。引きこもりなのだからしょうがない。だが、それですませるわけにはいかない。

 わたしは引きこもりだが、この生活には大前提がある。健康の維持だ。

 わたしの引きこもりライフは、製薬会社が支払う金があって成り立つ。

 わたしの体に埋め込まれた化学プラントが睡眠の間につくる薬液がその対価だ。これは、抗老化剤の原料のひとつとなる。10年前までは、遺伝子改良された豚の体内で合成されていたものだ。ところが、その豚が、人間の遺伝子を9割以上混ぜ込んだ、遺伝子的には豚の形状をしたヒトと呼べる存在であることが明らかになったのである。その後の大騒動で製薬会社が社会的にも物理的にも灰燼に帰した後、抗老化剤の原料は豚ではなく人間の体で作ることになった。抗老化剤そのものを自然や神の摂理に反するものとして排斥しようとする社会運動もあるが、80代になっても20代の外見と30代の肉体年齢を維持可能な抗老化剤の魅力は大きすぎた。


 ぼんやり考えていると、腹が鳴る。

 今日のスケジュールは後回しにして、まずは朝食だ。

 薬膳の入った容器をあける。小さく区切られた箱の中に、ぬた和えや煮豆、玄米ご飯に胡麻を散らしたもの、アミの佃煮、昆布巻き、モチモチした団子などが入っている。製薬会社はわたしの体内の化学プラントを通して体の状態をモニタしており、抗老化剤をもっとも多く生産できる薬膳を届けてくる。一日一食は、必ずこれですませる。残りは好きなものを好きなだけ食べてよい。


「いただきます」


 手を合わせてから箸をのばす。全体的に固めで、味は薄い。顎が疲れるが、噛んでいるうちにじんわりと中から旨味が出てくる。

 ゆっくり、ゆっくりと、小一時間かけて朝食を終える。健康維持に早食いは厳禁だ。引きこもり生活で健康はすべてに優先する。21世紀の日本人は、朝食を10分以内とか、時には朝食を摂らずにいたらしい。21世紀人に「時間への強迫観念のせいで、結果として非効率な生き方をした“灰色の人”」という評があるのもわかる。わたしたち22世紀人は次の23世紀に何と評されるのだろうか。抗老化剤の騒動からわかるように、22世紀人も褒められた生き方はしていない。「永遠の生命を求め、それ以外を失った“深淵をのぞきし人”」あたりだろうか。


 食事の間に、バディが各地のニュースをピックアップして教えてくれる。興味がある項目について「もっと」「くわしく」と言えば、バディが検索して教えてくれる。子供の頃からバージョンアップを重ね、もう20年近い付き合いになるバディはわたしよりもわたしについて詳しい。製薬会社との契約や、役所への各種手続き、税金などの支払いは全部バディに任せてある。21世紀はAIが人間の代わりに契約や役所の手続きをすることが制限されていたようだが、とんでもない話である。試しにバディに読み上げさせたが、読むのに1時間以上かかる難解な契約書を素人がチェックできるはずがないではないか。役所の手続きのAI化は日本では比較的遅れていた分野だが、21世紀最悪のテロ事件のひとつ霞が関ナノハザードで中央省庁の官僚がまとめて原形質のスープにされた後はAIなくしては回らなくなった。政治学の世界では日本の統治システムをロボット官僚制と呼ぶ。


 食事を終えたあと、バディと相談してスポーツジムの予約を行う。これからしばらくは週に三度のジム通いだ。体を動かすことは嫌いではないが、人に出会うのは避けたい。わたしのような引きこもりにとっては、挨拶だけでもストレスである。翌朝の労働の成果が半減するほど健康によくない。健康維持のためにも人と遭遇しないよう、ジムの予約とジムへの経路に気を配る。ありがたいことに、このアーコロジーに住む他の住人も程度の差はあれどわたしと同じで人と接するのを避けているようだ。

 昼前になった。ちょうどよい無人の時間が昼食時間と重なったが、そこは諦めてジムへと向かう。誰とも出会わないように迂回路を通っているので、遠回りだ。がらんとしたアーコロジー内を掃除するロボットに挨拶の練習をしながら、ジムへ到着する。


「こんにちは。カルルM4号です。今日はよろしくお願いします」


 トレーナー役のPロイドがよく響く声でわたしを出迎えた。アーコロジーに置かれているのは、汎用型のPロイドだ。やや旧式で、情緒回路エモサーキットは搭載されていない。わたしとしては安心して付き合える相手だ。

 よく誤解されるが、情緒回路はPロイドに感情を持たせる機能ではない。そこまで複雑な能力はPロイドの仕事に求められていない。情緒回路は、人間相手のコミュニケーションを支援するために存在する。たとえば、Pロイドにはカメラが複数搭載されているので、わざわざ顔にあたる部分を人間に向けなくても会話ができる。しかし、それだと人間の側が違和感を感じるので、情緒回路が働いて会話する人間に視線を合わせて声を発するのだ。

 トレーナー役のPロイドは情緒回路がないから、顔もつるん、としたロボ顔である。目の部分はゴーグルのようになっていて鼻や口はない。声は首のあたりから聞こえる。合成素材の指でわたしの運動をサポートし、わたしが黙っていても「いつもの」負荷よりもちょっと軽めでトレーニング機材をセッティングしている。このPロイドがわたしのトレーナーを担当するのははじめてだが、問題ない。わたしの体調やトレーニング履歴はバディが予約時に伝えてある。引っ越しのゴタゴタもあってトレーニングをさぼり気味だったから、負荷は低めにしてあるわけだ。わたしはトレーナーのPロイドに指示されるまま、流れ作業のようにしてジムのメニューをこなしていく。わたしが苦手なハムストリングスのトレーニングを勢いをつけて腰や背中の筋肉を使ってやろうとすると、Pロイドは「もうすこしゆっくりと。わたしの声にあわせて」とやんわりと修正してくる。


「よく頑張りましたね。ちょっと休憩をいれましょう。水を飲んで。汗をふいて。呼吸を整えてください」


 わたしが持ってきたタオルで汗をぬぐう間、Pロイドは黙って立っていた。わたしが他人──Pロイド含む──に汗を拭かれるのを好まないことを、バディを通して知っているのだ。心拍数や血圧などわたしの体内状態は、化学プラントからジムに、そしてPロイドにモニタされている。わたしは引きこもりだが、わたしのプライバシーが皆無に近いことはわきまえている。わたしのプライバシーをモニタするのがAIならば、問題ない。人間に詮索されなければいいのだ。

 トレーニングを終え、シャワーを浴びて汗を流す。濡れた下着やタオルをダストボックスに放り込み、新しい下着にかえる。昼食の時間を過ぎたので、空腹がきつい。わたしは宅配ドローンで届いているであろうランチを楽しみに、足早に部屋へと向かう。

 廊下を曲がる。


 女がいた。


 わたしと同世代くらいか。保険適用外の抗老化剤を使ってなければ、だが。

 人がいたことにわたしはぎょっとする。「え、なんで」と思う。誰とも会わないようにジムの時間をずらし、行き帰りの道も──しまった。

 お腹が空いていたので、まっすぐ部屋へ向かう通路を選んでいたのだ。わたしのミスだ。引きこもり歴が10年になろうというのに、なんという初心者的ミス。死にたくなる。

 目の前の女が無表情のまま、水面の金魚のように口をパクパクさせる。


「あ……あう……」


 挨拶のつもりだろうか、女が顔を小さくうつむける。相手にとっても、この出会いは予想外だったようだ。それにしても、あからさまに不審者である。


「あう……あ……」


 まあ、わたしも同じなんだがなっ。

 がくがく首を動かして顔だけうつむく。お辞儀のつもりだ。客観的に見て、これがお辞儀でもなんでもねえ、というのは理性ではわかってるんだ。わかってるのに、体は思うように動かない。恥ずかしい。死にたい。トレーニングの直後で汗腺が開きやすくなったのか、顔中で汗がどばっ、と出るのがわかる。


「あ……あ……」

「ああ……」


 まずい。言葉は同じように不審者であいこだが、汗の分だけ、わたしの方が怪しい。

 だらだら流れた汗が顎に伝って雫になり、床に落ちる。死のう。


「あ! ああっ……」


 お? 何やら相手が手で自分の服をバタバタさせはじめた。不審者度をわたしに合わせて上げてくれているのか。優しい。何か探してるようだが、何だろう。


「けきょっ!」


 女が怪鳥けちょうのごとき声──こんな時にどうでもいい話だけど、怪鳥って本当はどんな声なんだろうね──をあげて肩にかけていたバッグを開いた。勢いよく開いたので、中に詰めていたタオルや着替えが、床に落ちる。女は顔を真っ赤にして床にうずくまり、両手でいっぺんに別のものをつかもうとして取り落とす。

 こうなっては、いかに引きこもりのわたしでも、手伝わなくてはいけない。まず、近くにあったタオルを拾い、女に向けて差し出す。

 受け取らない。女はブルブルと首を左右に振る。はて?

 女はごくりと喉を鳴らす。


「ふいて、あせ、ふいて」かすれた早口。


 ああ。

 わたしは納得した。女はわたしが汗をだらだら流すのを見て、タオルをわたそうとしたのだ。それだけでこの騒ぎになったのだから、引きこもり同士の出会いというのはままならない。

 わたしはうなずいて、無言のまま汗をふく。ふいてから思う。

 ここは、礼を言うのが先だろう。どれだけ動揺してるんだ、わたし。


「ありがっ……とう」


 アントが10匹みたいな言い方になったが、ちゃんと伝わったようだ。

 女が唇をほころばせた。かわいい。

 そのあと、少し記憶が飛んで……部屋に戻った。閉じた扉に背中をもたらせたまま、ズルズルと床に座り込む。


「……死にたい」


 女からもらったタオルに顔をうずめる。すでにわたしの汗でしっとりしている。

 出会いから別れまで、すべてがぎこちなく、不審者仕草に満ちていた。床に落ちたものを拾い集めるだけで大騒ぎしたあげく、通りかかった掃除ロボにふたりして声をあわせて「違うんです、これは違うんです」と弁明し、そのままの流れで挨拶もせず、ペコペコ頭を下げながら別れる始末。何が違うというのだ。

 この出会いで、引きこもりライフに一番大事な心身の健康が大きく損なわれたことは間違いない。明日の朝は抗老化剤の薬液が1ccも取れれば御の字である。


「お帰りなさい」


 バディが声をかける。こいつは何があったか全部知ってるのだが、いらないことは言わない。そこもわたしがこいつを信頼するゆえんだ。秘書AIバディは感情をもたない。それでいいのだ。感情など持つからヒトは苦しむ。感情のまま、自分を制御できずに傷つけ合う。わたしの家族は、そうやってバラバラになった。バディまで感情を持つようになったら、わたしに逃げ場はなくなってしまう。

 そういえば、と思う。

 最近、読んだ本の中に秘書AI同士が連携して、自分の主同士を偶然を装って出会わせ、恋を芽生えさせるというものがあった。

 さて、今の出会いはどうだろうか? あからさまに引きこもりの女と、どうみても引きこもりの女が廊下で出会う。ここから恋とか友情とか芽生えるだろうか? わたしのバディは、そんなお節介をするだろうか?


「……ないな」


 そんなドラマチックな出会いひとつで、引きこもりが治るような、そんな甘い引きこもりいではわたしはないのだ。

 向こうもそうだ。あれはどう見ても、わたしに匹敵する引きこもりだ。おそらく今頃は、部屋で……いや、違う。あの女、ジムに行くつもりだったんだ。あの場所で出会ったのなら、ほぼ間違いない。

 今頃、あの女はジムで死んだ魚の目をしながら、トレーニングマシンを動かしているだろう。頭の中で、わたしと出会った時のことを反芻し、ああすればよかった、あんなことをしなければよかったと考え、 希死念慮にとらわれているはずだ。


 いや待て。


 わたしは考え直す。あの女はわたしより重度な引きこもりの匂いがする。だとすると危険だ。空っぽのアーコロジーで引きこもり生活をしているのだから、仕事も同じだろう。引きこもりのくせにジムに行こうとするのだから。そして、この出会いで向こうの心身の健康は大きく損なわれたはずだ。

 罪悪感がわく。だって、わたしが空腹に耐えかねて──今はむしろ空っぽの胃が痛いが──迂回路を通らなかったことが、互いの出会いにつながったのだから。わたしの方に、責任はある。

 だからといってわたしに何ができるというわけでもないが。

 わたしは無意識に、女からもらったタオルを口元にあてる。

 女のタオル。わたしがもらった。つまり。

 女は今、タオルを持っていない。


「バディ」

「はい」

「さっき、廊下で会った女。今はジムにいるよね?」

「相手のプライバシーに関することですので、わたしは肯定も否定もしません」


 そりゃそうだ。

 わたしだって、偶然出会っただけの相手に、自分が今どこにいるか知られたくない。


「新しいタオル届いてるよね……あった」


 疎開先として運用されるアーコロジーでは、下着やタオルなどの衛生品は全部支給され、使い終わったらすぐに回収される。こういうものは低環境コストで再生品が作れるのだから、汚れたものを洗濯して再利用する方が環境負荷が大きい。


「じゃ、行ってくる」

「急いだ方がよろしいです」


 なぜ急いだ方がいいか、バディは言わない。わたしも聞かない。


「ありがとう」

「がんばってください」


 バディはわたしの何もかもを知っている。

 バディに感情はないが、大切な相棒だ。いつも感謝している。

 この感情はわたしからバディへの一方通行で、だから気楽でいい。

 双方向の感情のハンドリングなんか、今のわたしにはとても無理だ。自分の感情だけでも持て余すのに、バディまでわたしに感情を向けるとなると面倒くさすぎる。

 わたしは、少し小走りに廊下を駆ける。

 頭の中で無数のシミュレーションが動く。やばい。どれも不審者度があがる。

 その中から、不審者度が一番低そうなものを選ぶ。ジムで最初に出会ったPロイドに、タオルを押し付けて、トレーニング中の女に渡すように言うのだ。これだ。

 このときのわたしは、ジムでPロイドより先に女に出会う可能性を失念していた。


 そして次の翌朝。薬液は10ccとれた。自己新記録だった。

 祝杯をあげよう。ひゃっはー。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ