第八話 教科書
およそ一週間が過ぎた。
葉月は以前ほど積極的に話しかけてこなくなった。それでも学校で祐喜が最も話をする相手といえば、葉月であることに変わりはなかった。
一方、鬼宿しの柿田はこの一週間で二回も学校を休んだ。葉月から聞いていたとおり、学校を休みがちな生徒のようだ。転校二日目に教室で挨拶を交わしたあと、柿田と口を利く機会はなかった。
さて、生物の授業が始まる前のことだった。
祐喜は教師から頼まれて書庫に資料をとりにった。書庫の鍵を開けて中に入り、数ある棚を端から周っていった。探していた資料が見つかり、手を伸ばした。
そのとき――。
背中になんらかの気配を感じた。誰かが見ている。ヒトではなさそうだ。魅夜でもビャクでもない。
背筋が凍りついた。
「誰だ!」
大声で叫び、背後を顧みた。
そこに髪も肌も衣も真っ白な女が立っていた。白髪といっても見た目の年齢は二十代半ばくらい。白い肌や髪とは対照的に、瞳と眉毛、まつ毛は黒光りしていた。その目つきは刺すように鋭く、いっさいの温かみは感じられない。
白装束の教師や学校職員などいるはずがない。やはり怪異に間違いない。誰かの憑依霊だ。祐喜でさえ肌に感じられるほどの、おびただしい霊気が放たれている。怪しげな威圧感に身がすくみそうになる。
敵か味方か。とにかく霊気をコブシにまとった。
先日、白霊を葬ったことで綿野たちから厳しく説教されたが、そんなことを気にしている余裕はない。厳しい説教で済むのなら、それほどありがたいことはないだろう。何しろあの六体の白霊とは、まるでレベルが違うのだ。今回はまったく勝てる気がしない。霊気をまとったコブシなんて気休めにもならないくらいだ。
白い女の怪異を睨みつけた。虚勢だけが祐喜にできうる防御だった。
すると書庫の奥に、すうーっと黒い煙が現れた。煙はヒトの姿の魅夜を形作った。
助かったぜ、魅夜。
しかし加勢してくれるのかと思いきや、魅夜は身構えもせず書棚の上にちょこんと腰をかけるだけだった。しかも、また消えてしまった。
あんにゃろ! やっぱり魅夜の奴、手を貸さねえ気か。
こうなったら、やぶれかぶれだ。
祐喜は身を構え、コブシを握りしめた。
白い女が祐喜に妖しく微笑む。
「我は汝らと戦うために現れたのではない」
「じゃあ、なんだっ」
祐喜は構えを崩さない。
「頼みがあって参った」
「頼みだと? その前に正体をいえ。お前は何者だ!」
「よかろう」
白い女がゆっくりと姿を変えていく。
祐喜は驚愕し、目を見開いた。
「こ、これは……」
女は大蛇と化したのだ。しかもその大蛇には見覚えがある。葉月の憑依霊ではないか。白い大蛇はとぐろを巻き、舌を出し入れしている。
「名前は確かゴンっていってたか」
「いかにも。我が名はゴン」
ヒトに化けた姿を見るこの瞬間まで、名前の響きからてっきりオスだと思いこんでいた。それはそうと頼みとはなんだ? すぐにピンときた。
「わかったぜ。お前の頼みというのは、おれに葉月の仲間になれってことだろ?」
大蛇の頭が祐喜の眼前に迫った。巨大な口はヒトの体など丸呑みできるだろう。
「否、逆だ」
大蛇が答えた。
「逆だと? どういうことだ」
「この学校について嗅ぎまわらぬよう、アレを説得してはくれないか。汝ならばアレも耳を傾けるかもしれない」
「何故やめさせたいんだ」
「この学校の詮索は危険だ、危険すぎる。アレにそんな真似はさせたくない」
なるほど葉月を心配しているわけか。祐喜はしばらく答えに迷ったが、ゆっくりと口を開いた。
「学校が隠していることについて、おれは興味ない。それを詮索することが、どれだけヤバいことなのか、皆目見当もつかない。だけど葉月がやりたいんだったら、好きにさせてやったらどうだ? 葉月だってもう子供じゃない。どこまで踏みこんでいいのか、どこからが危険なのか、それくらいの知恵は身につけてるはずだ。おれは仲間に入るつもりも、邪魔するつもりもない。葉月を説得したいのなら、他を当たってくれ」
「ならば汝は加担も干渉もせぬと?」
「そういうことだ。だいたいおれは葉月の友達でもなんでもない」
大蛇は長い首を天井まで持ちあげ、ぐるりと周囲を確認した。
「ふむ。力ずくでいうことを聞かせてやりたいところだが、テンに見張られていては少々厄介か」
大蛇は姿を消してしまった。
魅夜が見張っていた? 気配はまったく感じられなかったが。
その日の授業はすべて終了した。
自転車で駐輪場から学校正門の脇までくると、ペダルから足を地面におろした。ふらりとどこかへ遊びにいったビャクを待つためだ。
放課後は正門でビャクを待つことが、ほぼ日課となりつつあった。
「祐喜ぃー、魅夜ぁー、待った?」
遠くから声が聞こえた。ようやくビャクが戻ってきた。
「遅いぞ! あしたからはもう絶対に待たねえからな」
祐喜のそのセリフは、ここ数日間のくり返しだった。
ツインテールの少女は機嫌よさそうに鼻歌を歌っている。愛くるしく無邪気な顔は、自分が怒られていることなど理解してないようだ。ところでそのビャクは両手に二冊の本を抱えていた。
「おい。その本、なんだ?」
「ともだちに借りたんだ。だから後で読んで。これ勉強にもなるって」
ビャクは二冊の本を自転車の前カゴに入れた。字を読めないこの憑依霊は、きっと祐喜に読ませようとしているのだ。『字が読めないのなら借りてくるな』といおうとしたが、その前に一つ確認したいことができた。
ビャクの『ともだち』は本を持っている。字が読めるから持っているわけだ。とすればビャクの友達は霊でないということになるのか? いいや、ヒトの死霊かもしれない。
「友達っていうのはヒトだな? どんな奴だ。生身なのか」
「うん、生きた人間のともだちだよ。でも心配しなくて大丈夫。祐喜にあたしが憑いてることは、学校にバレないようにするから。白霊が憑いていることを知られたら、クラスにいられなくなるもんね。最悪、退学でしょ。わかってるって」
そういわれても祐喜は不安でならなかった。
さてビャクが戻り、魅夜のいる気配もある。祐喜は自転車を漕ぎはじめた。前カゴの本がカタカタと音を鳴らして揺れている。
「邑塚くーん」
葉月の声だ。後ろから自転車で祐喜を追ってくる。一週間前の光景をそのまま再現しているようだ。
「おう、また一緒になったな」
「だね!」
葉月の自転車が祐喜に並ぶ。同時に葉月の視線は、祐喜の自転車の前カゴにいった。ビャクが借りてきた本に、さっそく気づいたようだ。
「なーに、それ。見せて」
葉月は右手でハンドルを持ったまま、左手を前カゴに伸ばしてきた。祐喜が拒否を示そうとしたときには、本はすでに葉月の手の中に収まっていた。
葉月は二冊をいったん自分の前カゴに入れた。そこから一冊ずつ手にとり、書店カバーのかかった本の中身を確認した。
「あー、これ知ってる! 一巻と二巻。へえ、二冊とも買ったんだあ」
「ち、知人からちょっと借りたんだ。勉強にもなるって」
祐喜はビャクの言葉をそのまま転用した。
「勉強に? うん、勉強になるよね」
「そ、そうだろ?」
「あたしはもう読んじゃったけど、邑塚くんも読むんだね。実は勉強家だったりする?」
「別に勉強家というほどじゃないが、ちょっと興味あってさ」
祐喜は必死に話を合わせようとした。いまさら知らない本だとはいえない。
「うん、是非ともおすすめしたいよ! これってコテコテの少女向け恋愛マンガだけど、ファンからは『恋する乙女の恋愛バイブル』なんていわれててさ。きっと男子が読んでも勉強になる。うん、女心を研究するにはもってこいだよ。これが邑塚くんの恋愛の教科書となるのかあ」
「え?」
顔から火を噴きだしそうになった。書店カバーで覆われていたため、少女向け恋愛マンガだとは思ってもみなかったのだ。
「でも邑塚くん、意外だったなあ」
「いや、違う……」
「もしかして邑塚くん、アツアツ恋愛中?」
「そんなわけねぇ」
蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。
――ビャク、あとで殺す!
「じゃ、好きな人はいるの?」
「いるかっ」
「それじゃ、これからできるわけね」
「知らねえよ。もうやめてくれ」
もう葉月の顔が見れなくなっていた。
「えっと、それじゃ、好きな……」
葉月の質問の途中だったが、祐喜は強引に別の話題をふろうとする。
「そーだ!」
「えっ、何。どうしたの、邑塚くん?」
はて、なんの話にしようか。
大急ぎで別の話題を探す。わりとすぐに見つかった。学校の書庫で葉月の憑依霊が現れたことを思いだしたのだ。
「きょう生物の時間の前、葉月のゴンに会ったぞ。ヒトに化けてたんだ」
葉月の顔がハッとなった。
「えっ。するとゴンに会ってから、恋愛の勉強を始めるようになったわけ? 邑塚くんの好きな人……。そういうことだったなんて。ゴンは超美人だしなあ」
「誰もそんなこたぁ、いってねえーーーー」
ありったけの声で否定した。ぜぇーぜぇーと息を切らす。
「冗談だよ」
「冗談は本気でやめろ」
「珍しいなあ。ゴンがヒトの姿を見せるなんて。実はね、あたしがこの高校に入学してから、ゴンのようすが顕著におかしくなったんだ。あの子ったら学校ではしょっちゅう、どっかへいっちゃってるし。何してるのかを聞いても、校内散歩としか答えてくれないんだ。もともと口数の多いコじゃなかったんだけどさ」
祐喜の前にゴンが現れた理由については、葉月に知らせないでおいた。
葉月はクラスで話しかけてくる唯一の存在だ。実際のところ、気さくすぎる彼女には苦手意識もあるが、決して嫌っているわけでない。それどころかとても感謝している。
前方の信号が赤に変わった。
祐喜と葉月は自転車を停止し、青になるのを待った。
道路右側から横断歩道を渡ってくる若い女がいた。道を渡りきると、あたりをキョロキョロしはじめた。幼そうな顔立ちに、破裂しそうなまでに腫れあがったバスト。
「あれは……」
すこぶる発達した身体はともかく、顔については見おぼえがあった。まさかこんなところで邂逅することになるとは。
「穂香っ! 穂香だろ?」
彼女は祐喜の顔を確認した。
「えっ? 祐喜……」
「やっぱり穂香だ」
「祐喜がどうしてここに?」
「おれ、いまはこっちに住んでるんだ」
穂香の視線が横にスライドした。祐喜と一緒にいる葉月を見咎めたようだ。葉月に会釈する。慌てて葉月も会釈を返した。二人の視線は祐喜に向いた。
「おお、そうだ。紹介しなくちゃな」
祐喜はまず、葉月に穂香を紹介する。
「これ、おれの幼馴染で、名前は穂香っていうんだ。中一のときまで家が近所でさ、学校もずっと同じだった。中二になると同時に穂香は県外に引っ越しちゃったんだけど、こんなところで再会するなんて思ってもみなかった」
穂香という人物は、物事への危機感に乏しいせいか、怪異をあまり怖がらず、ビャクをとても可愛がるほどだった。だからであろう。魅夜の憑依以降、近づく生徒のいなかった祐喜にも恐れることなく、また祐喜がどんなに壁を作ろうと見捨てずに接してくれた。その点においては、いまの葉月と似たところがあった。祐喜が本当の孤独に浸ったのは、穂香のいなくなった中二以降だ。
穂香はにっこりと微笑み、懐かしそうに祐喜の顔を見あげた。
「あたしもここで、祐喜と会えるなんて驚きだよ」
続いて葉月を穂香に紹介した。
「こっち、葉月だ。高校のクラスメイトだ。おれが転入してきたばっかのとき、葉月にはいろいろ面倒を見てもらったんだ」
葉月が穂香に笑顔を見せる。極端なほどの笑顔だった。
「邑つ……ゆ、祐喜にも、仲よさげな女の子がいたなんてね。そうかそうか」
穂香も笑顔を返した。
「学校では祐喜がお世話になってるようですね? 祐喜は無愛想で、口が悪くて、ガサツで、落ちつきがなくて、ぜんぜん気も利かないと思いますけど、祐喜をよろしくお願いします」
穂香は葉月に深々と頭をさげた。
「おい、穂香。それはいいすぎだろ?」
「だって昔はそうだったじゃない。いまは直ったの?」
「直ったも何も……。ひどくね?」
穂香は話を変えた。
「ところで浅城高校ってどこにあるか知ってる? そっちへ向かってるつもりだったんだけど、乗るバスを間違っちゃったみたいなの」
不安そうな穂香の顔を見て、祐喜は舌打ちした。
「しょうがねえ。後ろに乗れ」
「自転車の後ろ?」
「そこまで乗っけてってやる」
「ありがとう。祐喜がいてくれたおかげで助かった」
穂香は後ろの荷台に腰をかけた。
祐喜が片手をあげる。
「じゃあ、葉月。またあした」
葉月は呆気にとられたように、ただぽかんと口を開けた。
祐喜は自転車を漕ぎ、浅城高校へとひき返した。後ろの穂香に尋ねる。
「ところで穂香。浅城高校に何の用だ?」
「うん、ちょっと」
穂香は言葉を濁した。祐喜がちらっと後ろを向く。
「浅城高校って、ウチの学校だぜ」
「え? 浅城高校に通ってたの?」
穂香は目を丸くした。
「そうさ」
浅城高校といえば名門校だ。祐喜の学力を知っている彼女は、さぞかし驚愕したことだろう。
「それじゃ、決めちゃおうっかな」
「は?」
「ううん、なんでもない」
穂香を学校前でおろした。彼女は礼をいい、正門を抜けていった。校舎へ向かう背中を見送ったあと、祐喜はふたたび帰途についた。
家に到着。玄関に入るや、ビャクがヒトに化けて現れた。ずいぶんと上機嫌なようすだ。さっそくせがんできた。
「借りてきた本、早く読んで。早く、早く、早く」
「面倒くせえ。あしたな」
ただ面倒なだけでなく、恋愛系の少女マンガに興味はない。けれども駄々をこねるビャクには勝てなかった。結局二冊とも読まされてしまうのだった。時計を見ればもう午前二時を過ぎている。あしたは寝不足のまま授業を受けなくてはならないようだ。
読み終えた祐喜に、ビャクが笑顔で尋ねる。
「勉強になったでしょ?」
「どこがだ?」
「恋ってスゴいよね。愛って人類最強の武器でしょ」
「……ああ、はいはい」