第十三話 魂狩りのラストチャンス
ヒトの姿で飛ぶ魅夜に、祐喜は平行して走った。
「霊道門はまだか」
魅夜が無視する。顔を見れば不機嫌そうだ。気のせいかもしれないが、疲れたようでもあり、物悲しげでもあった。
「どうかしたのか」
「祐喜よ、どうしてわからぬ? 秘めたる霊力の小さき霊宿しならばともかく、うぬならば霊道門の位置くらい感じとれるはず」
「わかんねーもんは、わかんねーよっ」
祐喜が逆ギレすると、魅夜はいつもの嫌味を口にするのだった。もう何度、同じことをくり返し聞いただろうか。
「うぬは、いまだ魂狩りの成功を収めたことがない」
「だからなんだよっ」
祐喜は声を荒げた。しかし魅夜の横顔は普段のものと違っていた。決して鋭いナイフのような目つきで祐喜を責めたてているわけではない。むしろ思いつめたような虚ろな目だった。
「今度こそ成功させるのだぞ。これが最後だと思え。よいな」
「わかってる。今度こそ魂を狩ってみせるさ」
霧がでてきた。霊道門が近い証拠だ。周囲を注意深く見回し、六つの火柱の門を探す。魅夜は霧の中に消えていったが、祐喜は自力で見つけた。
あそこだ。
遠くに光がゆらゆらと泳いでいた。光に近づいていく。
荘厳な霊道門がそびえ立っていた。炎が激しく燃えさかっている。そこは通行止めになったままの古い時代のトンネル廃墟前。よりによって、ヒトの往来のなさそうな場所に出現してくれたものだ。ヒトがこなければ魂は狩れないのに。
それでも付近にヒトが足を踏み入れてくるのを待つしかなかった。
待つことおよそ十五分。奇跡的にヒトの気配があった――。
こんなところにくるとは、ずいぶん奇特な奴がいるものだ。
巡ってきたチャンスに身震いした。
ヒトの魂を狩ることが、怖くないといったら嘘になる。だが魅夜の前でもう失態を晒すことはできない。今度ばかりは成功させなければならない。魂狩りの成功は魅夜のためだ。祐喜は目を閉じた。
そう、怖くない。おれの命は魅夜のためにあるんだ。
****
……五年と数か月前。
おれは事故に遭った。
あの日、父の運転する車に乗っていた。母も一緒だった。家族三人の楽しい旅行のはずだった。
前方数十メートル先を走っていた白い車が、カーブのところで不意にスリップを起こした。父はブレーキを踏み、ハンドルを切った。しかし父の運転する車はスピンを起こし、ガードレールを壊した。最悪なことに車ごと崖下へと転落してしまった。
もうどれほど落ちていったのだろう。どこまで落ちつづければいいのだろう。まるで時間が止まったかのように、視界の景色はゆっくりと動いていた。危機迫った両親の顔も見えた。そしてありえないものまで祐喜の目に映った。それは世にも美しい女の顔だった。
『まだ生きたいか?』
美しい女が問うた。
「うん、生きたい」
『うぬだけならば救うとしよう』
「いやだ! お父さんとお母さんと一緒じゃなきゃ駄目だ」
女は首を横にふる。
『わたしはこの地の地縛霊。いまわたしが欲する魂は二つで事足りる。ゆえにうぬだけを助けてやろうというのだ』
「お願い! お父さんとお母さんも一緒に助けて。もし駄目だったらボクだけを食べて。そしてお父さんとお母さんを助けて!」
『ならぬ』
「代わりになんでもいうこと聞くから。お願い!」
結局、おれは憑依の契りを交わすことになった。両親の命と引きかえに。いまでも魅夜には恩を感じている。魅夜のためならば死ねる。魅夜のためにヒトの魂を狩ってみせる。
****
「見てろよ、魅夜。きょうは必ず……」
その獲物は周囲を不安そうに見回していた。道に迷っているようだ。やはり意図してここにきたのではなかったようだ。
頭上から魅夜がおりてきた。祐喜が獲物を見定めたことを認識したらしい。魅夜の指先から五本ずつ、両手十本の爪が鋭く伸びた。準備万端のようだ。
魅夜は大きく息を吸いこんだ。勢いよく右手を縦にふる。次の瞬間、祐喜は信じられない光景を目にすることとなった。それは刹那のできごとだった――。
魅夜の右手の爪が左手の爪をスパッと切りおとした。
「おい、何をやってるんだっ」
切りおとされた五つの爪は、地面に落ちることなく黒い気体となり、やがて消えていった。突然、祐喜の右手に五つの爪が鋭く伸びてきた。親指も含めた指先からだ。祐喜に生じた右手の鋭い爪は、たったいま切りおとされた魅夜の爪なのか?
「これってまさか」
「わたしの爪だ。今度こそ狩るのだぞ」
魅夜は左手五本の爪を失った。そしていま祐喜の右手にあるのは魅夜の爪。この爪があれば、たとえヒトであろうと化け物であろうと、八つ裂きにするのは造作もないことだろう。
祐喜は右手に生えた五つの爪を左手で擦った。授かった爪は無駄にできない。胸が苦しくなった。プレッシャーが重くのしかかる。絶対に、絶対に、絶対に失敗は許されない。魂狩りに震えてはならない。もう逃げることはできない。顔を背けることはできないのだ。
魂狩りの最後は媒体の手によってなされる。執行するのはあくまでも媒体だ。憑依霊が快楽の究極的絶頂を得るためには、その媒体に獲物の魂を喰らわせる必要がある。
祐喜は鋭い爪の生えた右手を、前方につきだした。
「すげえな、魅夜の爪」
「我ながらうまく移植できたものだ。片手丸ごとの移植もいけたかもしれぬな」
「片手丸ごとって。それはやめてくれ」
さて、魂狩りの開始だ。
迷いこんだ獲物は、後ろ姿から判断すると、若い女のようだ。見るからに非力そうだ。だからといって憐みをかけることはしない。魂を狩る対象に差別はない。獲物は獲物だ。
祐喜は背後から近づいていった。魅夜に誓ったのだ。今回は何がなんでも魂を狩る。鼓動が高鳴った。胸に手を当てた。
やや緊張しながら獲物に声をかける。
「止まれ」
獲物の足がとまる。ゆっくりとふり向いた。
はぁ――――――?
馬鹿なっ! 嘘だろ?
祐喜は絶句した。
「あれ、祐喜じゃない? よかったぁー。わたし、道に迷っちゃって。まだ引っ越してきたばかりだから、このあたりの土地勘が全然なくて」
祐喜は放心状態となった。最悪だ。『また狩れなかった』では済まされないこのときに、訪れた獲物がよりによって幼馴染だったなんて。
どうしてこうなった? 何故ここにいるのが穂香なんだ!
ああ、なるほど。本当に穂香が黒霊宿しならば、ここへやってきたことに得心がいく。となると穂香の黒霊もこちらを襲ってくるのだろうか。しかしそんなようすはない。黒霊の気配はどこにも感じられない。やはり穂香は黒霊宿しではないのだ。偶然ここに迷いこんできただけだ。
祐喜は魅夜から授かった長く鋭い爪をちらっと見た。
この爪で殺らなくちゃならないのか?
頭上で魅夜が命令する。
「やれ」
しかし祐喜は固まったまま動けないでいた。
「仕方ない。先にわたしがやる。ただし最後に喰らいつくのはうぬの役目だぞ」
魅夜が急降下した。右手の鋭い爪が穂香に向いている。
穂香は状況を把握したようだ。
「きゃあああ」
襲いかかる魅夜に、穂香は悲鳴をあげ、その場にうずくまった。
今度こそ魂狩りが実行される。
ガチッ。
魅夜の鋭い爪が穂香の前で止まった。その爪を止めているのは、魅夜から授かった祐喜の爪だった。
「祐喜、そこをどけ。これがわたしたちにとって、最後のチャンスだと思え」
「ごめん、魅夜。おれにはできない」
「どけーーーーー」
魅夜の爪が祐喜の爪をふり払った。魅夜はふたたび穂香の頭上高く飛んでいき、ふたたびまっすぐ降下した。
祐喜も魅夜に飛びかかった。しかし魅夜に弾きとばされる。勢いあまった魅夜の爪に、祐喜の左肩は切りつけられた。シャツの袖が真っ赤に血でにじむ。それでも祐喜は一歩もひかなかった。
「穂香は駄目だ。悪いが次回、もう一度チャンスをくれ。お願いだ」
「ならぬ。これが最後だ。祐喜よ、うぬは誓いを破り、わたしの邪魔をするのだな」
「そうだ。おれは魅夜の邪魔をすることになる。ごめん」
そのときだった。
「ふむ。ヒトの匂いだ」
迫力に満ちた低音の声だった。聞きおぼえがあった。それどころかついさきほど聞いたばかりの声だ。柿田はそれを周蔵と名づけていた。
鬼の姿はすぐに見つかった。その脇に柿田もいた。
「うぉーーー」
柿田が叫ぶ。声も顔つきも狂気そのものだった。そのようすはバーサーカー症候群にかかった人たちに近いところがある。
柿田の視線が穂香を捕らえた。穂香に向かって突進する。
鬼も大きなコブシを持ちあげ、穂香にふりおろしてきた。
「穂香、危ねえ!」
祐喜は無我夢中でジャンプし、そのまま穂香の体をつきとばした。
鬼は空振りし、コブシが地面にめり込む。祐喜は間一髪で穂香を救ったが、鬼のすさまじい破壊力に息を呑んだ。
柿田が駆けてくる。穂香を狙っているのだ。鬼が柿田の狩りを待っている。
体ごと地面に落ちた祐喜は、倒れた体勢から柿田の足元にタックルした。狂乱状態の柿田は祐喜が見えていないようだ。祐喜に足首を抱えこまれると、いとも簡単に頭から地面に転倒した。
「ありがとう、祐喜」
穂香に返事する余裕などなかった。鬼のコブシがまたあがる。柿田も体を起こそうと膝を立てた。さらには魅夜もどこかで穂香を狙っているはず。三者が一気に襲ってこようとしているのだ。これでは勝てるわけがない。人間の柿田だけならまだしも、魅夜と鬼も相手だなんて絶対に勝てない。
「ビャク、頼むっ。助けてくれ!」
返事はなかった。もう駄目か。
しかし別の声が聞こえた。
「兄様、おりました。こちらです!」
祓い師妹の己真由の声だ。彼女の姿を見つけた。三十メートルほど離れたところに立っていた。あとから駆けつけた兄が妹の横に立った。祐喜にとっては屈辱的だが、その兄妹に頼るしかなかった。
「頼む、祓い師たち、穂香を守ってやってくれ」
真由が兄を見あげる。しかし恭介は無情にも首を横にふった。
「鬼とテンを相手に、僕たちは何もできない。残念だが」
なんだよ、それ。役立たずもいいところだ。彼らは何しにここへやってきたというのだ。祐喜は愕然とした。
真由が顔をしかめる。
「兄様、黒霊たる鬼とテンが互いに潰しあう、そんな奇跡に歓喜しようとしていたのに、無辜の人間が迷いこんでしまうとは、なかなかうまくいかないものですね」
立ちあがった祐喜は、穂香の悲鳴を背中に浴びた。
「ひゃっ」
身をひるがえすと、鬼の右手が穂香の胴囲を掴んでいた。
「穂香!」
巨大な手の中で穂香が苦しそうにもがいている。穂香が握りつぶされていく。早くなんとかしないと穂香が殺されてしまう。
「魅夜ぁーーーー」
祐喜が思わず叫んだのは、魅夜の名だった。
「頼む。五年と数ヶ月前、初めて会ったときのように、おれのわがままを聞いてくれ。穂香を助けてくれ!」
祐喜が必死に懇願するが、魅夜は耳を貸そうとしなかった。鬼に潰されていく穂香を、冷酷な眼差しで見守るだけだった。
穂香を掴むのは右手のみだったが、左手も加わろうとしていた。左手が穂香の顔にいく。
祐喜は爪をつき立てた。魅夜から授かった爪が、これまでになく長く伸びた。決死の覚悟で鬼に飛びこんだ。
「ぐふぉっ」
鬼が低いうなり声をあげた。血しぶきが白霧を赤く染める。しかしそれは祐喜の攻撃によるものではなかった。祐喜の爪はまだ鬼に達していないのだ。
鬼を襲ったのは他でもない。魅夜だった。鬼の背中を鋭い爪がえぐっている。
「兄様、あれは? 黒霊がヒトを庇ったというのですか」
冷静さを欠いた真由の声。
恭介は何も答えず、ただ目を見開いていた。真由が自答する。
「なるほどわかりました。獲物の奪いあいですよね。でなければ理解できません。きっとそうですわ」
鬼は巨体を反り、右手から穂香を放した。よろけながら地面に倒れた穂香を祐喜が抱きおこす。魅夜はいったん鬼から間合いをとりなおした。魅夜の横目がぐさりと祐喜を刺す。
「うぬは魂狩りの失敗を、何度くり返してきたことか。わたしはとんでもない者に、五年以上も憑依してしまったのだな。それでもわたしのため、尽くそうと努めてくれたのは真だ。だからうぬの望みを聞きいれる。これまでのうぬの忠義に報いてやる。だがもうこれで仕舞いとなる」
魅夜の顔には怒りも温かみもなかった。
鬼の背中はざっくりと割れていた。苦しそうに顔をゆがませている。しかし天に向かって咆哮すると、憤怒の形相と化し、魅夜を睨んだ。
大きなコブシが魅夜を襲う。それでも魅夜はひらりと身をかわし、鬼の顔面に鋭く長い爪をつき刺した。ダークグリーンの血飛沫が飛びちる。鬼はますます暴れくるった。
一方、理性を失った柿田に対峙するのは、穂香を庇おうとする祐喜だった。祐喜は魅夜から片手の爪を譲りうけている。ヒトに過ぎない柿田など、もはや祐喜の敵ではない。
祐喜の五本の長い爪は、柿田の手足を次々と貫いていった。先日のバーサーカーとは違い、柿田は負傷するごとに痛みを感じているようだ。傷を重ねるごとに動きは鈍くなっていった。しかしさすがというべきか、鬼が憑いただけのことはある。ボロボロになりながらも、まだ地面には倒れていなかった。
霧が晴れつつあった。霊道門が消えはじめたのだろう。祐喜は一方的な攻撃を柿田に喰らわせていた。そして祐喜の爪が腹に決まると、今度こそ柿田は倒れたのだった。
祐喜の目が魅夜を探す。早く魅夜に加勢しなくてはならない。魅夜は祐喜のために片手分の爪を失っているのだ。
魅夜がいた。ヒトの姿のままだ。負傷したようすはない。それどころか鬼の巨躯が転がっていた。魅夜が鬼を倒していたのだ。
一面の霧はすっかり晴れあがった。霊道門は完全に消えていた。
高みの見物をしていた恭介は、この勝負の結果に顔を硬直させていた。
真由がじっと兄を見あげる。
「テンが鬼に勝ってしまいました。それも圧勝のようです」
応答はない。ふたたび声をかける。
「兄様?」
「わ、わかっている。例の白霊の力も借りず、単独でテンが鬼に勝ってしまうとは、予想もしてなかったことだ……」
祐喜は柿田の血が染みついた爪を、祓い師の己兄妹へ向けた。
「おい、てめえら。魅夜と鬼が戦うのを待ってたみたいだな。で、両者が傷ついたところを襲うつもりだったんだろ? だがこの勝負、魅夜の圧勝だ。見てみろ、ほとんど無傷だ。鬼と闘った直後だって、前回同様、祓い師二人に負けやしねえぜ」
恭介と真由は唇を噛みしめると、逃げるように立ちさっていった。
「祐喜……」
穂香が呼ぶと、祐喜は駆けよった。二人の視線が絡みあう。互い無事を喜んだ。
いまごろになってビャクが姿を現した。祐喜が睨めつける。
「大変なときに、どうしていつも助けにきてくれないんだ」
「だって今回も結局はなんとかなったでしょ?」
「そういう問題じゃねえ」
ビャクの視線が、倒れている柿田と鬼にいく。
「ねえ、回復処置しとく?」
「話を変えるな! だが、まあ、そうだな。柿田とあの鬼も頼む」
穂香は祐喜に手をひかれ、立ちあがった。祐喜が後ろの魅夜を顧みる。
「感謝するぜ。お前はおれのわがままを聞き、穂香の魂狩りを見逃してくれた。さらには鬼に襲われる穂香を助けてくれた」
魅夜は返事もなく姿を消した。結局、祐喜の魂狩りはまたもや失敗となった。魅夜が機嫌を損ねたとしても当然のことだ。
ビャクの口が祐喜の耳もとに近づいた。
「穂香を連れて先に帰ってていいよ。処置が終わったら、祐喜を追いかけるから」
「悪いな。それじゃ先にいってるぞ」
祐喜が穂香に並ぶ。
「家まで送っていく」
「ありがとう」
穂香とともに神代町へ向かった。二人が並んで歩くのはおよそ二年ぶりだった。中二への進級と同時に転校してしまった穂香と、いまこうして一緒に歩いていることが、まるで嘘のように感じられた。
「魅夜さんは強かったね。大きな鬼を倒しちゃうんだもん」
「ああ。あいつはすげぇー奴だ」
「それからビャクちゃんって、怪我した人を治すことができたんだ。知らなかったな」
「あいつもすさまじい霊力を持っている。穂香はビャクの回復処置能力のこと、知らなかったんだっけ?」
穂香は小さくうなずき、遠い目を空に向けた。
「うん。ビャクちゃんと会ってから、たった数ヶ月で転校しちゃったからね。だからあんまり知らないの。祐喜にまたかわいい憑き霊さんが増えて、あのときは正直羨ましくて堪らなかった」
かわいい憑き霊さんという穂香の言葉が、祐喜の頭の中で何度もくり返された。確かにかわいいといえば、かわいいのかもしれない。だがあの天真爛漫さにはいつもふり回されっぱなしだ。魅夜の方がよっぽど扱いやすく思える。しかしそれはただ、つき合いが長いためだけかもしれない。
道でヒトとすれ違った。穂香は泥のついた自分の服を気にしているようだ。泥染みは手で隠せるほど小さくない。
「悪かったな。おれが突きとばしたときの汚れだろ」
「ううん、祐喜はわたしの命を救ってくれたんだから。とても感謝してるんだよ」
ところで穂香が黒霊宿しでないと、今回のことで証明された。だとすると白霊が憑依しているのか? このことはクラスメイトには話せない。
ビャクの声が聞こえた。
「戻ったよ」
「おう、回復処置終わったか。お疲れさん。思ったより早かったな」
ビャクが祐喜と穂香を交互に見る。いたずらそうな目をして笑った。
「お邪魔?」
「ばーか。そんなんじゃねえ」
穂香の足が止まった。祐喜が心配する。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れただけ」
長く歩いてきたためだろう。しかし休ませてあげられるような場所はない。ここから見えるのは川と橋と林と田畑のみ。とうとうしゃがみこんでしまった。本当に疲れただけなのか?
「またこの感覚……」
穂香が呟いた。
体が震えている。息もなんだか荒い。
「しっかりしろっ」
祐喜が穂香の体を揺する。
ひょっこりと穂香が立ちあがった。ついさっきまで疲労感を漂わせていた穂香とはまるで別人のようだった。
「穂香?」
もはや苦しそうな顔ではなくなった。ただ無表情にじっと祐喜を見つめている。
突然、祐喜の体に電気が走った。本当に電気なのかどうかは不明だが、ビリビリと体がしびれてきたのだ。
「なんだ、これは……」
意識が朦朧とする。
「……魅夜」
祐喜の口からでてきたのは魅夜の名だった。
「祐喜!」
返事もなしに消えていった魅夜だったが、いまは返事があった。テンの姿で現れた。
「祐喜、しっかり意識を持て」
魅夜が尻尾で祐喜の頬を叩く。
「どうした、その目は。祐喜っ」
魅夜が何かをいっている?
魅夜の言葉はほとんど聞きとれなかった。
魅夜が穂香に牙を剥き、飛びかかってゆく――。
朦朧とした意識の中、そんな光景が祐喜の目に映しだされた。ただそれは夢かどうかもわからない。
「……や……めろ……。穂香に……手を……だす……な」
また少し経って、上からのぞきこむ魅夜の顔が見えた。
「やはりうぬは、わたしが憑くほどの人間ではなかったな」
最後にそういった……ような気がする。