接敵
砦の時よりもはるかに近くから聞こえるクロウベアの咆哮を聞いて、俺たちだけでなくゴブリンたちまで一時的に体の動きを止めた。
その一瞬の間に、クロウベアはゴブリンの営巣地に侵入してきていた。走るのをやめたクロウベアは、営巣地にいるゴブリンたちにゆっくりと視線を向け威嚇した後、最後には俺たちの方へその鋭い視線を向けて睨みつけてきた。
ゴブリンたちは、新たに侵入してきたクロウベアの存在に困惑しているのか、威嚇されてしばらくはうろめいていたが、視線が自分たちから外れると自分たちの危機的状況を理解したのか、営巣内は騒然とし始めた。
武器も持たずに営巣地から脱出しようとする個体や、まだ生育しきっていないゴブリンの幼体を抱え走りだすものなど収拾がつかない状態になっていた。
何とか平常心を保ったらしい上位種たちは、何とかその状況を収めようと怒気をはらんだ声で周りのゴブリン達に指示を出したり、呆けているゴブリンを棍棒で殴ったりして組織的な防衛をしようと躍起になっていた。
クロウベアは、ゴブリンたちのその騒然とした状態に目もくれずに進路上のゴブリン達を薙ぎ払いながら俺たちの方へ向かってきていた。
ターゲットがうまく移らなかったことに焦燥を抱きつつも、俺は手にスタングレネードを握って仕掛けるベストなタイミングを計っていた。隣では、息を切らしたアネモネさんが、荒い呼吸で上下する体にてこずりながらも矢を番えようとしているところだった。
その様子を横目で確認した俺は、アネモネさんに言葉を発した。
「2つ目の方法で行きたいので、俺が合図したら目と耳をふさげるように準備をしていてください」
その言葉に彼女は少しの間思案したようだったが、俺に任せてくれるのか、矢を矢筒に戻して息を整えることに集中しだしたようだった。
目の前でゴブリンたちが、上位種の個体も関係なく薙ぎ払われている様子を見ながら、俺は大きく息を吸って投擲の態勢を整えた。
着々と迫るクロウベアとの距離に怖気付きそうな体を奮い立たせ、全神経をクロウベアの挙動に集中し始めた俺は、だんだんと自分がフロー状態に入っていくのを感じていた。
周囲の喧騒が遠のき、自分とアネモネさんの息遣い、そしてクロウベアの昂奮した息遣いだけが俺の耳に大きく聞こえる不思議な感覚の中で、俺は自分の取り巻く周囲の状況ーーゴブリンの営巣地の地形、個々のゴブリン達の位置や挙動、クロウベアの躍動する筋肉の動きなどーーが手に取るように感じられていった。
異常なまでに引き延ばされた体感時間の中で、俺はクロウベアが右腕を左から右に振るいゴブリンを薙ぎ払おうとしているのを確認した。ちょうど右腕に隠されてクロウベアの視界から俺たちが見えなくなったタイミングで、俺は手に持ったスタングレネードをクロウベアの目元に向けて投擲した。
それと同時にアネモネさんに注意を促し、彼女が頭を匿うように目と耳を塞いだのを横目で見て俺も腕を目に当て、視界を塞いだ。
一拍間をおいてあたりに轟音と閃光を放ったスタングレネードは、周囲にいたゴブリンと、そしてクロウベアの視覚と聴覚を奪うことに成功した。
それを確認した俺は、轟音のせいで少し聞きづらくなっている耳を気にすることなく、素早くトレード欄を開くと、スモークグレネードを追加で2つ交換した。
そのスモークグレネードをインベントリから取り出した俺は、それらを自分の周囲に投げ込んだ。
そして、スタングレネードの効果に驚いているアネモネさんの手を取って、辺りに広がる煙の中を、先ほどから続く異常な集中力をもってして周囲の状況や自分の位置を頭の中で確認しながら、障害物をよけて煙の中をひた走った。
ゴブリンの営巣地から無事に脱出した俺たちは、碌に後ろを振り返ることもせず、すぐさま近くにある小川に向けて進路をとり始めた。
繋いだままのアネモネさんの手を引っ張って、マップで自分の位置を確認しながら最短距離で小川まで走っていく。
そしてその小川を視界に入れた俺は、彼女の了承をとることもせずにそのまま小川に飛び込んだ。
走り続けで火照った体に水の冷たさを全身で感じつつ、俺は自分たちを追ってきているものがいないか周囲に目を走らせた。
しばらくそうして警戒していたが、何も確認できなかった俺は大きく息を吐いて緊張をほぐした。
俺がそうしていると、アネモネさんが少し膨れ面で声をかけてきた。
「匂いを追われないために川に飛び込むのはいいけど、事前にそうすると言ってほしかったよ。びっくりしちゃったじゃないか」
「すいません。逃げるのに必死で時間が惜しくて……」
「まああの状況じゃ仕方ないか、命拾いしただけでも感謝しなきゃね。あたし1人じゃあの場で死んでいただろうからね。ありがとね」
晴れ晴れした笑顔で礼を言われ、少し気恥しくなった俺は、それを誤魔化すように彼女に言葉を返した。
「いえ、運が良かっただけです。それよりもこのまま川を少し泳いで下流まで移動しましょう」
彼女は俺の提案に頷くと、俺たちは立ち泳ぎで移動し始めた。
しばらく移動して、完全に安全だと判断した俺たちは川から上がることにした。
最初は川辺で身に着けたものを乾かそうか迷ったが、アネモネさんが村に戻るのを優先しようといったので、それに従うことにした。
俺たちがアイン村に着いたときは、ちょうど日が暮れようとしている時間帯だった。
明らかに水を含んでいる服や髪を見て、裏門の前にいたアーロンさんは少し訝しんだようだが、いつもと変わらず淡々とした口調で声をかけてきた。
「無事だったか。怪我とかは大丈夫か?」
その問いに俺の前を歩いていたアネモネさんが答えた。
「怪我とかは特にしてないから大丈夫だよ。それより、森の魔物の生息地が少し移り変わっているようなんだ。これからは今までよりも村の近くでゴブリンなんかと遭遇することも増えるかもしれないから、村長に報告を頼めるかい?」
それを聞いたアーロンさんは、少し目を見開くと、険しい表情をして分かった、と言ってから裏門を閉める準備をし始めた。
それを横目で確認したアネモネさんは俺に振り返って、じゃああたしたちは家に戻ろうか、と声をかけた。そうして歩き始めた俺だったが、ローズさんに安否の報告をしていないことを思い出し、それをアネモネさんに伝えた。
「そうだね、先にローズ婆のところに行って顔だけでも見せておこうか。さすがに心配をかけたと思うからね」
そうして進路を変更してローズさんの店舗に足を運んだ俺たちは、安否の報告だけを手短に済ませた後、ローズさんの勧めで体を冷やし過ぎない内に家に戻ることにした。
家に戻り、水で濡れた衣類を着替えた俺たちは、暖炉に薪をくべて一息ついていた。
いつの間にか用意された温かい飲み物をアネモネさんから手渡され、礼を言ってから受け取った俺は、ここにきてようやく自分が生き残れたことを実感していた。
しばらくの間無言で飲み物を啜っていた俺たちだが、その沈黙を破りアネモネさんが声をかけてきた。
「今日は本当にありがとうね。助けに来てもらえなかったら、あの砦で死んでいたかもしれないからね」
「いえ、一度俺も命を助けられているのでお互い様です。全然気にしないでください」
それを聞いた彼女は、そう言えばそうだったね、と少し笑った後、言葉を続けた。
「にしても、何で魔物たちの生息域が変わったんだろうね? やっぱりクロウベアが昂奮していたのと関係があるのかね」
「どうなんでしょう? でも確かにクロウベアの様子はおかしかったですよね。今までにこんな事は無かったんですか?」
そういった俺に、彼女は目線を少し上に向けてしばらく思案していた様子だったが、何かを思い出したのか真剣な目つきで俺に言葉をかけてきた。
「そう言えば昔に同じような状況になったことがあったよ。ただ、ちょっと重い話になるんだけど聞いてもらってもいいかい?」
そういった彼女の瞳には、苦悩や後悔といった感情がよぎっていたが、俺はなぜか聞くべきだと直感的に判断して、了承の言葉を返していた。
そして、彼女は目を閉じて大きく息を吸ってから、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。




