第一話 不穏な顔合わせ
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赤みがかった空の下、大きな物体がもぞもぞと動いている。巨大な蜘蛛だ。捕らえた獲物をむしゃむしゃと食している。
その獲物は人間だった。しかもまだ生きている。〝死〟を覚悟し、〝生〟を諦めている――虚ろな目がそう語っていた。体内から溢れでるのは血ばかりでない。蜘蛛が顔を持ちあげると、口から糸を垂らしていた。よく見ればそれは糸でなく、獲物たる人間の小腸だった。
これを目撃した邑塚祐喜は、激痛にも似た苦しみを味わった。吐き気をもよおし、地面に伏す。
周囲は暗澹たる闇と化した。闇に変化が生じ、白も黒も区別がなくなった。自分と他との境もなくなった。
やがて闇は秩序をとり戻した。視界の中央に少女がいる。少女は祐喜に向かって小さな手を伸ばしていた。叫んでいるようだ。『殺してやる』だろうか。『帰れ』だろうか。『助けてくれ』だろうか。声は聞こえない。だが必死に何かを伝えたがっている。
声を聞きたくて近づこうとするが、不思議な力によって、逆に遠ざかってしまう。彼女の体は小さくなっていった。やがて見えなくなった。
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廊下の左手にずらりと教室が並んでいた。地味なネクタイをした老教師が立ちどまる。転校生の邑塚祐喜も足を止めた。
「邑塚くん、ここが私たちの教室です。『黒霊クラス』などと通称されることもありますが、くれぐれもそれを口にださないように。一年Eクラスです」
「はあ」
「それでは私が呼ぶまで、ここで待っていてください」
老教師が教室の中へと消えていく。
祐喜は廊下で待たされることとなった。廊下の窓越しに空を眺めながら、今朝の夢を思いだしていた。人を喰らう蜘蛛。声の届かぬ少女。これまでくり返し見てきた奇妙な夢だ。しかも最近、見る頻度が増している。あれらはなんなのだ?
閉じられた戸の向こうで老教師がしゃべっている。声が小さいため、内容まではわからない。突然、生徒たちの地鳴りのようなどよめきが起こった。
「やけに騒がしいね」
祐喜の耳元でビャクがささやいた。姿は消えている。
「転校生がくるとなりゃ、こんなもんだ」
見えない相手に応答した。
「ふうん。それにしてもこんな怪しい場所があったとはね」
「だろ?」
祐喜は得意顔だ。まるで自分のことのように。
「うん、すごいね。きのう祐喜がいってたとおりだ。戸の向こうからたくさんの霊を感じる。こんな面白そうなところ、魅夜も一緒にくればよかったのに。どこにでかけていっちゃったのかな。そういえば、さっきのおじさん、黒霊クラスとかいってたけど、黒霊ってなんだろうね」
「ビャクはこの前の話を聞いていなかったのか。この学校じゃ、ヒトに憑依する邪霊のことを黒霊って呼んでいるんだとさ。厳密には邪霊とはまたちょっと違うらしいが、まあ、そう覚えておけばいいだろう。んで、Eクラスにはそんな邪霊に憑依された生徒ばかりが集められてるらしい」
「あたしが邪霊ってこと?」
不満そうな語調だった。
「違う、魅夜のことだ。ビャクはヒトの魂を食おうとしたことないみたいだから、たぶん白霊ってなるんだろうな。黒霊以外の憑依霊は白霊っていうらしい」
「へえ、そうなんだ」
祐喜はあたりをキョロキョロし、話を続けた。
「いいか、ビャク。黒霊の魅夜に憑依されているからこそ、おれはこの学校に転校できたんだ。だけどな、お前のことはまだ学校側に知られてない。くれぐれも学校の職員や生徒たちに気づかれぬよう、大人しくしていてくれ。頼んだぞ。もしおれに白霊も憑依しているのがバレでもしたら、ちょっと厄介なことになるんでな」
というのはこういうことだ――。
隣のFクラスとは仲よくするようにと、職員室で担任や学年主任から何度もいいつけられた。そのFクラスには白霊宿しの生徒たちが集められているそうだ。とにかく執拗にその話をくり返すものだから、黒霊宿しと白霊宿しは犬猿の仲だということが容易に推測できた。もし黒霊クラスの同級生に白霊のビャクのことが知られたら、それこそどんな目に遭わされるかわかったものではない。卒業するまで何がなんでも、ビャクのことは隠しとおさなければならない。
「うん、わかった。このまま完璧に霊気を消しておくね。でもその前に忠告。あまり品のよくなさそうな霊がごろごろいるから気をつけて。いま魅夜はいないんだからね」
教室の戸が静かに開いた。
「さあ、邑塚くん。中へ入ってください」
老教師に呼ばれ、教室に入っていった。生徒たちが静かに注目している。視線は生徒たちだけからではない。異様な空気が漂っていた。そう。ここは通称『黒霊クラス』なのだ。黒霊とは大雑把にいえば邪霊。ヒトを襲い、ヒトを喰らう。ヒトに害をなす霊だ。警戒を怠ってはならない。これは命にかかわる問題なのだ。
こんな恐ろしい空間に、祐喜はたった一人。ビャクはいるがコイツは駄目だ。肝心なところで役に立たない。だから魅夜がいてくれないと困る。しかしアイツはどこかへいってしまっている。仮に魅夜がいたところで守ってくれる保証はないが、傍にいてくれさえすれば他の邪霊たちへの牽制になるはずだ。いまの丸腰にも似た状況を、誰かに悟られるのは非常にマズい。
気がかりなことはまだある。ビャクはきちんといいつけを守り、しっかり隠れていてくれるだろうか。飽きっぽい性格だから困ってしまう。
気づいてみれば、てのひらが汗で濡れていた。ここで自分に気合を入れなおす。不安げな顔を見せはいけない。邪悪な奴らにつけこまれるだけだ。
黒板前を闊歩し、教壇の真横に立つ。生徒一人一人の顔を見てやった。
老教師に強いられた自己紹介を、そっけなくも無難に終えることができた。指示された机に向かった。さまざまな視線が祐喜を追ってくる。席は窓から二列目の最後尾だ。椅子に腰をかけると、老教師は退室していった。ほぼ入れちがいに一時間目の教師が入ってきた。
授業が始まると、生徒たちから見られることはなくなった。たまにちらりと視線が飛んでくる程度だ。
しかし憑依霊たちについては別だ。担任の老教師がいたときには姿を消していたのだが、ぽつりぽつりと目をだし、やがて顔全体を見せるものや、姿をしっかりと現すものまででてきた。転校生に興味があるようだ。五月なのに教室が肌寒く感じられるのは、それらのせいかもしれない。
霊がうじゃうじゃいて気味が悪い。視認できる霊の数は、生徒数を鑑みると、これでもまだ半分以下だろう。
――ヒヒの体を持った女。鶏卵さながらのずんぐりした老翁。ウニに似た一ツ目の球体、逆さまに宙を泳ぐカラス、顔のみのフクロウ、墨汁よりも黒い鎧かぶとを装着したサムライ。いつの時代のものなのか、小袖に黄色い帯の童女。天井には現代人の恰好の霊も数体漂っていた。最もマトモに見えたのは白い猫だった。本物の野良猫ではと思ってしまいそうになるが、外の窓枠を歩いているので霊に相違ない。ここは三階の教室なのだ。その他は目が見えているだけだった。黒い目、赤い目、紫の目、瞳を二つ持った目などなど。
いくらなんでも授業中に襲われることなどあるまい。そう信じたいが、霊宿しの生徒たちは、自分の憑依霊をきちんと制御できているのだろうか。悪さをせぬようきちんと躾けているのだろうか。考えてみれば祐喜自身、凶暴な魅夜を鎮める自信はなく、それどころかビャクのいたずらでさえ手を焼いているのだ。
授業に集中できない。魅夜が早く戻ってくることを願った。
一時間目が終わり、休み時間になった。一人の生徒が近づき、声をかけてきた。
「クラス委員をしている樺澤だ。もしかするとキミは獣憑きではないか? 雰囲気がそんな感じだ」
祐喜は首をかしげた。
「ケモノツキ? ああ、そんないい方もあるのか。そのとおりだ。おれには獣の霊が憑いている」
「やっぱりか。実は俺も獣憑きだ。でも入学式から一ヶ月あまりという妙な時期に転校生がくるとは驚いたよ」
「まあ、わけありなんだ」
「その〝わけ〟に興味があるけど、野暮なことは聞かずにおくよ」
樺澤と二人で話していると、前席の生徒がふり向いた。締りのないDQN顔だ。体はふっくらと大きく、豚のように鼻が上を向いている。
「で、転校生。お前に憑いた霊はつえーのか」
笑顔こそ見せているが、他人を見くだしたような目だった。DQN顔のくせに。
「さあ、どうだか。弱くはないと思うが」
もっと謙虚に答えるべきなのだろうが、邪霊たちが集まる中で、弱く思われることほど険呑なものはない。
実際、魅夜が他の怪異に負けたのを見たことはないので、弱くないだろうというのは祐喜の本心であり、決してハッタリではなかった。
豚鼻の生徒は立ちあがり、大きな顔を寄せてきた。
「へえー。そうか、そうか。弱くはないのか。そんじゃ……」
いいかけたところで、樺澤が豚鼻を止める。
「おい、わかってるよな。やめるんだ、八雲」
「誤解すんな。ただ冗談いおうとしただけだ」
豚鼻は舌打ちし、視線を祐喜に戻した。
「んで、転校生にゃー何が憑依しているんだ? ちなみにおれのはキツネだぜ」
するとやや離れたところから女子生徒たちの声。
「また八雲の自慢が始まった」
「ホント、ホント。いい加減にしろ、って感じ」
バンっ。豚鼻の八雲は机を叩いた。教室内が静まりかえる。
「わりぃー、わりぃー。驚かしちゃったか。そんなつもりはなかった。で、どうなんだ。お前んとこの憑依霊は」
そんなつもりは絶対にあった。威嚇だったことは誰から見ても明白だ。
八雲は顔をすごませ、祐喜の答えを待っている。
「おれのは……」
カチカチ。
壁時計の秒針が音を鳴らしている。
八雲だけでなく教室中が、答えを聞きたがっているようだ。
「……えっと、イタチだ」
皆がきょとんとしている。八雲は鼻で笑い、前に向きなおった。祐喜は周囲を見回してみるが、この状況がさっぱり理解できない。しばらくして教室の隅にいる茶髪の女子生徒が口を開いた。
「め、珍しいこともあるんだね。イタチがヒトに憑くことは皆無だって聞いてたから。でも本当にイタチなの? あっ、もしかしてイワシの間違いじゃない?」
周囲を包みこんだのは、笑いを押しころした「くくく」という声だ。ヒソヒソ話も次々と耳に届いてきた――。
「だーよな。びっくりしたぜ。イタチじゃなくてイワシか」
「おい、声がでけえ」
「イワシ憑きって漁師さんに多いのかな。このクラスでは唯一だよね」
「うん、いわれてみればイワシ憑きって、なんか男らしいかも」
「ナイス、フォロー」
「でもイワシって獣じゃねえよな」
「バカ、いいんだよ。宿してる本人がそうだっていうんなら、獣でいいじゃん」
「イワシの霊って、一般にネズミのよりかは、霊力高い傾向にあるんだったよね」
妙な気の使われ方だ。
祐喜は声を大にしていう。
「違う! イワシじゃねえ。野や山を走るイタチの霊だ」
そのとたん息が苦しくなった。体が重い。心臓が締めつけられるように痛い。ぜえぜえと肩で呼吸することを余儀なくされた。
そうか、やっと魅夜が戻ってきたのか。しかし何を怒っている? きょうは機嫌が悪いのか?
眼前に小さな靄がかかった。中から魅夜が姿を現した。祐喜の隣に歩いてくる。
「おおお」
溜息にも似た歓声があがった。それはヒトに化身した魅夜の姿を目にしてのことだ。魅夜は上半身だけでなく、足の先まできっちりと見せている。
「すげぇー」
「う……美しい」
「いいなあ」
「おれのタイプじゃん!」
男子生徒たちは魅夜のヒトの姿に大絶賛。
これほどまでの人気ぶりは、祐喜にとって意外だった。隣の席の男子生徒が手を伸ばし、祐喜の首周りをそっと甘締めする。
「このぉー、羨ましいぞ! あんな綺麗なコが憑いているだなんて」
祐喜には理解できなかった。
「羨ましい? ヒトじゃなくて霊だぞ」
「あんな素敵な霊だったら問題なくOKだよ。あのちょっぴり冷たそうな瞳がまた堪らないじゃないかー」
価値観の違いが大きすぎる。言葉を返す気にもなれなかった。
男子生徒ばかりでなく女子生徒も魅夜に注目していた。
教室内の霊たちも魅夜のようすをうかがい、あるいは睨めつけていた。もしそれらが束になってかかってきたら、魅夜といえども一溜まりもなかろう。だが魅夜はそんな奴らのことなど歯牙にもかけていないようすだ。あるいはそのように装っているだけなのか。
魅夜のすまし顔が少し笑った。
「ほう。ここが祐喜のいっていた黒霊クラスか。確かにこれらはただの霊ではなかろう。邪悪で汚らわしい霊気が匂ってくる」
毒づく魅夜に、祐喜が小声でつっこむ。
「魅夜だって邪霊だろ? ここの霊たちのことはいえないはずだ」
「わたしをそこらの邪霊と一緒にするでない。笑わせるな」
このひとことで緊張が高まった。宙を漂う霊たちの動きが止まった。四方から殺気を放っている。
最初に動いたのは霊でなく人間だった。前席の八雲が立ちあがり、魅夜を睨めつけた。
「何をっ! イタチ霊のくせに」
そんな言動ができるのは、自分に憑依しているキツネを、よほど信頼してのことだろう。
祐喜は魅夜が激昂するのを予期した。慌てて止めに入ろうとする。
「魅夜、やめろよな。そんなやつのことは放っておけ」
「祐喜よ、腹立たしいのはうぬの方だ。まさかとは思っていたが……」
はて? 魅夜を怒らせることをした覚えはない。まったく心当たりがないのだ。やはり魅夜は機嫌が悪かったのだろう。しかし怒りの矛先が自分に向いたことは救いだと思った。さもなければ血なまぐさい事件が起きていたことだろう。
豚鼻の八雲の視線は魅夜から祐喜に流れた。
「いいか、転校生。せっかくこの黒霊クラスに入ったんだから教えておいてやる。何百という獣霊の中で、その頂点にくるのはキツネなんだ。しかもおれのカイはなあ……」
DQN顔が口角をつりあげている。彼の憑依霊はカイという名前らしい。キツネ霊であることが自慢なのだろう。もったいぶるように口を閉じてタメを作っているが、祐喜としては他人の憑依霊の情報などまったく興味がなかった。
八雲が話を続ける。
「……去年は一年間で、二十八人もの魂を処刑しまったんだ。まったく食い意地が張ってしょうがない奴でさあ」
ちょこんと肩をすぼめては見せたが、実に気持ちよさそうな話しっぷりだった。
クラス委員の樺澤が目を三角にする。
「やめろ、八雲。わかっているのか? 口にだすことさえ憚られることなのに、どうしてお前はそれを嬉しそうに話せるんだ」
八雲はバツが悪そうに下唇を前に突きだした。不謹慎な発言だったという自覚は一応あるようだ。
ひゅるり。
彼の背中から抜けでるようにキツネの霊が現れた。また樺澤の体からも同様、キツネの霊がでてきた。二体のキツネ霊が宙を歩く。すると室内にいる他の霊たちは次々と姿を消していった。
キツネたちは魅夜を囲むように、大きな弧を描いて回りはじめた。これは明白な挑発行為だ。祐喜が魅夜の耳元でいう。
「頼む、いまは消えていてくれ」
すると魅夜は消えた。