第二話 甘くて危険な帰り道
チャイムが鳴り、二時間目となった。教室に入ってきたのは担任の老教師だ。ちなみにその教師の名は耶馬幸一という。受持ちは当校の特別教科『霊学』だ。耶馬は真面目な顔で、霊について講義を始めた。
「白霊も黒霊も霊的に平等であって、本校では両者に差別はなく……」
まったくおかしな教科だ。だが単位を落とすわけにはいかない。祐喜はノートをとりはじめた。
キツネたちは姿をまだ現したままだ。じっと祐喜を見つめている。しかし一時間目より気分は楽だった。魅夜が戻ってきてくれたからだ。もちろん魅夜の力がここでどのくらい通用するかは不明だし、祐喜が襲われたとしても放っておかれる可能性はある。それでもすこぶる心強い。
老教師の耶馬の話は続いていた。
「えー、ご存じのとおりですが、霊道門が現れますと、近場の黒霊たちはそこにひき寄せられ、ヒトの魂を狙います。そのことがありまして皆さんの中には、『黒霊すなわち邪霊』というイメージを抱かれている方が大勢いらっしゃることでしょう。けれども私はそう考えていません。霊道門の現れていない通常時、黒霊と白霊の両者になんの変わりもありません。白霊であってもヒトに害をなし、ときには命を奪うことすらあります。また逆に、ヒトに優しく情に厚い黒霊も数多く存在しています。くり返しますが、霊道門のないところでは、両者に寸分の違いもありません」
ズズズズズズズン。
空が雷鳴のように轟いた。生徒たちはいっせいに窓の外へ目を向けた。しかし眩しいほどの快晴だ。雷だったとは考えにくい。あるいはヤバい怪異でもやってきたのか。
二体のキツネ霊は窓を抜けでるや、真上に向かって疾走し、生徒たちの視界から消えていった。
祐喜は周囲の生徒たちに聞こえぬよう、吐息のような小声で魅夜を呼んだ。
「魅夜、魅夜」
応答はない。まさかまたどこかへいってしまったのか。
「はい、はい、皆さん。授業を続けます」
耶馬は生徒たちに注意し、授業を再開した。
二時間目が終わり、休み時間になった。七、八人の生徒が窓際に集まり、外を気にしている。
教室の隅にいた女子生徒が近づいてきた。茶色い短めのボブカットに、形のいい八重歯。快活そうな子だ。彼女は机の真横で立ちどまった。
「あの、ごめんなさい。さっきはイワシなんていっちゃって。転校生くんの憑き霊さん、きっと怒ってるよね」
「安心してくれ。大丈夫だ。あいつが腹を立ててたのはおれに対してだ」
「だとしても、それはそれで大変でしょ?」
「なあに。あいつの機嫌が悪いのはしょっちゅうだ。あのようすだったら、気にするほどのことじゃない」
魅夜が心から憤慨したわけでないことは確信していた。もし本当に激怒していたのなら、祐喜を即刻殺していたに違いない。
「本当? それならよかった」
茶髪の女子生徒が安堵の表情を浮かべる。そして他の生徒たちと同様、窓の外に目を向けた。
「さっきの轟音、なんだったんだろうね。雷じゃないみたいだけど」
「さあ、なんだろう。ところで、あの……。教えてくれないか」
「あたしのこと? なーんて。学校のことかな」
「学校じゃなくて憑依霊のことだ。キツネの霊力はどうとか、なんていう話があったけど、霊は種類によってランクみたいなものがあったのか」
彼女は両頬にエクボを作り、嬉しそうに憑依霊について話しはじめた。
「あるよ。獣の霊についてはよくいわていること。でもガチガチに序列が固定されているわけじゃなくて、およその目安なんだけどね。もちろんその個体によって序列の逆転はあるんだ。ちなみにこのクラスの生徒人数は三十五……あなたを入れて三十六人だけど、そのうち獣憑きは十三人。結構多いでしょ。ただ獣憑きといっても、広義の獣憑きの数だからね。ヒトを除いた哺乳類の霊だけじゃなくて、鳥類、爬虫類、両生類を含む霊の話。ちなみにイワシのような魚類の憑依霊は、うちのクラスにナシ」
「ふうん。で、その獣憑きのランクってどうなってるんだ?」
「ええとね。主な動物系の黒霊に限定していえば、ネズミの上がイワシでその上がそしてカラス。そしてネコ、ヘビ、キツネっていう順にレベルが上がるんだって。イタチは極めて稀だから不明」
祐喜はビャクのことも聞きたくなった。
「へえ、そうなのか。ところで珍獣は、どんなレベルだ?」
「えっ、珍獣?」
茶髪の女子生徒は目を丸くした。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
『あのう』
祐喜は誰かに呼ばれたような気がした。しかし気のせいだと思い、彼女との話を続けた。
「イタチ憑きってそんなに珍しかったのか」
「うん、憑依することはないって聞いている。もしかしてイタチがヒトに憑いたのって、人類史上初めてのことだったりして。そうそう、そういえば入学初日に、みんながいってたんだけど……。鷽っていう鳥がいるでしょ?」
「ああ、その先はいわなくていい」
『あのう』
「いわせてよ。みんなの疑問を先生にぶつけてみたんだ。でもね、残念ながら鷽憑きも前例がないんだって」
『あのう』
やはり誰かに呼ばれている。
『あのう』
なんだ? 周囲を確認する。
幾人かの男子生徒が囲んでいた。いつの間にこんなに集まっていたのだろう。茶髪女子生徒の地声がデカいため、彼らの存在には気づきもしなかったのだ。
彼らの顔を見回す。ん?
「おれに用事か」
「あのう。ぼ、僕たち、邑塚くんと話がしたいと思って」
本心からいっているようには思えなかった。どうも彼らのようすがおかしい。転校生歓迎のムードとは別種のものだ。目はギラギラし、口もとが緩んでいる。何を企んでいる?
祐喜は彼らを警戒し、つき刺すように目を細めた。
「いったい何を話せというんだ?」
「えっと趣味とかって、あるのかなあ?」
男子生徒の一人が尋ねた。
意想外な質問に祐喜は戸惑った。
「おれに趣味なんかないが」
男子生徒の質問は続いた。
「じゃあ、イタチ子さんは、趣味とかどうなのかなあ」
「イタチ子……さん?」
「確か邑塚くんは彼女を『みや』さんって呼んでたみたいだけど」
ははん。
連中の意図を把握した。彼らの興味の対象は魅夜なのだ。祐喜ではなかった。
何も答えずにいると、別の男子生徒がモジモジしはじめた。
「こ、今度、ウチに遊びにこないか?」
「ありがたいが遠慮しとく」
憑依霊の何がいいのか、その理解に苦しむ。きっと彼ら男子生徒たちは、別世界の住人なのだ。このさき彼らとは根本的なところで通じあうことはなかろう。
さて、冷たくあしらったつもりだったが、彼らはめげることなく質問を浴びせてきた。
「魅夜さんって、好きな食べ物ってある?」
「知らん」
口にはださなかったが、魅夜は霊道門が現れたとき、よく浮遊霊を食していた。それから普段、みたらし団子を好んで食べていたことも思いだした。
「家にいるときとか、魅夜さんとはどんな話してるの?」
「いちいち覚えていられない」
「朝起きたら、魅夜さんが布団の中に一緒にいたとか、あるのかなあ……」
「ねえよ」
「じゃ、邑塚くんはお風呂のとき、魅夜さんに背中とか流してもらったこととか……」
「あるかっ!」
「いいなあ」
「いいなあって、なんのことだ。勝手な妄想すんじゃねえ」
……まったく、お前らなあ。
「ねえ、もう一度だけ魅夜さんの美しい姿を拝ませてくれないか」
「無理だな。おれが呼んでも現れやしない。ぜんぜんいうこと聞かねえんだ」
「頼む。そこをなんとか。一回呼んでみるだけでいいからさ」
「んじゃ、一回だけだぞ。現れなかったらそれで諦めてくれ」
どうせ、どこかへいってしまっている。仮にここにいたとしても、要求どおりに現れるはずがない。そう踏んでいたからこそ呼んでみた。
「魅夜」
予想外なことに魅夜が現れた。ただし美しい女ではなく、小さな獣の姿だった。祐喜はざまあみろといわんばかりに、男子生徒たちの顔を見てやった。彼らの一人が懇願する。
「魅夜さん、お願いです。もう一度、ヒトのお姿を見せてください」
魅夜は黙って、毛づくろいを始めた。
「待って、みんな!」
突然叫んだのは茶髪の女子生徒だった。
「この子、イタチの霊じゃないよ」
茶髪の女子生徒と魅夜はクラス中の注目を集めた。再度、彼女が魅夜の体を観察する。
「やっぱりそう。イタチじゃなくて、この子はテンだよ。イタチはもっとちっちゃいの」
祐喜は憑依されてからずっとイタチだと思いこんでいた。だからこれまで本人に確認することもなかった。しかしテンだったとは。
「へえ、テンっていうのか」
魅夜の頭をさすろうとする。しかしすぐにその手をひっこめた。とてつもない殺気を感じとったからだ。まだ機嫌が直っていないようだ。
茶髪の女子生徒がいう。
「あたし、聞いたことがあるんだ。テンといったら、キツネよりも恐ろしい霊力を持ってるって。あちこちでそんな伝説が語りつがれているみたいだよ」
他の生徒たちはそれを聞いてガヤガヤと騒ぎだした。
「本当かしら」
「ああ、それ。俺も聞いたことあるぜ」
「何かの間違いじゃないのか。そんなこと、俺は初めて聞いたが」
「いや、本当だ。俺もその話知ってるぞ」
「わたしも聞いたことある。テンの霊なんて超レアらしいけど」
「だけどキツネより上だって信じられねえ」
祐喜は本人に直接聞いてみた。
「魅夜。テンってすげえのか?」
「知らぬ!」
魅夜はふたたび姿を消してしまった。
茶髪生徒が心配そうな表情を浮かべる。
「転校生く……邑塚くん、あの子が不機嫌だっていうのは、イタチなんていってたからじゃないの?」
「そうだな。それはありえる。おーい、魅夜。聞こえてるか。悪かった」
姿の見えない魅夜に詫びた。
しかし応答はない。
きょうの学校帰りに、好物のみたらし団子でも買ってやることにした。
誰かの高笑いが聞こえた。
「ははははは。そんなバカな話があるかよ。俺はそんなの聞いたことねえ」
教室中に響きわたるような八雲の叫び声だった。彼はてのひらをひらひらさせている。そしてクラス委員の樺澤に確認した。
「あるわけねえよな。獣の霊でキツネより上なんて」
樺澤は何も答えなかった。八雲がチッと舌打ちする。
「カイ、カイっ」
憑依霊を呼ぶと、キツネが現れた。どうしたことか満身創痍だ。
「おいっ、カイ。傷だらけじゃないか。どうしたんだ」
「もしかして……。リザっ」
今度は樺澤が叫んだ。
もう一体のキツネ霊も姿を現した。その瞬間、女子生徒の悲鳴があがった。
「いやああああ」
リザという樺澤の憑依霊は、片耳と尾がちぎれていた。よろよろと宙を歩くが、まもなく姿を消した。続いてカイも消えた。
樺澤が憎々しげな眼差しを祐喜に送る。八雲はただ茫然としていた。
そういうことなのか? 魅夜を呼んでみる。
「なあ、魅夜」
空が激しく鳴りひびいたとき、キツネたちは窓から教室をでていったが……。
「教えてくれ。魅夜がやったのか。あのとき空が鳴ったが、お前がひき起こしたものなのか」
なかなか応答が返ってこない。いないのではなく、無視しているのだろう。聞くだけ無駄だったと諦めかかった頃、やっと魅夜の声が聞こえた。
「うるさいハエが湧いていたのでな。空を鳴らしたら、期待どおり二匹も誘いこまれてきた」
「わかった、もういい。それ以上いうな」
やはりあの轟音は魅夜が二体のキツネ霊を誘ったものだった。魅夜に夢中だった男子生徒たちも察したらしい。彼らは逃げるように席へと戻っていった。
教室内が森閑とする。重たく異様な空気だ。
「キツネの霊って霊力がものすごく高いんだから、耳や尻尾なんて一年もあれば完璧に元どおりだね」
茶髪の女子生徒がフォローするようにいった。教室のすべての生徒に聞こえただろう。樺澤や八雲からの反応は特になかった。三時間目を告げるチャイムが鳴る。誰もが黙って席についた。
夕方となった。
この日の授業は終了し、帰途についた。
徒歩で学校の正門をでた直後、ビャクが呼ぶ。
「祐喜ぃー。もう声をだしてもいいでしょ?」
ビャクはいいつけを守り、学校では完璧に霊気や姿を消していてくれた。
「もう大丈夫だ。でもまだ小声でな」
「きょう、途中から誰も話しかけてこなくなっちゃったね」
「どうでもいいことだ」
「やっぱり魅夜のせい?」
「魅夜は悪くない。挑発してきたのは向こうだ」
「独りぼっち、寂しい?」
「別に。いつものことだ」
ビャクが魅夜を呼ぶ。
「魅夜ぁ」
「なんだ」
魅夜もビャクも姿を消したままだ。両者の会話が祐喜の耳に入ってくる。
「さっきの教室だけどね。あそこでは気を抜いちゃ駄目だよ」
「なぜ気を抜いてはならぬ?」
「ちょっと面白い霊がいるよ」
「だからどうした」
「あのね、鬼の匂いがしたよ。きっと鬼が誰かに憑いているんだよ。鬼が人間に憑くなんて、テンより珍しいんじゃないのかなあ」
「鬼? はて、鬼がいたとは気づかなかった。だがそんなものなど恐れるものか。鬼がいようと神がいようと興味ない」
黙ってじっと聞いていた祐喜は、かったるそうに人差し指でこめかみを掻いた。姿の見えない魅夜に対し、とりあえず大空に向かって声をだす。
「おーい、魅夜。もうさあ、他生徒の憑依霊とは喧嘩なんかしないでくれ」
「約束できぬな。だが少なくとも、わたしからは手をださぬつもりだ」
祐喜はバス停を目指し、ひたすら歩きつづけた。
校門から六百メートルほど進んだところで、誰かに呼びとめられた。
「邑塚くーん」
声の主は魅夜でもビャクでもない。
誰だろう。背後からだ。ふり向いてみると、自転車に乗った女子生徒が一人。その顔に見覚えがある。魅夜をテンだといった茶髪の生徒だ。彼女は徒歩の祐喜に追いつくと、自転車からおりた。
「後ろ姿、そうじゃないかと思ったけど、やっぱり邑塚くんだった」
「おう」
ひとことだけ返し、また歩く。
彼女は自転車を押し、祐喜の隣に並んでいる。するりと顔をのぞきこんできた。
「れれ? 邑塚くんも帰り道、こっちだったの?」
馴れ馴れしい彼女を変に思いつつも、素直に答える。
「こっちの方だ。家は神代町だからな」
「あたしんトコと隣の町じゃん! まさか神代町から歩いて学校にきたわけ? 歩くには遠すぎやしない?」
「もちろんバスだ。バス停まで遠いうえに、本数は少ないし、乗りかえもあるが、歩きっぱなしよりはマシだ」
初日は自転車以外で通学するようにと、学校から通知がきていた。しかし学校から最寄りのバス停まで、徒歩で三十分もかかる。そのうえ乗りかえも必要だった。祐喜はその煩わしさをつくづく実感しているところだった。
「そうだ! 邑塚くんっ」
「こ、今度はなんだ?」
女子生徒はとても上機嫌そうだ。
「神代町までだったら、チャリの後ろに乗っけてってあげる」
「いいや、結構。遠慮しとく」
祐喜は即答した。
「遠慮なんかいらないって。同じ黒霊クラスの仲間になったんだもの」
「それでもきょう初めて会ったばかりだろ。いきなり迷惑はかけたくない」
女子生徒は「うーん」と上を向く。するといいアイデアでも思いついたらしく、自転車のハンドルの柄を向けてきた。祐喜は『何のつもりだ』といわんばかりに目を細めた。
「じゃあさ、邑塚くんが漕いで。あたしが後ろに乗るから。邑塚くんはバス代が浮く。しかもおそらくバスに乗るよりずっと早く家に着く。あたしは漕がずに途中まで帰れる。双方に得ありだね!」
気づいてみれば、女子生徒のペースに見事に乗せられ、せっせと自転車を漕いでいた。
田畑に囲まれた真っ直ぐな田舎道を走る。後部では女子生徒が小さな子供のようにはしゃいでいる。
「やっほー。楽ちん楽ちん」
「おい、こら、後ろから揺らすんじゃねえ!」
車道が広くなったところで、祐喜は加速した。
「さすがは男子。漕ぐの速ーい!」
自転車の猛スピードに振りおとされまいとしたのか、祐喜の体に両手を絡めてきた。
一瞬、祐喜の呼吸が止まった。
そのとき――。
ビャクのささやきが、祐喜の耳に聞こえてきた。
「後ろの女の子が、胸を祐喜の背中に押しつけてくるんじゃないかって、ちょっと期待したでしょ?」
微妙に間の空いたあと、祐喜はてのひらで口を押さえた。会話が後ろの女子生徒に届かないようにと。
「バカなことをいうな。そんなもん期待するか! 仮にそんなことになっても嬉しかねえし」
「くくくっ」
微かに聞こえるビャクの笑い声。
「笑うな。本当にそんなんじゃねえ」
「それじゃあさー。もし胸を押しつけてくるのが魅夜だったらどう? 祐喜、嬉しい?」
「え?」
ずっこーん。