腕の切断を賭けて料理勝負する話
今日は半日授業なので昼には家路を急いでいた。空も灰色の雲で覆われている。午後からは雨の予報だった。俺の実家は小さな定食屋をしている。定食屋この時間帯は一番忙しい。
3丁目の角を曲がった。家はもうそこだ。俺は走る速度を上げた。
「親父ただいま!」
店のノレンを勢いよくくぐった。俺を出迎えたのは喧騒ではなく静寂だった。店の中は電灯が灯っておらず薄暗い。お客も一人もいない。
「親父!ただいま!」
俺は店の奥の厨房に呼びかけた。返事はない。俺は嫌な胸騒ぎを覚えて厨房に入っていった。暗い狭い厨房を調理器具に引っかからないように奥に進んでいく。俺の目に飛び込んできたのは厨房の床にうずくまる人影だった。
ピカっ!
その時外で雷が光った。その光は床の男を照らし出した。
「親父・・・?」
特徴的な赤いバンダナが見えた。間違いなく俺の親父だ。
「うう・・・龍吏か・・・」
親父はうずくまったまま言った。親父の声は震えている。泣いている。
「なにしてるんだよ?店は・・・どうしたんだよ・・・」
「来たんだ・・・やつが・・・勝負を・・・不意打ち・・・」
親父は嗚咽の合間に言葉を発した。
「親父、なにが来たんだよ、不意打ちってのは」
「龍吏くん。私が説明しよう。」
背後から声がした。振り返ると厨房の入り口に人影が見える。
ピカッ
再び雷が落ちた。光が小太りの老人を照らしだした。
「町内会長!」
町内会長は黙って親父に近づいた。そして、親父の側にかがんで親父の背中に手を当てた。
「竜裏くん。君は親父さんがこうなった経緯を知りたいかね?」
「当然です!」
町内会長は肩越しに俺をじっと見た。俺はこんな深刻な表情をした町内会長を見るのは初めてだった。
「君の親父さんはね、暗黒食堂の奴にやられたのじゃ。」
「暗黒食堂・・・?」
聞き覚えの無い名前だった。町内会長は続ける。
「先月隣街にできた定食屋じゃ。つまり、この定食屋の商売敵ということになるな。」
「隣町ならうちには関係ないと思うんですが?」
町内会長は深い溜め息をついた。
「ところが、先週私の家に暗黒食堂の店長が挨拶に来た。2号店をこの町に出店するという内容じゃった。」
「それじゃあ、うちも負けないように頑張るだけっすよ。」
俺が意気込むと、町内会長は渋い顔をした。
「そのことを君の親父さんに言ったら、勝負をしたいと言い出したのじゃ。」
「勝負ですか?」
「そう。勝負じゃ。暗黒食堂と君の親父さんが料理対決をしたんじゃ。」
初耳だった。
「その勝負はいつ?」
「ついさっきじゃ。」
町内会長は床にうずくまって嗚咽をあげる親父を見た。
「君の親父さんは負けたんじゃよ。」
「親父が・・・負けた・・・」
俺と町内会長は黙り込んだ。親父の嗚咽と、いつの間にか降り始めていた雨が窓を叩く音だけが厨房に響いた。
「それで、料理勝負って一体なにを?」
俺には『料理勝負』というものがどういったものなのか皆目検討がつかなかった。
「うん。うまい定食を作ったほうが勝ちという単純な勝負じゃ。」
「はぁ」
「審査員はワシとスナックのママと床屋の三人じゃった。」
町内会長は遠い目をしている。
「そ、それで・・・」
「圧倒的じゃったよ。」
町内会長がそう言うと床の親父の嗚咽が一層大きくなった気がした。
「私も親父さんに肩入れして投票するつもりだったんじゃ。ほんとじゃよ。他の二人もそうだったはずじゃ。だが暗黒食堂の定食は圧倒的にうまかった。」
親父の嗚咽が明らかに大きくなった。もはや喚きだ。雨が一層強くなる。雷が近くに落ちた。窓から差し込んだ雷光が町内会長を照らす。
「毎日食べたいと思うほどに。」
町内会長はそう付け加えた。
「そ、そんなに。一体どんな定食だったんですか・・・」
「龍吏くん。君も料理人の端くれなら自分の舌で確かめるんじゃ。私が口で説明するよりずっといい。」
「わ、わかりました。」
俺は改めて親父を見た。今朝はいつものように明るい豪快な様子だった。料理対決があるなどとは微塵も感じさせなかった。まして、こんな風に泣き崩れる姿などは俺も初めて見るものだった。町内会長は無言で頷くと俺の肩を叩いて厨房を出ていこうとする。そこではたと足を止めた。
「そうだうっかりしとった。龍吏くん、それでこの店は来月、暗黒食堂に引き渡さなければいけないんじゃ、。」
「え?」
俺は町内会長が何を言っているのか分からなかった。
「親父さんが、料理勝負で店の土地と建物の権利を賭けたんじゃよ。」
親父はピタリとうめき声を出すのを止めて息を潜める。
「暗黒食堂さんはそこまでしなくていいと言っておったんじゃが、君の親父さんは頑固じゃろ。どうしても権利をかけるって譲らんくての。」
「暗黒食堂は何を賭けたんですか?」
「この街に暗黒食堂ができたときに使える割引券じゃよ。」
そこで親父が顔を上げた。
「買収だったんだ!竜鯉、暗黒食堂は審査員を買収しやがったんだ!」
親父は鋭い視線を町内会長に向ける。町内会長は困ったように言った。
「それは違う。親父さん。公平どころかおたくの店に贔屓して判断したくらいじゃ。」
「どうだか。」
親父はそっぽを向いた。
「じゃあな龍吏くん。これから大変だろうが頑張るんじゃ!」
町内会長はそう言って今度こそ店を出ていった。俺と親父だけが残された。
親父はいつの間にか正座している。
「親父・・・」
「言うな龍吏。これは勝負。たとえ不正があったとしても敗けは敗けだ。」
「店の権利はどうするんだよ」
「仕方がない。別の仕事を探すさ。」
「それまで家はどうするんだよ。」
親父は眉間にシワを寄せて目を瞑ってぽつりと言った。
「苦労をかける。」
俺は呆れた。親父は先のことなど何一つ具体的に考えないタイプだ。それが豪快や男らしいと映るときもあれば、後先考えないバカと映るときもある。今回は後者だった。俺は考えられるなかで家を失う危機を回避する一番現実的な提案をした。
「仕方がない。俺が暗黒食堂に謝ってくるよ。」
親父は反対した。
「やめてくれよぉ、それだけはさぁ。沽券ってものがあるんだからさぁ。頼むよぉ。」
この期に及んで何を言っているのか。
「俺は来月から公園で野宿ってのは嫌だからさ。巻き込まれたこっちの身にもなってくれよ。」
親父はむっとして口をつぐんだ。
俺は自分の部屋に戻った。制服から私服に着替えて、財布などをサイドバックに詰め込むと店の外に出た。空は灰色の雲で覆われていて昼だと言うのに夜のようだ。雨はますます強くなっていて、遠くで雷鳴が聞こえる。俺はなにやら不吉な予感がしながらも傘を開いて暗黒食堂へ向かった。
「いらっしゃいませー!」
店に入ると元気な声が俺を出迎えた。
「お好きな席におすわりください」
女の子の店員が案内しに出てきた。
「あの、今日は食事ではなくて別件で来まして……。」
「別件ですか?」
女の子はキョトンとしている。俺はなんと伝えたらいいのか困惑した。
「店長さんは今日いらっしゃいますか?」
「店長の暗本でしたら厨房の方にいますが。」
俺は店を見回した。今は昼でもない夕方でもない微妙な時間帯だ。だと言うのに店のテーブルの六割は埋まっていた。雰囲気も定食屋というより小洒落たレストランという感じだった。うちの店とは大違いだ。店の入口の営業時間ではあと少しで昼の営業は終わるはずだった。
「暗本を呼んできましょうか?」
「いえ結構です。邪魔にならないようにまたあとで出直します。」
「もしよろしければ暗本に伝言しておきましょうか?」
「……朝日食堂が勝負の件で謝罪に来た、とお伝え下さい。それじゃあ。」
俺は回れ右をして店を出て近くの喫茶店で時間を潰すつもりだった。入り口のドアに手をかけたところで背後から声がした。
「俺に用だって?」
振り返るとコック姿の長身の中年男が腕を組んでニヤニヤと笑っている。
「君は朝日食堂さんの関係者かな?」
「暗本さんですか?」
「そうだ。君は?」
「俺は朝日食堂の店主の息子の龍吏といいます。親父がやらかした今日の勝負のことで謝罪したいと思いまして……」
俺は頭を下げた。
「すみませんでした。」
これまでにも親父の代わりに謝罪に行くことがあった。俺の家は母親がいないので必然的に俺がでしゃばっていくしかないのだ。たいてい、風変わりな親父を持つことを同情されて水に流してもらえる。その度に俺は惨めさを噛み締めていた。
「君も大変だね、ああいう親父さんを持つと。」
暗本の声には面白がるような響きがあった。
「親父は後先考えずに勢いでものを言ってしまうんです。今回の店の権利を賭けたのも本心ではなくて」
「でも賭けは賭けだよね。」
蔵元は笑みを浮かべて俺を見下ろして言った。俺は一刻も早くこの場を去りたい思いにかられた。近くの客席からも「なに?食い逃げ?」などと聞こえてくる。俺は再度頭を下げた。
「すいません。店の権利は勘弁していただけないでしょうか。」
「あ、君はお客さんに水ついで回ってくれるかな。お願いね。」
暗本は俺を無視して側に立ち尽くしていた店員の女の子に笑いかけた。俺は頭を下げたままだった。頭上で暗本が鼻から大きく息を吐くのが分かった。
「店の権利ね。うん、いいよ別にあんな汚い店いらないから。」
「ありがとうございます。」
俺は拳を握りしめた。1、2、3、心の中で3つゆっくり数えて怒りを抑えて頭を上げた。もう一刻も早くこの場を去りたい。
「親父さんに伝言伝えてもらっていいかな。」
「……はい。」
「同じ料理人として恥ずかしい、って伝えといて。」
1、2、3。
「あんなのを客に出すなんてちょっと考えられないよ。今回は後で揉めたくないから挨拶代わりに相手してあげたけどさ、ちょっと君の親父さんさ……」
暗本はわざとらしく声を潜めた。
「頭がオカシイよ。君も大変だね。同情するよ。」
暗本は言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべている。1、2、3、俺はますます強く拳を握り込んだ。暗本は返事をしない俺にお構いなしに喋り続ける。
「正直、最初に電話がかかってきたときから分かってたけどね。ほら、おかしい人ってなんかすぐ分かるだろ?」
暗本は同意を求めるように俺の肩に手を置いた。
「君は将来、あの店を継ぐのかな?」
「はい。」
とにかく帰りたい。暗本は憐れむような表情で頷いた。
「俺にも娘がいるんだけどね、ちょうど君くらいの。別れた女房についていっちまったけど、俺みたいな料理人になりたいって言っててね。娘に夢を叶えて欲しいしそれを精一杯サポートするのが親の努めだろ?高校卒業したらイタリアへ修行へ出すのさ。君も、どこかに、修行に、いっ、行くのかい?」
後半は笑いをこらえきれず途切れ途切れになっていた。俺はもう握り込んだ拳の感覚が無くなりかけていた。
「店で修行してます。」
暗本が爆笑した。俺の肩を何度も何度も叩く。
「なるほど! なるほど! そりゃ、安泰だ!」
店中の客が何事かとこちらを伺っている。奥の厨房からもスタッフが身を乗り出している。俺はもう耐えられそうに無かった。
「それでは失礼しました。」
軽く一礼すると今度こそドアに手をかけた。
「あーおかしい。親父が馬鹿だと子も馬鹿か。」
俺は振り返った。
「今なんと?」
「ん? いや、なんでもないよ。もう帰ってくれないか、入り口に居座られては迷惑だ。」
暗本はひとしきり笑って満足したのか、笑い涙を指で払いながらそう言った。
「もう一度勝負しませんか。」
俺の口からその言葉が滑り出た。
「は?」
暗本はぽかんとしている。
「勝負ですよ。今度はちゃんとやりましょう。俺がやります。」
暗本はしばらく唖然としていたが、口元に笑みが戻ってきた。先程までとは違って侮蔑的な笑みだ。
「あのね、もういいよ。しつこい。生ゴミみたいな定食を出すおたくの店と俺の料理が勝負になるわけ無いだろ。」
「負けるのが怖いんですか?」
「あのな、もう帰れよお前。」
「どうせ今日の勝負もあなたが不正をしたんでしょう?」
全くのデタラメだが暗本は挑発に乗ってくれた。
「なんだとてめぇ!」
「割引券で審査員を吊ったそうじゃないですか。」
「何いってんだこら! あんなもん名刺みたいなもんだろうが!」
「ご飯が安くなる名刺なんて聞いたことないですけどねぇ。」
「上等だ。今度こそ徹底的に叩き潰してやるよ。」
暗本の表情にもう笑みはなく、怒り一色だった。
「勝負を受けるということですね。」
「受けてやるよ! ただし今度は後で謝ってもゆるさねぇからな。」
「わかりました。勝負については追って連絡します。それでは。」
俺は今度こそ店を出た。背後のドアの向こうから『塩まいとけ塩!』という暗本の声が聞こえた。雨は少し弱くなっていた。傘を開いて家路についた。
「ただいま。」
『朝日食堂』と書かれたノレンをくぐると親父が客席のテーブルに座っていた。
「おう。遅かったじゃねぇか。」
親父の眼が腫れている。俺は傘の水をきりながら言った。
「親父との勝負の件、無かったことにしてくれるって。」
「そうか。そうか。」
親父はただそう言った。ほっとしているようだ。俺はそんな親父に少し苛立ちを覚えた。
「それで、次は俺が勝負する事になった。」
俺はそう付け加えた。椅子から立ち上がりかけていた親父が固まった。
「なんとしても勝つよ。」
「馬鹿野郎!」
親父が机を叩いた。
「半人前の分際で何を言ってやがる。ふざけるんじゃねぇ。」
「でも、もう決まったことなんだ。」
「ふざけるな! 俺が断る。」
親父は電話の方に大股で歩いていく。俺は親父の腕を掴んだ。
「どうして駄目なんだよ?」
「離せ! 俺だって勝てなかったんだぞ! お前に勝てるもんか! なにをどうやってそそのかされたのかは分からねぇが 俺の息子に恥をかかそうなんて太え野郎だ。」
親父は俺の腕を振り払うと、受話器を持ち上げてダイヤルし始める。俺は横からフックを押した。親父は怒りの形相で俺を睨む。
「お前……」
「親父、勝負は俺からしかけたんだ。」
親父のやることに真正面から反対するのは初めてのことだった。心臓がバクバク言っている。だが、それを認識できる程には俺の心は冷静だった。
「暗本のやつがこの店と親父のことを馬鹿にしたんだ。だから、許せなくて。」
「それをそそのかされたっていうんじゃねぇのか?」
「それが暗本になんの得があるの? 店の権利が欲しいんだったら……親父との賭けを無かったことにはしないよ。」
「……」
親父は受話器を戻した。俺は親父の目を見て言った。
「必ず勝つよ。」
親父は何も言わず俺を見つめ返した。
暗本の店を訪ねてから1週間後の午後10時。俺と親父が居間でテレビを観ていると、電話が鳴り響いた。
「もう閉店しましたって言えよ。常識がないのかねぇ近頃の客は。」
親父は寝仏の体勢のままテレビから目を離さずに言った。電話に出るつもりはこれっぽちも無いようだ。俺は鳴り続けている電話の受話器を上げた。
「はいもしもし。こちら朝日食堂。」
「何考えてるんだよっ!!」
大きな怒鳴り声が受話器から響いた。思わず耳から少し離した。
「今日テレビ局の奴らが来たぞ! 右腕を賭けるって馬鹿野郎! そんなこと言った覚えはねぇ!」
電話口の声は暗本だった。俺が返答擦る間もなく喋り続ける。
「お前らみたいな頭のおかしい奴らに関わったのが間違いだった。二度とかかわらないでくれ!」
「暗本さん、まさか降りるつもりじゃないですよね?」
「あ? 逆にお前は本気なのかよ!?」
俺は努めて小馬鹿にするように鼻で笑った。
「もちろんですよ。それに、一度受けた勝負を降りるとなると…… こちらの勝ちということでいいですか?」
声にならない呻きが受話器の向こうから聞こえた。
「お、俺はそんな条件で受けるとは言ってねぇ!」
「ボイスレコーダー。」
「なに?」
「ボイスレコーダー回してたんですよ。前お伺いしたときに。」
「お前……」
「バッチリ録れてますよ。暗本さんの声で『受けてやるよ』って。」
暗本は絶句しているのだろう。少し間があった。
「腕を賭けるとは言ってない……無効だ。」
「俺はいいですけどね。テレビ局の人達は納得しますかねぇ。」
「ど、どういうことだ。」
暗本は動揺した声を出した。
「テレビ局の人、俺たちの勝負にかなり食いついてました。まぁ、腕を賭けるっていうインパクトしか無い勝負ですからね。特集を組んでくれるみたいです。予算も相当かかるんでしょうねぇ。」
「だからなんだよ!」
「だから、今から中止にするってなると俺もそれなりの理由を説明しないといけません。テレビ局の人からしたら、せっかくの企画を潰されて黙っていますかねぇ。暗本さん、二号店をうちの近くに出店予定ですよね?」
今度は2分あまりの沈黙があった。俺は暗本が電話を切ってしまったのではないかと疑った途端に暗本の声がした。
「わかった。勝負は受ける。ただし、それが終わったら今後一切関わるな。それから賭けは賭け。勝敗が決したときにはキッチリ腕を切り落としてもらう。」
「こちらが負ける前提なんですね。」
「当たり前だ。」
がちゃ。ぷーぷー。と切断音が聞こえた。俺は受話器を戻した。
「暗黒食堂か?」
親父がいつのまにかテレビを消して起き上がっていた。
「まぁね。」
俺はテーブルの上のテレビのリモコンを手に取ろうとした。親父はリモコンを俺から遠ざけた。
「なにか喚いてたみたいじゃねぇか。」
「賭けのコマが気に入らないみたいだったよ。」
「店の権利なら俺のときにかけたじゃねぇか。」
と言ったかと思うと、親父は膝を打って言った。
「なるほど、暗黒食堂の奴ビビってやがるな。お前の力が未知数なんでビビってやがるんだ。あの野郎、肝のちいせぇ野郎だ。」
俺は一人で盛り上がる親父を見てため息が出た。
「なんだぁ? ため息なんてつきやがってこいつ。」
「親父、落ち着いてくれよ。賭けるのは店の権利じゃない。」
親父は自分の予想を否定されて不服そうだった。
「じゃあ、命でも賭けるっていうのかよ。おうおう、賭けてやれ。ああいう輩は口ばっかり達者で、いざ大きい勝負となると縮こまってなんにもできねぇのよ!」
「命じゃなくて腕だよ。腕を賭けるんだ。」
「あ?」
俺はテレビを観たかったが、リモコンは親父の手の中にガッチリと握られている。
「お前、今なんて言った? 腕? この腕か?」
親父は手に持ったリモコンでもう一方の二の腕を小突いた。
「そうだよ。」
「やめろお前!」
「なんで?」
「なんでってお前、敗けたらどうするんだ? 切り落とすのか?」
「そうなるね。」
「無理無理無理。やめとけ。中止しろ。」
親父は先程までの勢いが一転及び腰になる。
「大丈夫だよ。勝てるよ。」
もちろん100%とは言えないが、そこそこいい勝負をする算段が俺にはあった。親父はどでかいため息をついた。
「おまえ、向こうはプロだぞ?」
「知ってるよ。」
「お前俺の手伝いしてただけでまともに作ったことなんかないじゃねぇか。」
「少し練習しとくよ。」
「甘い。甘いぞ少年。料理で食っていくってのは技術がいるのよ。」
うっとおしい親父だ。
「でも親父はサバの缶詰を定食で出してるじゃないか。あれはプロの仕事?」
「あれは経営戦略よ。費用、収益、エトセトラ……そういうもんを総合的に計算するとああいう結論に至るのよ。」
「じゃあ刺し身定食の千切り大根の代わりにシュレッダーにかけた白紙を使うのは?」
「刺し身の血を吸う機能させ果たせばなんでもいいんだ。あれも工夫よ。」
「俺からしたら料理とは言えないと思うけどね。」
「何だこのやろう!」
親父がリモコンでテーブルを叩いた。電池のカバーが割れて吹っ飛んだ。
「親父はいつもそうだよ。勢いでなんでもやっちゃって、でもだめであとであれこれ言い訳するんだ。」
「てめぇ!」
「俺は違う。俺は勝つよ。」
俺は気づくと親父に対面するように正座していた。心臓がバクバク言っている。声も震えてしまう。親父は鬼の形相をして唇を震わせている。
「絶対に勝つから。」
「どうやって勝つつもりなんだ?」
親父は静かに訪ねた。怒りが最高に達する前の段階だ。答え次第では暴れ始めて家の中がめちゃめちゃになってしまうだろう。
「近所の人に協力してもらうよ。」
「誰だよ。」
「酒屋の元さんと、薬局のたっちゃん、それに町内会長。」
親父は唸った。
「審査員を身内で固めるつもりか。」
「……」
俺は親父を睨みつけた。怖かったが、なんとしても勝負に挑むつもりだった。
「好きにしろ。」
親父は立ち上がって居間を出ていった。俺は一人居間に残された。大きく息を吐いた。
親父に面と向かって歯向かったのは人生で初めてだった。冗談でそういう素振りをすることはあっても、何をしでかすかわからない暴君としての親父に歯向かうことは許されなかった。いや、そうしようとも思わなくなっていた。暗本との勝負に固執する理由は俺自信にもよく分からなかった。俺はもう一度大きく息を吐いた。そして気づいた。
「リモコン……」
勝負の日がやってきた。会場は公民館だった。狭い館内に用意された二対の調理場。中央の台にはこれみよがしに肉、魚、野菜などが積み上げられている。近くには大きなドラまで用意してある。そして異彩を放っているのは、中央奥に据え付けられたギロチン台だ。それらを取り囲むようにテレビカメラやマイクなどの機材が設置してある。廊下は観客で混み合っている。公民館のホールには観客の入る余地は無かった。開始時刻まであと15分もなかった。俺は調理台のところからADがなにかのケーブルを抱えてさっきから右に左に走り回っているのを眺めていた。
「朝日食堂さん台本確認おねがいします。」
ADのうちの一人が俺に言った。もう2時間前から3回も確認させられている。俺はうんざりしながらADに言った。
「まずドラがなって、タイトルコール。観客が拍手して、司会が暗本の名前を呼んだら吹き出す煙の中からあいつが登場。暗本の紹介が終わったあとに俺が前に出ていく。勝負の説明があって……ですよね?」
俺は何度も言わされた段取りを途中で打ち切った。ADは首振り人形のように激しく頷いている。
「オッケーです! じゃああと少しで本番なので待機しておいてください!」
そう言って、そのADは審査員席の方へ走っていった。
「俺はあいつの父親だよ! ほらこれ許可証。」
今度は親父が首からぶら下げた関係者証をスタッフに見せつけながらやってきた。
「親父、もう始まるから邪魔になるよ。」
近くを通りかかったADが親父を露骨に邪魔そうな目で見る。
「そうは言ってもよ。俺、驚いちまってよ。」
そう言って親父は審査員席の方を顎でしゃくった。
「有名な人達みたいだね。テレビで見たことあるよ。」
審査員は三人。その三人が三人共料理界の頂点のようだった。中華の鉄人。フランス料理の貴公子。イタリアンの巨人。親父は声をひそめて周りを伺いながら言った。
「バカ、お前審査員を変えられて勝ち目があるのかよ?」
「仕方がないよ。テレビ局の都合なんだって。」
「仕方がないってお前……勝てるのかよ?」
「練習したよ。」
俺は勝負が決まってからというもの学校が終われば毎日この勝負に向けて対策をしてきた。最初の数日は我ながら酷い出来だったが、今ではそれなりになっていた。
「ご家族の方、もう出てください。始まります。」
ADがやってきて親父を客席に引き戻そうとする。
「とにかくやれ! 根性みせてみろ!」
親父が連行されながら叫んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁ」
暗本は床に手をついた。審査員達は喉を掻き毟って悶え苦しんでいる。
「あんた料理人失格だぜ!」
俺は暗本に言った。暗本は俺を睨みつけた。
「同じ材料だったら、お前の料理もだろうが!」
「あれを見な!」
俺は観客席に立った酒屋の元さんと、薬局のたっちゃんを指さした。
「この二人は俺の料理しか試食してない。あんたの料理を試食した人を見な!」
俺は薬屋のたっちゃんの近くで悶え苦しんでいる町内会長を指さした。
「俺は材料の良し悪しを見抜くところからこの勝負は始まっていると思っていたぜ。ワインで下味をつけるなんて味な真似をする以前にやるべきことがあったんだよ、あんたは。」
俺がそう言い放つと観客席から感心の声があがった。暗本は言葉無く、俺を睨み続けている。しかし、その眼は敵意ではなく悔しさで満たされていた。俺と暗本の間に置かれた審査員の投票ランプは3つとも暗本の方が点灯している。満場一致で暗本の勝利で終わるはずだった。だが、この勝負は審査員達が苦しみ始めたのをきっかけに状況は一転した。暗本のとんかつ定食を試食した観客が一人、また一人と悶え苦しみ始めた。俺が暗本のとんかつ定食が原因だと看破してさっきの冒頭に至るというわけだ。
「この勝負、どっちの勝ちだ!?」
俺は司会に聞いた。司会はカメラの外のスタッフに何度も確認してやっと宣言した。
「勝者! 朝日食堂!」
わっ、と観客席からは歓声が上がった。
「それでは、ありがとうございました。」
司会が慌てたようにカンペ通りに締めくくった。
「救急車呼べ救急車!」
AD達の叫びに近いやり取りが飛び交う。彼らは慌てて事態の収拾に努めようとしているが、観客席からなだれ込んできた観客達も入り乱れて会場は大混乱に陥った。
じゃーん!
ドラの音が響き渡る。会場にいる全員が一斉にこっちを見た。
「もしかしたらなんとかなるかもしれない。」
俺はドラから離れると、勝負で作ったスープを椀に移した。全員が黙って俺の一挙一動を凝視している。
「さ、これをその人達に。」
俺は近くに立ち尽くしていたADにスープでなみなみと満たされた椀を渡した。言われるがままに椀を受け取ったADは突っ立ったままだ。
「早く! 飲ませるんだ!」
俺が怒鳴ると、ADはハッとしたように倒れた審査員の一人に近づいてスープを口に含ませた。
すると、審査員はもがき苦しむのを止めた。
「他の人にも!」
他の倒れている人たちにもスープを分け与える。すると、全員もがき苦しむのを止めた。感嘆の声があちこちから上がる。最初にスープを飲んだ審査員が立ち上がったときには歓声はピークに達した。倒れいていた人々が次々と立ち上がっていく。
「お、おお! 力がみなぎる!」
最後に起き上がった町内会長が驚きおののいている。歓声で会場が満たされた。
「さて、暗本さん。約束通り……」
俺がそう言うと周囲はしんと静まりかえった。暗本は眼を潤ませている。諦めとも怒りとも取れる表情を浮かべている。その時、一人の少女が俺と暗本の間に立ちふさがった。
「お父さんに近づかないで!」
高校生だろうか。そうか、暗本の娘に違いない。今日の勝負を見に来ていたようだ。
「君のお父さんは敗けたんだよ。」
「だからって腕を切り落とすなんて頭おかしいわよ!ゴミみたいな料理しか作れないあんたが腕を切り落とせばいいのよ!」
親が親なら、子も子というわけだ。
「早く敗者をギロチンに連れて行ってくれ。」
俺は近くにいたADに指示を出した。すると、ADは困惑した表情を浮かべた。
「それが、あのギロチン台はレプリカでして……」
「え?」
「台本では敗けた龍吏さんのほうを勝者の暗本さんが許すという展開になっていまして……」
「そんな話聞いてないぞ!」
「ディレクターが生の表情を取りたいと言ってまして。」
「じゃあ俺が負ける前提だったのか!?」
「ええ……はい。」
ADは申し訳なさそうに下を向いた。観客達から非難の声が上がる。
「ディレクターを呼んでこい!」
「ディレクターはつい先程急用が入って、あとは任せたと帰ってしまいまして。」
逃げたな。いつの間にか少女が暗本に寄り添っている。
「お父さん帰ろう。」
少女は暗本を立たせた。俺は暗本に言った。
「暗本さんは確かに賭けましたよね。そして言いましたよね? 次は必ず実行すると。」
暗本は眼をそらした。
「約束を守ってください。俺があなたの立場ならやる。もちろんその覚悟で今日は戦った。」
俺が畳み掛けると暗本がバツの悪そうに言った。
「今回は、運が悪かっただけだ。」
「勝負は時の運! でしょう!?」
「だいたい道具がねぇんだ! 腕を切り落とせねぇな! ハイ終わりだ終わり!」
暗本はギロチン台がレプリカだということを口実にして逃れようとしている。暗本は自分の言い分に自信を取り戻したのか調子が戻ってきた。
「腕を切り落とすにもしっかり道具を用意してほしかったな。それは勝負をしかけてきたあんたの責任だろ? 勝負しても道具がありませんでしたじゃ話にもならねぇ 帰らせてもらう。」
暗本は勝ち誇った顔をしている。観客から不満げな声が上がった。確かに暗本の言い分も一理ある。俺も同意する。だから、ぬかりはなかった。
「実は、こんなこともあろうかと道具は用意してあるんです。」
俺は親父に目配せした。親父は頷くと観客をかき分け会場を出ていった。観客達にどよめきが起こる。しばらくして親父が布でくるまれた板のようなものを抱えて戻ってきた。
「暗本さん。これを使ってください。」
俺は布を剥ぎ取った。大きな青竜刀が現れた。観客から盛大な歓声が上がる。
「切れ味は確かです。昨日、ブロック肉を切って確かめました。」
暗本は焦り始めた。
「だ、誰がこれで切るんだよ。」
「娘さんにやってもらえばいいんじゃないですか?」
「しゅ、出血で死んだらどうするんだ……」
「安心してください。医者は待機しています。」
暗本は呆然としている。暗本の娘は震えている。
「お父さん、この人達頭おかしいよ。帰ろうよ。」
うるせーひっこんでろ! 野次が飛ぶ。俺は青龍刀を親父から受け取り娘に差し出した。
「さぁ。」
娘は震える手でそれを受け取った。少女の体勢が一瞬ふらついた。女の子の腕力では少し重いだろう。
「さぁ、暗本さん。ここに腕を。」
暗本は俺と青龍刀とを何度も何度も視線を行ったり来たりさせている。待ちきれなくなった親父が暗本の腕を掴んで服の袖を捲し上げた。
「よお、この間の勝負では世話になったな。みんなあんたの腕が落ちるところを待ってんだからさ。」
親父は暗本の耳元でそう言った。抵抗しようとする暗本の腕を調理台に抑え付けた。
「さぁ、娘さん。そこにそれを振り下ろすんだ。それで終わる。」
俺は暗もとの腕と青龍刀を指さした。少女は足をガタガタと震わせながら青龍刀を握りしめている。観客達がコールし始める。
「切―れ! 切―れ! 切―れ!」
暗本は親父の腕の下でもがいている。調理台に投げ出された手が筋肉
俺は少女を励ました。相変わらず観客のコールは続いている。の収縮を繰り返す。こうしてみると料理の食材にのも見えなくもない。
「さぁ、娘さん、これが終われば帰れるんだ。」むしろ、どんどん大きくなっている。少女は青龍刀を振り上げた。バランスを崩して少しふらついたがすぐに安定して静止した。会場の誰もがこれから起こることがわかりきっていたが、誰もがそれを自分の眼で確かめたかった。会場は間違いなく期待で満ちていた。テレビ局の奴らもカメラを回している。少女は眼を瞑った。青龍刀が振り下ろされた。
「ありがとうございましたー。」
「おう、もう夜も更けた。ノレン下げとけ。」
あの勝負から数カ月後の月日が流れた。あの日以来、親父が俺を見る目が明らかに変わった。周囲を巻き込んだ暴走もしなくなり、何かあると俺に意見を求めてくるようになった。店の客入りも上々だった。テレビ局とのパイプが出来たので宣伝をしてもらった。ただし、味はまずいので病気が治る奇跡の料理として宣伝された。勝負に呼ばれていた審査員達は俺のことを命の恩人だと思ってくれているらしい。あれ以来、雑誌の対談などなにか理由をつけては呼ばれる。客層はスピリチュアルな層にシフトしたが設けは勝負以前とは比較にならないほど増えている。ただの水道水をペットボトルに詰めるだけで『奇跡の水』として飛ぶように売れていく。俺は最後の客が一滴残らず飲み干したわかめスープの椀を洗い場の親父に渡した。
「あの勝負以来休む暇がなくって大変よ。」
親父は俺が渡した椀を洗いながらぼやいたが、口元には笑みが浮かんでいる。
「ありがたいことだよ。」
それは嘘ではないが、俺は最近の店の繁盛にはさほど興味がなかった。
「ところで暗本の野郎が病院から逃げ出したらしい。」
親父は椀を洗いながらそう言った。暗本。最近聞くことがなくなった名前だ。もうはるか昔の過去の人かのように感じた。暗本は勝負のあと発狂し精神病院に収容された。噂では娘も精神に以上をきたしたようだ。暗黒食堂は閉店となって、数日前に見ると店のあったところはスナックになっていた。
「いや、しかしお前が勝負に勝てるとはな。ま、俺の息子だから当然か。」
親父はそう言って笑った。勝負以来何度も聞いたセリフだが、俺には親父が本当はこう続けたいのを感じ取っていた。『どんな手を使ったんだ?』 。
「まぁね。じゃあ親父、悪いけどテストが近いから勉強するよ!」
「おう! 料理だけじゃ生きていけねぇからな! しっかりやれ
!」
俺は厨房を後にして自分の部屋に戻った。ベッドに寝っ転がってぼーっとしていた。ふと気になってベッドの下から箱を取り出した。箱の蓋を開けるとワインの瓶と薬が入っている。箱を開けるのは勝負の時以来だ。持っていてもいいことは無いので処分することを考えたが、なかなか捨てる踏ん切りがつかなかった。
「たっちゃんたちにもお礼しないとな。」
俺は一人そうつぶやいて、箱をベッドの下に戻した。
「おーい、お前に電話だぞ!」
親父の呼ぶ声がする。
「はーい。」
なにか胸騒ぎを覚えた。