穴が開くほど
すぐに、恋に落ちてしまった。
想いは日に日に肥大化し、胸が燃えそうになるほどにまで成長していった。
だから、今日も貴方を手に取って見つめる。それこそ、穴が開くほど、飽きもせず。
でも、その時、
「えっ……?」
貴方がいなくなってしまった。
昼休み。一緒に弁当を食べないかと数人の男の子に誘われたけど、学食に行く予定だった僕はそれをやんわりと断った。彼らと同じクラスになって一週間程度。少しずつお互いの距離は縮まってきていて、もう友達と呼んでも良いんじゃないだろうか。
そんか心がくすぐられたような気持ちを胸に抱えながら、学食までの廊下を歩いていると、
「犬柴君!」
「え?」
背後から声をかけられた。振り向くと、僕の隣の席の女の子だった。その子は、焼けた肌に、少し色が落ちた短い黒髪が特徴の子だ。ただ、出会って日の浅い女の子は皆同じ顔に見える僕は、その子の名前が分からない。
「えっと……」
「あ、私、天嵐要。よろしくね!」
「うん、天嵐さん。よろしく。それで、どうかしたの?」
廊下の真ん中で立ち話するのは不味いので、わきに寄って彼女の話を聞く。春の柔らかな陽光が窓ガラスに反射する。
「その、犬柴君、写真部なんだよね」
「そうだよ。良く知ってるね」
仮入部期間も終わって、本格的に部活動が開始された。僕は結局写真部に残って、桐生先輩の横顔と、三角先輩の世話話に付き合う毎日を送っている。
「それでさ、頼みがあるんだ。写真部の先輩、桐生先輩を紹介してくれないかな」
「それは良いけど……。あ、もしかして、その、写真について相談かな」
「うん……そうなの」
天嵐さんは、苦しそうに顎を引いた。彼女もまた何か曰く付きの写真を手に入れてしまったのか。そんな表情の彼女には申し訳ないが、良くもまあこんな短期間に何件も相談があるものだと感心してしまった。これは、桐生先輩が凄いのか、それともこの学校はよく心霊写真が撮れてしまうのか。
「分かった。じゃあ、今日の放課後一緒に部室に行こうか。あ、でも天嵐さん、用事とかある?」
「あぁうん。今日は顧問の先生が用事あるみたいで、部活もお休みなんだ」
こうして、入学入部早々一週間で、三件目の依頼が写真部に舞い込んできた。
「失礼します」
「失礼、します」
放課後、天嵐さんと部室にやってきた。ただ生憎桐生先輩はまだ来てないようで、三角先輩が本を読んでいるだけだ。そして彼も、天嵐さんが入ってきたのを見て本を机に置いた。もしそのまま本を読み続けていれば、本が勝手にめくれていくのを天嵐さんに見せることになり、不必要に怖がらせてしまう。それは可哀想だから、本を読むのをやめたのだ。三角先輩は、そう言う気遣いが出来る人なのだ。
「先輩、まだ来てないね。すぐ来ると思うから、そこに座ってて」
「うん。ありがとう」
天嵐さんに椅子を勧める。僕も彼女の正面に座った。ただ、天嵐さんが座ったのが、いつも桐生先輩が座っている場所で、どうしたものかと悩んでしまう。もちろん桐生先輩がそんな小さな事を気にする人ではないと思うが、もしそうなら依頼の前に雰囲気が悪くなってしまう。
そんな事を考えていると、写真部の扉がゆっくり開かれた。
「ん」
「あ」
今日も制服の上に体操着を羽織った桐生先輩が、猫背で入ってきた。一瞬だけ天嵐さんに目をやって、後ろ手で扉を閉めながら、僕の隣に座る。良かった。席うんぬんは気にしていないみたいだ。だが、その後彼女はすぐにカバンから出した本を読み始めてしまった。僕にも、天嵐さんにもまるで興味を示さない。
「あ、あの!」
ここで天嵐さんが声を発した。
「ここに来れば、おかしな写真について相談に乗ってもらえるって聞きまして、犬柴君頼んでに連れてきてもらいました。その、相談に、乗って下さいませんか?」
「見せて」
「え?」
桐生先輩は、本に目を落としたまま、感情のこもっていない声で呟く。
「写真、見せて」
天嵐さんが見せてくれたのは、スマフォの写真だった。四人の競泳水着姿の女の子が、楽しそうにピースをしながらカメラに笑顔を向けている。
「私、水泳部なんです」
なるほど、よく焼けた肌はそう言う事か。写真に写っている他の女の子達も、健康的に日焼けした肌を晒している。だが、それだけだ。秋茜君の時の写真みたいに、僕が異常を見つけられないとかではなく、本当に何の問題もない写真だ。強いて言うならば、プールの側でスマフォのような電子機器を扱って良いのかと言う点くらいだ。
「特におかしな所はないようだけど……」
「いえ、おかしいんです」
しかし、天嵐さんは引きつった顔で言う。その声は少し怯えていた。
「この写真には、写っていたはずの人が消えているんです」
「え?」
天嵐さんが言うには、四人の女の子達の背後、少し不自然に空いたスペースに、本当は顧問の先生が座っていたのだと言う。確かに、この写真の構図的には、そこに誰かいた方がしっくりくる。
「ふーん」
「どう、でしょうか」
桐生先輩は、つまらなそうに頬杖をついたまま、写真を横目でチラと見るだけで、基本的には手元の本に目を向けている。
「これ、最初は写ってたんじゃない?」
だが、ここで桐生先輩は気になることを言った。どこか確信めいたその言葉に、天嵐さんはびくりと反応する。
「は、はい! 初めはちゃんと紫先生が写っていて、それが一昨日突然消えてしまったんです。もう、訳が分からなくて、怖くて……」
辛そうに胸に手を当てる天嵐さんは、その目に涙を溜めている。そりゃ、写っていたはずの人がいきなり消えてしまったら、混乱してしまうのも当然だ。
「分かった。紫のとこ行こうか」
すると桐生先輩は、本を閉じて机に置き、椅子から立ち上がった。軽く伸びをしながら、あっけらかんとした軽い口調で言う。
「え? で、ですが、こんな不気味な写真、紫先生に見せたくない、です……」
「大丈夫。紫に取っては、不気味じゃないから」
天嵐さんの細やかな抗議を気にすることもなく、桐生先輩はさっさと部室を出て行ってしまった。僕らがついてくるか確認することさえしない。仕方なく、僕と天嵐さんは無言で顔を見合わせて、二人同時に席を立った。
紫先生は、二十代の若い男の先生だ。丁寧な授業ときさくな性格で、男女問わず生徒から人気がある。顔形もなかなか整っていて、彼に憧れる女子生徒も少なくない。部活動にも熱心で、牙城高校の水泳部は、進学校ながらそこそこの強豪らしい。これは全て紫先生に会いに行く道すがら、天嵐さんが嬉しそうに教えてくれたことだ。
先生は職員室にはいなかったので、三人で今度は水泳部の部室に向かう。体育館裏にあるプールのすぐ傍に建つ、古びたプレハブの建物がそうだ。最初に部員の天嵐さんが扉をノックする。
「失礼します。天嵐です。紫先生いらっしゃいますか?」
「おーいるぞ。何だ天嵐。まあ入ってこい」
優しそうな声がしたので、三人で部室に入る。中では紫先生が僕らに背を向けて、何か熱心に書類に目を通していた。
「どうした天嵐。何か用事か?」
「あの……」
「見て欲しい写真があるんだけど」
天嵐さんの言葉を上から被せるように話し出した桐生先輩が、紫先生の傍に立つ。先生に対してかなり不遜な態度だが、紫先生は気にした様子はない。
「ん、何だ桐生か。写真って?」
「あの、これなんですが……」
天嵐さんが、おずおずといった感じで、自身のスマフォを差し出す。紫先生が身を乗り出してそれを確認する。
「これ、この前撮った写真なんですけど、その、紫先生が写ってなくて……」
言いにくそうに天嵐さんが小声で話す。しかし、ここからの紫先生の行動は、かなり予想外のものだった。
「あちゃ、またやったか」
「え?」
紫先生は、バツが悪そうに右手で頭をかく。
「いや、昔から、先生って偶にこうして写真に写らないことがあったんだよ。最初は写ってたけど消えたりとかな」
「そ、そうなんですか?」
そんな話聞いたことがないので、思わず僕も口に出してしまう。紫先生とはほぼ初対面なので、少し気恥ずかしい。
「ああ。近所の女の子と撮った写真とか、幼馴染との写真とか。中学の時の卒業写真もそうだったな」
紫先生が言うには、彼が写真から消えてしまうことは稀にあることなんだそうだ。しかし、ここ最近そう言ったことはなかったので、油断していた、と言うよりすっかり忘れていたようだ。
「天嵐、ごめんな。気味悪いだろ。でも、昔近くの坊さんに厄祓いしてもらった時は、悪いものじゃないからって言ってたから、あんまり気にしないでくれ」
「は、はい……」
写真からよく消える。最初は写っていたのに、後になって消えてしまうと言うのは、かなり不思議な話だ。だが、当事者の紫先生があまり問題にしていないようなので、僕達から言えることは多くない。
「さて、お前ら。下校時間も近いぞ。暗くなる前に帰りなさい。天嵐も桐生も、女の子なんだからな」
「はい……!」
紫先生が、その逞しい手で、天嵐さんの頭を撫でた。彼女はそれに幸せそうに頬を染めて、元気よく返事をした。僕は、写真から消えてしまうなんて、かなり酷い話だと思っていたから、こんな形で呆気なく終わってしまって、幾分肩透かしな気分だった。それでも、紫先生も天嵐さんも、この事についてはもう気にしていないようなので、これはこれで良いのだろう。
水泳部の部室からの帰り道、三人ともそのまま下校するつもりで廊下を歩いていた。前を行く天嵐さんは、桐生先輩に何度も頭を下げてお礼を言った。僕にも感謝してくれたが、今回も僕は何もしていない。桐生先輩が一人で解決してくれた。
「紫が写真から消える理由、教えてあげよっか」
すると、靴箱の近くで、桐生先輩が突然僕らに話しかけてきた。
「え?」
「紫が写真から消えるのは、見られてるからだよ」
「ど、どう言うことですか?」
桐生先輩の言っている意味がわからない。見られてるから、消える? そんな馬鹿なことがあるのか。写真なんて、後で見るために撮るような物だ。それが見られてるから消えるなんて、そんな理屈なら写真には何も残らない。
「見られてるから。それも普通じゃない。何度も何度も、それこそ穴が開くくらい。ずっと見つめられてるから、写真から消えるの」
桐生先輩は、いつもの無口な彼女ではなく、写真に関わると饒舌になる彼女になっていた。
「そ、それって……」
「天嵐だっけ? あんたがそうするのは自由だけど、先に言っといてあげる。紫、あいつ来月結婚するから」
「えっ……!?」
その時の天嵐さんは、とても複雑な顔をしていた。驚きと混乱、そして絶望。分かりやすいくらいに表情に影を落として、目を大きく見開いている。
「近所の女の子も、幼馴染とも。彼女達が穴が開くほど紫を見つめていたから、あいつは写真から消えた。卒業写真も、多分誰か女の子が同じことしてんだろうね」
「う、嘘です。私達、水泳部はそんな事知らない。聞いてない」
「そりゃそうだよ。私だって今日聞いたから」
ここで僕にある考えが浮かんだ。
「あの、桐生先輩、もしかして、桐生先輩のクラスの担任って……」
桐生先輩が話し掛けた時、紫先生はえらく親しげだった。桐生先輩はその見た目からきっと学内でも有名人だろうけど、あれはそう言う感じではなかった。
「紫、私の担任。今日のホームルームで、結婚の話されたの。私が遅れたのはそのせい」
「そんな……そんなのって……」
とうとう、天嵐さんは廊下に膝をついてしまった。両手で髪をかきむしり、右目から一筋、光る涙を流している。もう、僕にも分かる。彼女は、紫先生に恋をしていたのだ。だから、先生が写真から消えてしまうほど、何度も何度も、いつもいつも、あの写真を見つめていたのだ。
「じゃ、私はこれで」
桐生先輩はそれだけ言うと、僕らを放置して先に帰って行ってしまった。金髪が夕焼けに染まって美しく揺れる後ろ姿を、呆然とした気持ちで見送る。
「嘘……。そんな、そんな……」
天嵐さんは、まだ立ち上がれない。大粒の涙をポロポロこぼしながら、口を抑えて嗚咽を漏らしている。
「あの、天嵐さん……」
「……なに」
その声は低く、恨みのようなものがこもっていて、明るく元気だった彼女の面影はない。
「元気、出して。大丈夫だよ」
「何がっ!! 私の事なんか知らないくせにっ!! 先生を好きになるなんて、馬鹿な女だと思ってるんでしょ! もうどっか行ってよ……」
僕は、こんな時に何を言ってあげれば良いかなんて分からない。女の子が泣いてる姿を見ることすら初めてだ。でも、それでも伝えたいことがあった。
「大丈夫、だよ。天嵐さん、凄く紫先生の事好きだったんでしょ? それこそ、穴が開いちゃうくらい真剣だったんでしょ? だったらさ、また誰かを好きになれるよ。今は悲しいかもしれないけど、いつかきっと、同じくらい好きな人が現れるよ」
僕の言葉なんて、安っぽくてしょうもなくて、何の力にもならないだろう。それでも、そう言うことしか出来なかった。
「帰ろう。帰って、ゆっくりしようよ」
「……」
それから天嵐さんは、僕に何も言うことなく、ふらふらした足取りで、校門から出て行ってしまった。その力の抜けた背中を、僕はずっと見つめていた。人を好きになったことがない僕は、彼女の気持ちは分からない。それでも、いつもの天嵐さんに戻って欲しくて、あんな事を言ってしまった。彼女が立ち直ってくれることを、僕はただ待つしか出来なかった。