プロローグ:2120年12月31日
プロローグ:2120年12月31日
絶壁が区切る細長い星空の下、わたしが操縦する装甲車が進む。
星空が広がる。渓谷を抜けた。ここまでくれば、目標のドームまで後少し。まだドームは見えないが、これはしょうがない。装甲車の目線だと見える範囲は3kmもない。ここは箱庭のような世界だ。
前方に、棒が立っていた。装甲車のレーダーが測距する。200m。
イヤな予感がした。
「真紅、あの棒を調べて」
チームメイトにメッセージを送る。
『真紅:棒を? どうしたの遊糸?』
応答が戻るまで、すこしタイムラグがある。わたしは日本、真紅はアメリカだ。往復で1万kmを超える距離があるから、反応が遅くなるのはしかたない。
しかたないけど、今日ばかりはイラつく。
「罠」
『真紅:ちょっと待って……ただの棒ね。成分はそこらの砂を固めたもの』
罠だ。
わたしは確信した。
渓谷の出口にただの棒を立てておいて、何もないなんてありえない。
何か埋めてあるのか。罠を発動させる標識代わりか。近づいて調べたら棒に『遊糸、ここで死す』と書いてあったり。
あるいは。
何か仕掛けがあると疑わせて、時間を浪費させる罠か。
『真紅:迂回路は……ここからだと渓谷を戻るしかないわ』
「前進する」
わたしは答えた。
今は時間こそ、もっとも貴重なリソースだ。
どんな罠か、わからず進むのは賭けだ。でも、賭けなければ全部を失う。
装甲車が前進する。噛んだ砂を履帯の左右に噴き上げる。砂はきれいな放物線を描く。
前方に立っていた棒が、斜めに傾いだ。風が吹くこともない、この場所で。
「真紅!」
『真紅:確認中! とにかく今は逃げて! 迂回路は秘書AIが送るわ』
「わかった! 全速前進!」
わたしは、グローブの指を強く引いた。装甲車のモーターが唸りを上げる。
『真紅:こんだぼがあっ! わかってねえっ! 逃げろゆうたろうがっ!』
真紅の叫びが、アメリカ中西部訛りっぽい俗語になる。
「わかってるっ! これが罠なら!」
後ろに逃げるのは、悪手だ。これみよがしに地面に突っ立った棒も、それが傾くさまも、狙いは共通している。
──近寄るな。
警告だ。
だけど、警告するなら、罠には隙間がある。
罠が完璧なら、こんな警告は不要だ。ただ殺せばいい。
「逃げるのは前っ!」
わたしは叫ぶ。仮装の糸を手繰る。装甲車の履帯が回転する。
ずるり。装甲車が滑った。
体が傾いた。椅子から落ちる。床に転がる。
「うわっ」
『真紅:砂が流れてる……やべっ! 底なし沼になるぞっ!』
「超潤滑砂?」
わたしは床に寝転がったまま、糸を手繰る。指を回す。手をくるくると入れ替える。
『真紅:違う! 液状化だ!』
ゴーグルに地図が投影された。渓谷を抜けた場所は、砂が堆積している。何百万年も漫然と、ただ積もっただけの砂の山が崩れ、波打ち、装甲車を押し流して沈めようとうごめく。まるで、でっかいスライムの上だ。
『真紅:前進したのは正しかったな。上流の砂が深いところにいたら、とっくに沈没してる。すげえぞ、遊糸』
もっと褒めろ。崇めろ。ひれ伏せ。
思ったが、舌は動かさない。
わたしの脳の運動を司る部分は、指を動かすので忙しすぎる。どうやってこの指、動いてるんだろうね。ご飯を食べてて、舌を噛まない自分にときどき感心する──そしてそういう時に限って舌を噛むのだけど、生まれてずっと使い続けてきた舌と違って、この指使いは、10年前、BC-WARのトップランカーのプレイ動画を見て感動して見よう見まねで習い覚えた猿真似だ。それも、カッコよさを追求してアレンジしてある。出力を最大にする時に、両腕をぐいーん、と広げるのとか。やるとテンション上がるけど、無駄だ。
それなのに、ここにきてわたしの指使い、“遊糸”は絶好調だ。仮装の糸は絡みもせずにわたしの考えた通りに動く。装甲車に届くまで、1秒ちょいかかるのはご愛嬌だ。この1秒後を予測しつつ動かすのが死ぬほど難しくて楽しいんだよ。
わからない? わかれ!
装甲車が前進するにつれ、履帯の反応が強くなる。マップに表示されている真紅のメッセージによれば、砂溜まりに振動弾が埋めてあったらしい。何百万年ものゆっくりとした堆積の間に砂溜まりには空洞がいくつもできていて、振動弾で流動化したと同時に空洞が崩落し、砂の波を作ったのだ。
「よし、このまま前進すれば──」
わたしの視界が、星空でいっぱいになった。
装甲車が、砂波に煽られて、大きく傾いたのだ。
大丈夫。こいつを乗り切れば──ん? なんか頭上を星が流れてるぞ? 流れ星?
いや待て。
流れ星なんかあるはずがない。
「真紅! 頭上を何かが飛んでる!」
星空が消えた。視界が真っ暗になった。
同時に指にかかっていた負荷が消える。勢いで指がから回る。
「へ」
わたしの唇から、気の抜けた吐息が漏れる。
呆然と座って指をわきわきさせている間に、何があったかじわじわ理解が追いついてくる。
通信が遮断された。
通信衛星が撃墜されたのか。
だとすると、わたしが見た頭上の流れ星はミサイルだろうか。
「だあっ!」
汗で湿ったゴーグルをはずす。椅子と机。ベッド。収納ボックス。見慣れた我が家だ。ここにはまだ1年しか住んでいないが、疎開用アーコロジーの部屋の作りは、日本中どこも同じだ。
立ち上がる。ふらつく。窓を開ける。肌を刺す冷気。貧弱な星空がわたしを見下ろす。
南の空に月があった。
ちょっと太った十日夜の月。
地球から38万kmの距離に浮かぶ、星の伴侶。
さっきまで、わたしはあそこにいた。
わたしがいた場所は、ここからは見えない。裏側だから。恥ずかしがり屋の月は常に片面だけを地球に向け、自分の裏側はみせない。人類は、そこにいくつもの都市を建設した。都市の住民はほとんどがロボットだ。
そこでわたしは戦っている。
BC-WAR。21世紀の末に月の裏で余ったロボットを利用して研究者や技術者がはじめたゲーム。今では一般の人も参加し、リーグ戦、イベント戦が花盛りだ。
わたしは秘書AIに命じて、状況を探らせた。
通信遮断は、月の全域に広がっている。原因は不明のまま。もちろん、BC-WARも中断している。人気の『地球奪還』イベント戦クライマックスでのトラブルだから、みんな大騒ぎである。
『いつ復旧するんだ?』
『月周回軌道の通信衛星が壊れたらしい。隕石にぶつかったとか』
『隕石じゃなくて、マスドライバーで射出されたミサイルに撃墜されたって噂が』
『それやばくね?』
『汎アジア連盟のやつらだぜ、きっと。月利権は今も豚飼い資本が握ってるものな』
『いや、このタイミングなら犯人は銀河の子だろ。ガイアを殺すためのホシグサリが射出される直前でイベント戦を止めたわけだから』
『ねえよ! 現実の政治とゲームのイベントを一緒にするんじゃない!』
『その通り! 現実の政治ごときがゲームの邪魔をするとは万死に値するわ!』
みんな楽しそうだ。大勢で感情を共有できれば、怒りも祭りだ。
「現実ごときがゲームの邪魔をするな、か……そうだよね。そのとおりだよ」
わたしは唇の端っこだけ歪めて、「ふひっ」と苦笑い。
なんもかんもイヤになって、床にしゃがみこむ。頭をかかえる。
「いやもう、これもゲームのイベントの一貫だとか、でなきゃわたしの狂気が生み出した妄想だとか、そういうのにしとこうよ……現実ごときが、わたしの引きこもりライフを邪魔するとか、何様のつもりだよ」
ただの引きこもりに、この状況は重すぎるでしょう。
今の地球には100億もの人がいるんだから、誰かがわたしの代わりに頑張ってくれてもいいと思うの。
「あー、ダメ。もうダメ。やる気が完全に失せた。もういいよ、任務失敗で。原形質のスープにされるのか、塩の塊にされるのかは知らないけど、痛くないならばっさりすっきりやっちゃって」
頭をわしゃわしゃとかく。ずっとゴーグルつけてたせいで、髪は湿ってる。死ぬ前に、シャワーを浴びるか。そして酒を飲んで寝る。起きる前に死ねる。
人生の最期としても、地球文明の終焉としても、これ以上はない安楽な終わりだ。
2120年12月31日をもって、西暦も終わる。2121年はこない。作戦前に真紅が脅していた通りの展開だ。
待てよ……そんなはずはないか。日本だともうすぐ新年だ。2121年きちゃうよ。
「時差か。真紅がいるのは、アメリカだったか。アメリカ基準か。合衆国が解体された後もアメリカ人ってのは変わらないな!」
わたしはゲラゲラと声をあげて笑う。開いた窓から、わたしの声が冬空にのぼる。
白い月の寒々とした光が、わたしのいる疎開用アーコロジーを照らす。
吉備2号アーコロジー。今はほとんど人のいないがらんどうで、わたしは暮らしている。
わたしの名前は古谷聡子。引きこもりだ。