第十一話 キツネ憑きの生徒
穂香の話してくれたことは、葉月から聞いていたとおりだった。彼女は黒霊クラスにいるのに、霊に憑依されている自覚はないらしい。きのうは信じられなかったが、まさか本当だったとは。
保健室のベッドに横たわる穂香に再確認する。
「憑依されてる自覚がないってこと、学校側は知ってるのか」
「うん、もちろん承知してる。わたしがこの学校にくる数週間前、綿野先生が学校転入のスカウトにやってきて、そのとき初めて聞いたの。わたしには霊が憑いているのだと。でも綿野先生の話が信じられなくて、何度も否定したし、転入も断りつづけた。結局は転校してきちゃったんだけどね」
「そっか。おれのときもスカウトにきたのは綿野だったな」
祐喜はこの高校に転入する直前のことを思いだした――。
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綿野が祐喜を訪ねてきたのは、中二の終わり頃だった。
噂をどこで聞きつけたのだろうか。祐喜に憑依している『ヒト食い霊』を見たいといってきた。そう。綿野が見たがっていたのは、霊道門出現時にヒトの魂を欲する霊、すなわち魅夜だったのだ。しかしビャクの存在には気づいていなかった。
面会を受けいれた祐喜は、魅夜に姿を現すように頼んだ。綿野はテンの霊を見て大喜びだった。さっそく浅城高校入学の勧誘が始まった。
浅城高校といえば県内屈指の名門校だ。そのうえ好条件を提示してきた。学費やその他の教材費、家賃補助などの支援。両親が飛びつきたくなったのも当然だった。
しかし魅夜は綿野を訝しんでいた。話が盛りあがっていたときのことだ。
『解せぬな』
魅夜は怪訝そうな面持ちで、綿野の話に口をだしてきた。
『わたしはヒトを喰らう邪霊だぞ。うぬらはわたしを招きよせ、いったい何をするつもりだ』
綿野はニコリと笑った。
『あなたが災いをもたらしうる霊だということは知ってるよ。だけどわが校はねえ、善なる霊だろうが邪なる霊だろうが、特に差別も区別もしてないんだ』
魅夜は妖しく目を細めた。
『ならば、うぬの目の前でわたしがヒトを襲ったとしよう。うぬは何もせずじっと見ていられるのか』
綿野は笑顔もそのまま、明るく穏やかな口調で魅夜に答えた。
『ある種の特別な邪霊がヒトを襲うのは、それが使命だから仕方がないことだ。それでもすぐ目の前でそうような行為があったとしたら、さすがに私はあなたを止めようとするだろう。しかしその場で止める以上のことはしないつもりだけどね』
魅夜は納得したのか、黙ってその場から姿を消した。
推薦入学に対して両親は大賛成。魅夜も反対せず。しかし祐喜は拒否という回答を呈した。名門すぎて自分には不釣合だと思ったからだ。
そして地道に勉強し、一般入試を受け、学区外の公立高校へ入学した。すばらしい高校生活が始まると予感していた。しかしその高校でも入学早々、憑依霊の噂が立ってしまった。学区外の高校だったのに、同じ中学の卒業生がいたのだ。結局、孤独であることは中学時代と何も変わらなかった。
幸いなことに、綿野からの勧誘は高校入学後も続いていた。そして転校を決意したのだった。
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祐喜は保健室の窓のカーテンを開けた。薄暗い室内に陽光が射しこむ。窓から見える校庭にヒトはいない。正門から登校する生徒たちは、裏庭の方に回っていくからだ。
騒がしいサイレン音が聞こえてきた。正門からパトカーと救急車が入ってきた。裏庭へと向かっていく。魅夜にめった刺しにされたあの生徒は大丈夫だろうか。
「とにかく穂香に怪我がなくてよかった」
「祐喜が助けにきてくれたおかげだね。ありがとう」
穂香の双眸が祐喜を見つめている。祐喜は照れくさくなった。
「そういえばさあ。この前、おれと交差点で会ったときのことだけど、あれは学校の下見だったのか?」
「うん、そんなところかな。いろいろ不安があったから……」
穂香がいたずらっぽい表情で微笑む。
「……本当はね、白霊クラスに入る予定だったんだ」
祐喜は思いがけない話に耳を疑った。
「白霊クラス? さっき憑依の自覚がないっていってたけど、実際には白霊に憑かれていたってことか?」
もしこの話が黒霊クラスの生徒たちに知れわたったら、間違いなく大騒ぎになるだろう。
穂香は首を左右にふった。
「ううん。わたしに憑依しているのが白霊なのか黒霊なのか、先生たちにも判断つかなかったみたい。だから白霊クラスは『とりあえず』っていう感じだったの」
「それじゃ、どうして黒霊クラスにくることになったんだ?」
穂香はもったいぶるように黙って微笑み、きょとんとする祐喜を指差した。
「祐喜に会ったのは、学校の下見にきたときっていったでしょ。でね、あのとき綿野先生に話したの。『祐喜と同じクラスだったら、転校してもいいかな』って。そしたら黒霊クラスになったんだ」
祐喜はすうっと赤面していった顔を、隠すように穂香からそむけた。
しかしある不安が脳裏を横ぎった。慌てて顔を穂香に戻した。
「ビャクのこと、もう誰かに話したか? おれが憑依霊を二重に宿していることは、この学校の誰にも話していないんだ。だからおれは黒霊宿しとして、黒霊クラスに所属していられる」
「大丈夫だよ。祐喜の憑依霊について、この学校にきてから話題にあがったことはまだないから」
祐喜は胸をなでおろした。
そろそろ朝のホームルームが始まる時間だ。穂香は心配する祐喜を教室へいかせた。祐喜は念のため、ビャクをそこに残した。
教室へ向かう途中でチャイムが鳴った。遅刻だ。しかし穂香を保健室に連れていったという大義名分がある。
チャイムが鳴りおえたところで、魅夜が話しかけてきた。姿は見せていない。
「一つ尋ねる。さきほどのことだが、うぬもわたしが怖いか」
それは穂香が魅夜を怖がっているという話の続きのようだ。少しの間考えた。廊下の窓から空を眺める。
「穂香はお前に怯えている。そりゃ怖いだろう。魅夜に本気で襲われたら、誰だって瞬殺される。だから恐ろしい存在じゃないなんていったら、嘘になるかもしれない」
「ならば、うぬも怖いのだな?」
魅夜は上半身のみを現した。胸のあたりから下は霞んでいる。妖艶な黒瞳には祐喜が映っていた。
祐喜は首を横にふった。
「それもちょっと違うかな」
「違う? 煮えきらないいい方だな」
「昔、お前に命を助けられた。しかもおれだけじゃなく……。だからおれはお前と霊宿しの誓いを交わしたんだ。魅夜が欲するのなら、おれの命なんかくれてやるさ。お前のためなら何も怖くない」
「古い話だな」
今度は逆に祐喜が尋ねた。
「魅夜はおれの命を奪おうと思ったことはあるか?」
魅夜の長く鋭い爪が、祐喜の喉に触れた。
「不甲斐ないうぬを見ているときは常にそうだ」
魅夜は無愛想な微笑みを残して、姿を消した。
祐喜が教室前に到着。戸を開けると朝のホームルームがちょうど終わったところだった。穂香を保健室に連れていったことを話すと、遅刻扱いは免れた。
そして二時間目の授業のとき、学年主任の綿野からこのクラスの生徒に話があった。今朝の事件についてのことだ。病院へ搬送された生徒は黒霊クラスが二人、白霊クラスが五人、進学クラスが四人とのことだった。ちなみに黒霊クラスの生徒二人というのは二年生と三年生であり、このクラスでは穂香を除けば誰も関わっていない。
穂香が教室にやってきたのは三時間目からだ。もうすっかり元気になったようすだ。クラスの女子たちが穂香に声をかける。男子たちも彼女たちに続いた。三時間目の授業は耶馬の霊学だった。耶馬は穂香の顔を見ると、嬉しそうにうなずいた。授業が始まった。
「えー、霊宿しは憑依霊が憑依霊となる前の記憶を、夢として見ることがあります。それは憑依霊の心の奥に深く刻みこまれた思いの一場面です。実をいいますと、私もそんな夢をよく見るのです」
ここで担任の目が葉月に止まった。こっくりこっくりと船を漕いでいる。隣の生徒が鉛筆で突くと、葉月は驚いたように跳ねおきた。笑いが教室内をどっと包む。
「まあ、私の事例のことはおいておきましょう。さて……」
睡魔に襲われているのは祐喜も同じだった。腿や膝をつねり、眠気を堪えた。
この日は前の席が空いているので、眠ったらすぐにバレる。ちなみにそこはキツネ霊を宿した八雲すばるの席だ。
八雲が休みでなかったことは、あとになって知った。朝のホームルームに遅れた祐喜は聞きそびれていたのだ。教えてくれたのは葉月だった。それは昼休みになってのことだ――。
「これは絶対に何かあるよ」
祐喜が食後の昼寝につこうとしたとき、葉月はいきなり顔を近づけ、そう切りだしてきたのだった。
「なんの話だ」
「八雲くん、自主退学だって」
「はあ? 冗談だろ。そんないきなり」
葉月の目は笑っていなかった。嘘ではないようだ。
「自主退学なんてありえない。だっておかしいから。今度の日曜日、加藤くんと釣りにいく約束してたらしいの。それなのに急に学校を辞めるなんて信じられる? 朝のホームルームのときだって、耶馬っちは最初にぼそっといっただけだった。自主退学なのに一言で終わったんだよ。いまスマホも応答がない。だからクラスのみんなは、学校に消されたんだって噂してる」
ここで葉月は溜息をはさんだ。
「あたしたちパンの耳も駄目だなあ。事前に情報を掴めなかった……」
それから数日間、変わったことは起こらなかった。
金曜日となった。
「ただいまー」
ツインテールの少女がカーテンを通りぬけ、家の中に入ってきた。
「ビャクか。ずいぶんと遅かったな」
実はこの日、ビャクは用事があるとのことで、祐喜を先に帰宅させていたのだ。
ビャクが顔に喜色を浮かべている。
「祐喜っ、祐喜っ! あたし少し字ぃー覚えたよ」
「じぃー? じぃーって文字のことか?」
珍獣の霊に字を覚えられるわけがない。怪しいスパム・メールのタイトルを眺めるような目をビャクに送った。
ビャクは誇らしげに大きく首肯する。
「うん、読み書きの字のことだよ」
「そんじゃ、例えば何が書けるんだ?」
ビャクは祐喜の鞄の中から、鉛筆とノートを引っぱりだした。鉛筆を持った手をゆっくりと丁寧に動かす。本当に字を書いているのだった。
「これが恋っていう字でしょ」
祐喜は感心した。平仮名や片仮名ではない。いきなり漢字だ。しかも結構しっかりした字を書いていた。相当練習したものと思われる。
「マジかよ。それ、漢字だぜ。難しい字をよく覚えられたな」
祐喜が褒めると、ビャクは得意顔になった。
「うん。もっと書けるよ。えっと、これが浪漫」
「おお、ビャク。ロマンを漢字で書くなんて、なかなかやるじゃん」
調子づいたビャクは、祐喜のノートに次々と漢字を書いていった。
「んで、これが純愛。あとね、相思相愛、岡惚れ、三角関係、火遊び、横恋慕、邪恋、盲愛、狂恋、痴情、接吻、猥褻」
ちょっと待った。字を覚えたつったって、全部そっち系の言葉じゃねぇーか。
「わかったから、もういい」
すごいといえばすごいのだが、なんだか拍子抜けした思いだった。
ビャクは目を輝かせ、無邪気に白い歯をこぼした。
「ね、書けたでしょ?」
「字が書けるって、お前なあ……。つうか、猥褻なんて漢字、おれだって書けないぞ」
「祐喜は書けないの? 教養がないね」
「うるせ」
ビャクからの嘲笑の眼差しは、屈辱的だった。それはともかく独学とはとても思えない。ヘンな字ばかりを教えたのは、いったいどんな奴だろう?
「猥褻なんて誰が教えたんだ。書けたとしても別に偉くねえぞ」
「穂香だよ」
へっ? 穂香? 教養あるんだな。おれもこのくらい書けた方がいいかもしれない。
ビャクが茶目っ気たっぷりに笑う。
「なーんて。教えてくれたのは、ともだちだよ」
「……」
ビャクの友達はとんでもない奴だということがわかった。
「いいか、ビャク。友達はなあ、選ばないと駄目だぞ」
話を聞いているのか、いないのか、ビャクは祐喜の袖を掴んでいる。
「おい、ひっぱるな」
ビャクは部屋の隅を指差した。そこには山積みされたマンガや小説があった。どれもビャクが友達から借りてきて、祐喜が読んでやったものだ。
「かなり溜まったな。いったい何十冊になるんだ?」
「あのね、ともだちがね、そろそろ返してほしいって」
「じゃあ返せばいいだろ」
あどけない顔でビャクが、祐喜を見つめている。黒く大きな瞳が、何かを訴えている。祐喜は嫌な予感がした。
「一人じゃ無理。重たいもん。あした返しにいこっ」
「気をつけていってこいよ」
わざとすっとぼけた。
「祐喜も一緒だからねっ」
「どうしておれもいかなきゃならんのだ!」
ビャクは大きな目をますます広げて顔を強ばらせた。迫力はまるでないが、おそらく威嚇のつもりだろう。むしろ頬をつけてスリスリしたい衝動にも駆られた。
「あたしのともだちが、今度祐喜も連れておいでっていってた」
そういわれたとしても誰がいくものか。荷物持ちなんてごめんだ。ビャクにそういいかかったところで思いとどまった。
これはチャンスではないか? その友達に会い、妙なことをビャクに教えないよう、ビシッといってやろうと思ったのだ。
「いいだろう。いってやる」
「わーい」