別れの桜
私が気づいていることにも、気づいていない。滅茶苦茶ムカつく。全く。私達がどれくらい長い時間を一緒にいたと思ってんの。ずっと隣で見つめてきた。全部覚えてる。だからさ、私にも……
今日の写真部の部室は、かつて無い程の人口密度だった。いや、一人幽霊が混ざっているので、正確にはどう表現したものか分からないけれど。窓から見える桜が風に揺れて、数枚の花弁を机の上に届けた。それを彼女は、鬱陶しそうに手で払いのける。
「で、梨樹先輩、でしたか? どう言う要件でしょうか」
質問をするのは桐生先輩ではない。今日も彼女に会いにやってきた舞風先輩だ。少し苛だたしそうに腕を組みながら、桐生先輩の正面に座る女生徒に詰問する。
「ここ、なんか心霊写真? とか言うのを見てくれるって聞いて。てか、あんた部員じゃないだろ。なに偉そうにしてんだよ」
僕の斜め前に座るのは、肌を日焼けサロンで焼いた、茶髪の女生徒。制服を着崩していて、リボンもつけていない。カールした長い髪をいじりながら、鋭い目つきで舞風先輩を睨む。彼女は、自身を梨樹美鶴と名乗った。最高学年の三年生である。だからだろうか。とにかく態度が大きくて、今も椅子に踏ん反り返って座っている。
「私は写真部の部員じゃないですけど、キョンキョンの親友なんです。こんな態度で出てこられては、はっきり言って迷惑です」
舞風先輩も引かない。先ほどから二人はずっとこんな調子で火花散る鍔迫り合いをし続けている。すぐ側に座る僕としては、怖すぎて声も出せない。何とか助けて欲しくて三角先輩に視線を送るが、彼も気まずそうに首を振るだけで、力になってくれそうにない。となると、自然と桐生先輩に縋るしかない訳で、
「と、とにかく。その、問題の写真を見せて下さいませんか。ですよね、桐生先輩」
「まあ。あと、親友じゃないから」
下を向いて爪の甘皮を剥いでいた桐生先輩に話を振る。不機嫌そうなその声の理由は、やっぱり舞風先輩だろう。少なくとも、梨樹先輩の事はほとんど気にしていないようだ。
「ほら、これだよ」
梨樹先輩も、舞風先輩と睨み合うのを一旦止めて、一枚の写真を投げるように机に置いた。そよ風が吹いて裏返ってしまったが、それを直そうとはしない。
「み、見てみますね」
それを僕が拾って、桐生先輩の前にスライドさせる。彼女もやっと興味を示してくれて、写真に目を向ける。
それは、この部屋の雰囲気とは正反対の、微笑ましい写真だった。大きな桜の樹の下で、梨樹先輩と、眼鏡をかけた背の高い男子生徒が手を繋いで写っている。男子生徒は凛々しい表情でカメラを凝視しているが、梨樹先輩は恥ずかしそうに横を向いていた。
「その、彼氏と撮った写真なんだけど……」
「えっ」
「は? なに? なんか文句ある?」
「い、いえ……」
凄く意外だった。思わず声を上げてしまって、梨樹先輩にキツイ口調とセットで睨まれる。恐怖で俯くことしか出来ない。それにしても、本当に意外だ。梨樹先輩はこんな感じで少し不良っぽい雰囲気なのに、彼氏さんは凄く真面目そうで、二人は対極の存在に見える。こんな事を言うと失礼かもしれないが、お似合いのカップルとはとても言えない。
「ちっ。分かってんだよ。釣り合ってないことくらい。そんな事より、ここ見ろ」
舌打ちした梨樹先輩が、その赤い爪で写真の中央を叩く。それは二人が手を繋いでいる、正しくその手の部分。そこには、真っ黒な、まるでブラックホールのような球体が写っていた。二人を引き裂くそれは、見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
「これ、別れの桜ね」
僕の背中ごしに写真を見ていた舞風先輩が呟く。被写体の彼らの背後に写っている桜の事を言っているのだろう。
「別れの桜、ですか?」
「そう。そこで写真を撮ったカップルは、必ず別れるっていわくつきの所よ。よくもまあこんな所で写真を撮ったものね。爆発しろ」
なんか最後に個人的な恨み言も含まれていたが、よく分かった。そう言えば、クラスの女子がそんな話をしていたのを聞いた事がある。カップルを別れさせる呪いの桜。確かこの学校の体育館横にあったはずだ。
「私は、その……嫌だって言ったんだ。けど、干臥樹く……彼氏が、そんなの噂だって。僕が証明してみせるって。それで、嫌々だけど写真を撮ったんだよ。そしたら、こんな写真が撮れてしまったって、申し訳なさそうに言うもんだからさ」
言いにくそうにゴニョゴニョ話す梨樹先輩は、照れているのと、あと、少し怖がっているみたいだ。言葉を紡ぐごとに顔が青くなっていく。喉も震えていて、この不吉な写真に怯えていた。そんな様子に僕と舞風先輩も黙りこむしかない。窓際の三角先輩も、残念そうに口をひき結んでいる。しかし、
「大丈夫」
桐生先輩が、一言そう言った。ぶっきら棒だが、確信に満ちた声で断言する。
「これ、心霊写真じゃない。だから安心して。そもそも、別れの桜なんてただの噂」
机の上の写真を手にとって、馬鹿にしたようにひらひら振る。右手で頬杖をついて、退屈そうに欠伸混じりで言う。
「ほ、本当か?」
「嘘ついても仕方ないでしょ」
桐生先輩の言葉に、梨樹先輩はハッとなって顔を上げる。その目は縋るように桐生先輩を見つめていた。ゴクリと唾を飲み込んで、もう一度念押しする。
「本当なんだな」
「だから言ってるでしょ」
今日の桐生先輩は、事件に関わった時の口数多い彼女にならない。終始退屈そうな姿勢を崩さず、窓の桜に目をやりながら話す。しかし、それをはっきりと力を込めて斬って捨てるように言うので、えもいわれぬ説得力がある。
「分かった。あんたがそう言うなら、信じる。手間とらせて悪かったな」
梨樹先輩も、少しだけ嬉しさをにじませる口調で、席を立った。最初この部屋にやって来た時と雰囲気が違う。言いたいことはまだあるだろうが、それでも口にすることなく帰って行った。ただ、持っていたくないと言う理由で、例の写真は置いていった。僕は、少し感心した気持ちで桐生先輩に話しかける。
「桐生先輩、優しいところもあるんですね。梨樹先輩の不安を拭ってあげるなんて」
しかし、桐生先輩は呆れたように眉を顰めた。
「はぁ? あんた、世の中の心霊写真の何割が本物だと思ってんの?」
「え?」
「キョンキョンが本物じゃないって言ったの。つまり、そう言うことよ。ねぇキョンキョン?」
「黙れ」
つまり、あの写真は本当に心霊写真ではない。カメラの不具合か、それともトリックか。しかし、梨樹先輩は、彼氏の干臥樹先輩が原像したと言っていた。トリックの線は外していいだろう。なんとも釈然としない形で、この件は終わった。
そう思っていた。
「あの写真は、心霊写真じゃないと美鶴さんに言ったそうだな」
翌日の放課後、一人の男子生徒が写真部にやってきた。それは、昨日梨樹先輩の写真に写っていた背の高い先輩、干臥樹先輩だ。
「言ったよ。事実そうだから」
「撤回してくれ。そして、もう一度美鶴さんにそれを伝えて欲しいんだ」
干臥樹先輩は、その手を机について、頭を深々と下げた。しかし、彼の言っていることはまるで意味が分からない。どうしてあの写真を心霊写真に仕立て上げようとするのか。
「あれ、あんたがわざわざ作ったんでしょ」
「……そうだ」
「ええ!?」
心霊写真を、作った? どうして、一体何の為に? 僕は彼の意図がまるで理解出来なくて、つい声に出してしまった。
「心霊写真を作った? あ、それに、あの桜の下で写真を撮ろうとしたのは干臥樹先輩でしたよね。どうしてそんな事を? 梨樹先輩、凄く不安そうにしてましたよ」
別れの桜と呼ばれる場所であえて写真を撮り、それに二人の別れを予兆するような加工を施した。それではまるで、干臥樹先輩が梨樹先輩と別れたがっているみたいだ。
「もう、見当はついただろう。僕は、美鶴さんと別れたいんだ」
「そ、そんな……」
干臥樹先輩は、はっきりとそう言った。その目に嘘や冗談の色はなく、本当に別れたいと思っているようだった。しかし、それではあまりに残酷だ。梨樹先輩は、二人の別れを示唆する写真をとても怖がっていた。そんな彼女に、何故こんな回りくどいやり方で別れを告げようとするのか。
「私は、あんたの事情と彼女の事情は、別物だと思うけど」
「……その通りだ。でも、僕にはそうは思えないんだ」
「事情、ですか?」
そこから干臥樹先輩がする話は、納得こそ出来ないものの、彼の辛い状況がよく分かる内容だった。
「両親が経営する会社が不渡りを出した。三人の弟と妹をきちんと学校に通わせるために、僕も働く。手始めに、私立などと言う学費のかかる場所にはいられない。辞めるつもりだ」
確かに、牙城高校の学費は公立に比べて五割り増しだ。進学校という未来への投資があってこそ通う価値がある。逆に言えば高校などは、すぐに働く事を視野に入れている人には必要のない過程だ。
「こんな不安定な僕は、彼女と付き合っていく資格などない。無駄な心配をかけたくもない。だから、わざと別れの桜で写真を撮って、細工までした。お願いだ。美鶴さんに、あれは心霊写真だと伝えて欲しい」
「私は嘘はつけな……」
「それは逃げですよ!」
椅子を激しく引いて立ち上がった。桐生先輩が何か言おうとしていたが、横から大声を出して遮ってしまった。彼女も綺麗な目をパチパチさせて僕を見ている。
「別れたいなら、別れる事情があるなら、それをきちんと梨樹先輩に話すべきだ。こんな、こんなやり方なんか間違ってる。向き合って下さい。あなたの家の事も、梨樹先輩の事も。それが出来ないなら、きっとあなたは何も出来ないです!」
どうしてこんなにも怒ったのか僕にも分からない。頭が急に沸騰してしまって、干臥樹先輩を見ているはずなのに、まるで自分に言い聞かせているように視界が朧げだ。言いたい事を言い切った後で、急に恥ずかしさを感じて、赤くなって席に座り直した。窓の桟に腰掛ける三角先輩が、小さく拍手していた。
「その、通りだ……」
干臥樹先輩は、眼鏡を外して自身の目を抑える。
「ってことで、これが写真部の見解。あとはあんたらで勝手にやって」
桐生先輩が、いつもの低い声でそう告げた。ただ、少しだけその声には明るさが含まれていたように感じた。
「分かった。手間を取らせてすまなかった」
梨樹先輩と同じ言い回しをして、干臥樹先輩は部室から出て行った。
朝の登校時。今日もたくさんの生徒達に囲まれながら、坂を登る。昨日の干臥樹先輩があれからどうしたのか、気になっていた。いや、分かってる。僕なんかが気にしたところで何の意味もない。でも、繋いでいた手を塗りつぶすようなあの写真に怯えていた梨樹先輩を思うと、考えずにはいられなかった。すると、
「よう。写真部の一年!」
「うわぅ!?」
背後から、いきなり肩を叩かれた。つんのめってこけそうになる。振り返ると、明るい笑顔の梨樹先輩が立っていた。
「あ、おは、おはようございます」
「はよぅ。昨日はありがとな」
「え?」
「干臥樹君が言ってた。あんたが背中を押してくれたって」
あぁ、そう言うことか。なら、干臥樹先輩は、きちんと梨樹先輩に話をしたのか。二人はどうなってしまったのだろう。
「知ってた」
「え、知ってた、とは?」
「干臥樹君が、悩んでたのも、辛そうにしてたのも。でも、怖くて何も言い出せなかったんだ」
僕の隣を歩く梨樹先輩は、ポツポツとこぼすように話を進める。俯いて、ポケットに手を入れて。でも、
「でも、もうやめた。私も、私なりに頑張ってみる。勉強して、良い大学入って、干臥樹君を、家族ごと支えられるくらいの女になる。だから、ありがとう。あんたらのおかげで、私も決心できた」
「そうですか」
梨樹先輩は、胸を張って、空を見上げるようにして歩みを進める。その横顔は本当に綺麗で、力の宿った目は輝いていた。
「そう言うことだから。じゃあな」
最後にもう一度だけ僕の背中を叩いて、彼女は坂道を駆けて行った。彼女の肩に少しめりこむ重そうなカバンの中には、きっとたくさんの参考書が詰まっているのだろう。思い出した。ここは県内三番目の進学校、牙城高校だ。不良がいるはずがない。
彼女のこれからを祝福するように、桜の花弁が風に流されて舞い上がった。