写真部
三角先輩が話し始めて、もう二十分が経った。この学校の名所や、先生達の特徴など、取り留めの無い話ばかりだが、早く資料を届けて帰りたい僕としては、居心地が悪い。嬉しそうに話す先輩には申し訳ないが、話を横から押し止める。
「すみません、僕、早く資料室に行きたいんですけど……」
「ああ! これは失礼した。だが、もう少しだけ話を聞いてくれ」
僕の向かいに座る先輩は、ゆっくりと部屋を見回しながら、両手を広げる。
「ここは、僕ら写真部の部室なんだ。どうだい、君、写真部に入らないか?」
その言葉に正直、少し驚いてしまった。この何もない部屋からして、空き教室かと思っていたからだ。それがまさか部室だったとは。しかし、カメラもそれらしい機材もない。部屋の隅にある本棚も、普通の文庫本が並んでいるだけで、写真部を連想させる物は何一つとしてこの部屋には無かった。
「いや、僕はちょっと……」
「正式な新入部員勧誘は明日からなんだけどね。どうだい? 君は才能あるみたいだし、是非入って欲しいな」
この人は何を言っているのだろうか。写真部の才能? いや、もちろん写真を撮るのにも才能が必要だと言うことくらいは分かる。けど、それをこんな短時間で、それこそ一目見ただけで分かるはずがない。随分と分かりやすいリップサービスだ。例え頼まれ事の多い僕と言えども、流石にこの頼みは聞けない。
「すみません、興味が無いんで……」
「まぁ待ちたまえ! この部にはね、財産があるんだよ!」
資料を抱えようとする僕を、まだ先輩は引き止める。その手が後ろの本棚を指差した。そこには、数冊の青いクリアファイルが並んでいる。
「この部の先輩方が残してくれた財産、それはつまり、テスト対策だ!」
「テスト、対策?」
聞き逃せない単語が聞こえてきて、足を止める。
「そう! この牙城高校は、定期テストがとても難しい。そして赤点を取れば容赦なく追試と補習が待っている。貴重な青春の高校生活だ。ただひたすらに勉強だけをして過ごしたくはないだろう?」
確かに、それは、僕が最も危惧していたことだ。レベルの高い高校を選びすぎたとはずっと思っていた。この高校を勧めてくれた中学の担任教師は喜んでいたが、それは、僕のこれからを祝福してくれた訳では無い。
「先輩方が残してくれたテストの模範解答、各先生の出題傾向と対策、さらにはヤマの張り方まで、ありとあらゆる対策が、この棚のファイルに収められている」
な、なんて魅力的な言葉だ。
「もし入部してくれれば、そのファイルが漏れなく見放題の使い放題だ。さあ、どうだい? 写真部に入りたくなってこないか?」
三角先輩が、ニヤニヤといやらしく笑う。その手が招き猫のように僕を引きつける。ここの高校での勉強は悩みの種だった。皆についていけるか不安だし、何よりそこまで勉強が好きではない僕にとって、苦しい生活を少しでも軽減したい。
「それにさ、今部員が少なくてね。存続の危機なんだ。助けると思って入ってくれないか?」
「な、何人いるんですか?」
「幽霊部員ばっかでね。きちんとした部員は、部長だけなんだ」
なるほど。だからこの部屋はこんなに閑散としているのか。ちゃんとした活動が出来ていないのだろう。本当に、六つの机と本棚以外何も無い部屋なのだ。それに、今こうして長々と話をしていても、誰一人として部員が部屋に入ってこない。扉は僕が中途半端に開けたままで、桜の花弁が混じる風を通している。
「どうだろう。君の才能なら部長も歓迎してくれるよ」
「いや、才能って言われても……」
一体、この人は僕の何をそんなにも見込んでくれているのだろうか。カメラなんてここ暫く扱った記憶がない。スマフォのカメラ機能なら良く使うが、今時の中高生ならそんなもののはずだ。写真は、芸術の類ではなく、便利なコミニュケーションツールとしての方が親しみが深い。
テスト対策ファイルは喉から手が出るほど欲しかったが、それ以上に、この写真部と言うものに関心が無さ過ぎる。どうやってこの熱心な先輩の誘いを断ろうかと考えている時、
「あ……」
「ん?」
一人の女子生徒が、部屋に入ってきた。その人は、指定の制服の上に、体操着を重ねて着て、両手をポケットに突っ込んでいる。その滑らかな長い金髪は、春の風になびいて良い香りを発散させる。少し眠そうな目を僕に向けて、一瞬ぴくりと眉を動かした。その人は、僕が今朝見惚れてしまったあの女子生徒だ。
「おお、桐生君。今、この子をうちの部に勧誘していてね。君、この人が部長の桐生今日子君、二年生だよ」
「え? あっ、は、はい! 僕、犬柴雪って言います。新入生です」
見惚れていた目を外して、慌てて自己紹介した。そう言えば、三角先輩にもまだきちんと挨拶していなかった。
「あっそ」
緊張する僕を置いて、桐生先輩は近くの椅子に座った。肩から提げたカバンを下ろして、中から一冊の文庫本を取り出す。その合間に片手で髪を耳の上にかける。その仕草だけで、僕の心臓が音を立てて脈打ちだす。そして、彼女はそのまま無言で読書を始めた。本当に、僕の事など全く興味が無い様子だ。
「ね、どうかな。写真部、入ってくれる気になったかい?」
「あっ! いえ、その……」
桐生先輩の美しさと醸し出す独特な雰囲気に目を奪われていて、写真部うんぬんの話を忘れていた。
「僕は……」
「ん」
すると、桐生先輩が机の中から一枚の紙を片手で取り出して、僕に突きつけた。
「入るなら、これ書いて。部長の私か、あんたの担任か。それか、今職員室にいる篝火って顧問に渡して」
少し嗄れた、ハスキーな声で、ぶっきら棒に紙を差し出す。その目は僕には向けられず、紙面を追い続けている。そして、僕はそれを受け取ってしまった。
「……はい。犬柴、雪です。よろしく、お願いします」
まだ記入はしていなかったが、頭を下げて、そう言った。
「やった! やったね桐生君!」
「はぁ」
三角先輩が嬉しそうに桐生先輩に話し掛ける。それを彼女は、気の抜けた一言で返した。彼女の目は一貫して文庫本から離れない。無表情な彼女が、今何を考えているのかまるで分からなかった。少なくとも、僕の入部を喜んでいるような雰囲気はなかった。
「じゃ、じゃあ、三角先輩も、よろしくお願いします」
「そんな、プリンス先輩で良いよ」
明るく言うが、そのプリンス先輩の方が恥ずかしい。ただ、そこで気になる事が出来た。
「あれ、でも部長は桐生先輩なんですよね。あとは皆さん幽霊部員。三角先輩は違うんですか?」
最初、三角先輩は部長以外は幽霊部員だと言っていた。僕はてっきり三角先輩が部長なのかと思っていたが、そうではないようだ。
「いや? 僕も幽霊部員だよ。晴れてこれで、部長の桐生君と、新入部員の犬柴君の二人になったね」
「え? でも、三角先輩ちゃんと部室にいるじゃないですか。偶々なんですか?」
彼も、幽霊部員だと言う。ただ、幽霊部員が、あんなにも必死の新入部員を探すだろうか。僕を説得してくる三角先輩の目は、真剣そのものだった。この人の言ってることがよく分からなくて、首を傾げてしまう。
「だからさ、僕は幽霊の部員。君と桐生君が、正規の部員ってことさ。僕ら幽霊は、部員として計算出来ないからね。だから是非君に入部して欲しかったのさ」
「え……?」
「ん? どうかしたかな?」
僕と三角先輩に挟まれている桐生先輩は、今も文庫本を読み続けている。まるで僕らがいないかのように。
「三角先輩……もしかして、ゆ、幽霊、何ですか?」
「そうだよ。ずっと言ってるじゃないか。部長の桐生君以外は、みんな幽霊部員だって」
爽やかな笑顔で笑う三角先輩は、その手を桐生先輩の頭にのせた。しかし、その右手は、桐生先輩の頭を通過した。桐生先輩の金髪をすくおうとするが、その手はすり抜けるだけだ。
窓の向こうから、少し落ちかけた太陽の光が入ってくる。その光を受ける三角先輩の身体は半透明で、窓の外の桜をうっすらと見通すことが出来る。
「え、えぇぇぇぇぇぇ!!」
「え、何!? 気づいてなかったの!? うそ!?」
まさかの事態に僕が盛大に叫んでも、桐生先輩は顔も上げない。ただ、煩わしそうに一言呟いた。
「ちょっと三角先輩、手、うざい」