フィールドワーク後編
時刻は十時半。僕は牙城高校の正門前に立っていた。今日は桐生先輩とフィールドワークの日だ。どんな格好、準備をしたものか、昨日の夜の遅くまで色々考えこんでしまって、若干寝不足だ。それでも遅刻だけは絶対にすまいと、こうして三十分前から集合場所で待っている。
僕はジーパンに青いワイシャツ。足元はスニーカーという出で立ちだ。一応調査と言う事なので、できるだけ動きやすい格好を意識した結果だ。これなら桐生先輩を不快にさせる事は無いだろう。だが、どうしても不安が拭えない。桐生先輩の私服がまるで想像出来ないからだ。カジュアルなのかフォーマルなのか。もしかしたらパンク系かもしれない。とにかく全然イメージが出来なくて、そのせいで服選びも難航した。集合時間まで三十分。一人そわそわしていると、
「豆柴。早いね」
背後から声を掛けられた。それはいつもの素っ気ない声。驚いて振り返ると、そこには桐生先輩が立っていた。眠そうな目をこすりながら、両手をポケットに入れたまま佇んでいる。
「き、桐生先輩……。おはようございます」
「おはよ」
桐生先輩は、その格好すらいつもと同じだった。牙城高校指定の制服の上に、牙城高校指定の体操着を羽織っている。履いている靴すら学校指定のものなので、通常授業の日となんら変わらない。
「あの、桐生先輩、服が……」
「私服とかめんどくさいから」
「そ、そうですか」
らしいと言えばらしい。むしろ少し安心した。それでこそ桐生先輩だ。この人のプライベートは知らない方が自然な気がする。それに、こんなに早く集合場所に来てくれただけで僕にとっては充分だ。
「じゃ、行くよ」
「はい!」
桐生先輩との初めてのお出かけ。心霊写真の調査が始まった。
「ここですね」
僕らがまずやってきたのは、街から離れた山の近くのとあるお寺だった。何宗だとかはわからないが、そこそこ大きなお寺で、敷地も広い。裏手には墓地もあり、そこが依頼人の肝試しのコースだった。ひとまず、彼女達が写真を撮った滝を探す。
「こっち」
桐生先輩が僕を置いて行くように進む。その背中を見失わないように追いかける。彼女は脚が長いせいか歩幅が大きく、歩くのが早い。寺の裏手に回り込む。そうすると小さな庭があって、その奥に滝があった。二メートルくらい上からチョロチョロと静かに水が滴り落ちているだけなので、滝と言うにはこじんまりし過ぎているかもしれない。
「いた」
桐生先輩が突然立ち止まる。その視線の先には、緑色のツナギを着た男の幽霊が座っていた。一応は滝壺と表現すべき小さな水溜りの中で寝転んでいる。僕がパッと見た感じでも、悪い幽霊ではない。とにかく接触を試みる。
「あ、あの。すみません」
「あ? なんだい兄ちゃん。俺に用か?」
「そ、そうです」
目を覚ました幽霊は、ふわふわと漂って僕の方に近づいてくる。少しだけ警戒して話を進める。
「あの、この写真なんですけど、あなたが写っています。何か覚えてませんか?」
「む、ああ。この子らか。覚えてるよ。夜中にキャーキャー騒いでたからな」
例の写真を幽霊に見せると、彼は少し眉根を寄せて、迷惑そうに語った。彼はこの辺りの地縛霊らしい。一人静かに暮らしてたところを、突然騒ぎ立てられて嫌な思いをしたそうだ。
「でも、だからって呪ったりはしてないぜ。そんな力もないしな」
「そうですか……」
それは始めから分かっていた。この幽霊は悪い幽霊ではない。彼が今回の事件に関わっているとは思えない。ならば僕の思考はもう手詰まりだ。これ以上何も聞く事がない。すると、ずっと黙っていた桐生先輩が、一言だけ幽霊に問いかけた。
「この辺で悪い霊は知らない? 人を呪うようなやつ」
「いや、知らないな」
「そう。なら良い」
それだけ言うと、何か考え込む表情でまた口を閉じた。それ以上話し出す様子もなかったので、ツナギの幽霊にお礼を言ってその場を離れた。
その後、寺の裏手の墓地にも行ってみたが悪い幽霊は見つからず、僕らの調査は行き詰まった。こうなると、依頼人達の体調不良はこの辺の幽霊の影響ではなく浮遊霊の仕業か、もしくはそもそも幽霊の仕業ではない事になる。
「豆柴、こっち」
これは空振りに終わったかなと考えていると、桐生先輩が僕を連れて寺の近くの喫茶店に入った。昼食のつもりだろうか。
「ここ、依頼人の住んでる家」
「へ、へぇ」
僕と桐生先輩が店に足を踏み入れる。からんからんと鐘の音が鳴った。レトロな雰囲気の内装で、お客さんも結構入っている。コーヒーの良い香りが漂ってきて、僕のお腹が空腹を訴えだす。しかし、桐生先輩はお店のメニューなどには目もくれず、一直線に店の従業員の方に話しかける。どうやら依頼人の人を呼んでいるみたいだ。部活の時には一度も見せたことのない行動力に僕が目を丸くしていると、そのまま近くのテーブルに座った。僕も慌てて正面に座る。二人でアイスコーヒーを注文して、依頼人の人が来るのを待った。もちろん会話はない。
「あ、君たちが加代子の先輩の……」
しばらく待つと、店の奥から女の人が降りてきた。明るい茶髪の綺麗な人だ。その人にも僕らと同じテーブルを囲んでもらう。
「私、太刀花柚って言います。今回はその……」
「はい。おかしな写真が撮れたんですよね。僕、と言うよりこちらの桐生先輩が、その調査に来ました」
太刀花さんは痣が出てきた人ではないのか。見たところ落ち着いている。
「あの、清子とちーちゃんが、ずっと外に出られないって聞いて……。本当に、あの写真のせいなんですか?」
だが、その顔には不安そうな影を落としていた。確かに、いきなり友達の体調不良が心霊写真のせいだと言われれば嫌な気持ちにもなるだろう。
「多分そう。で、あんたが例のカメラ持ってるそうだけど」
桐生先輩は初対面の年上に対しても物怖じしない。むしろこの態度は怒られてしまうレベルだ。しかし太刀花さんは気にした様子もなく、小さく頷いてカメラを取り出した。何の変哲もない普通のデジカメだ。
「これです。撮った写真は、これ」
太刀花さんがカメラを操作して例の写真を見せてくれる。僕らが預かっている写真と変わりない。五人が笑顔で写っている。
「どの方が体調不良なんですか?」
「えっと、右端の二人。清子とちーちゃんって言うの」
幽霊が写っているのは画面の左上だ。体調不良の二人とは一番離れている。この事から考えても、やはりこの幽霊と二人は関係がない。
桐生先輩もデジカメと写真を見比べているが、何も目ぼしい発見はないようで、その表情は曇ったままだ。
「あの、どうして肝試しを?」
「え? あぁ、お互い仕事にも慣れて来たし、大学の頃のノリで遊びたいねって話してて。そしたら近場で肝試しなんかどうかなってなったの」
太刀花さんの声は低い。話し終えたあと小声で、こんな事するんじゃなかった、と苦しげにこぼす。何と無く目を合わせられなくて、僕は視線を写真に移した。すると、一つ気になる事が出来た。
「あの、五人で肝試ししたんですよね?」
「そ、そうよ」
「なら、誰がこの写真を撮ったんですか?」
太刀花さんと桐生先輩が、同時に顔を上げた。
「え?」
「いや、皆さん写ってますよね。五人全員。なら、誰が撮ったのかなって」
僕としては何でもない疑問を口にしただけだったが、太刀花さんの顔色が変わった。
「え、あれ。だ、誰だったっけ……。確か近くにいた人にお願いして……」
「近くにいた人?」
桐生先輩も身を乗り出してきた。だが、それはおかしいと僕にも分かる。肝試しは夜中に行われた。そんな時間帯に、あんな寂しい場所に普通の人間がちょうど良く歩いている訳がない。そう。普通の人間ならば。
「う、嘘。思い出せない……私が頼んだはずなのに」
太刀花さんが混乱し始めた。両手で頭を抱えて怯えたように目を泳がせている。本当に思い出せないようだ。
「分かった。そのデジカメ貸してくれる?」
すると、桐生先輩が立ち上がり、太刀花さんの手からデジカメを取った。彼女はまだ混乱から抜け切れていないようで、うわ言を呟きながら、額に汗をかいている。その時、
「え?」
太刀花さんの右手に、痣のような物が浮かび上がってきた。それは、まるで人の手のように五指がある。
「豆柴、行くよ」
「え、ちょっと待って下さいよ!」
しかしそんな異常な状況の太刀花さんを置いて、桐生先輩は店の外に出て行ってしまう。急いで支払いを済ませて、僕も彼女の後を追う。
「多分、奴はあそこにいるよ」
「え、奴ってまさか」
その先は何も言わず、桐生先輩はかつかつと足音を立てて前を行く。
再び寺の滝の場所に来ていた。そこにはさっきと変わらずツナギを着た男の幽霊が座っている。しかし桐生先輩は彼には視線すら向けず、滝を通り越し墓地の方へ歩いて行く。そこで、僕も気がついた。
「う、わ……」
墓地から漂ってくるのは、まるで腐敗したような濁った空気。黒い靄かと見間違えるほど淀んでいた。その発生元は……
「ひっ!」
「静かに!」
そいつは、墓地の出入り口に立っていた。背後から見れば普通の人間だ。しかし、その顔は明らかに人間のそれとは違っていた。顎がないのだ。下顎がなく、舌と上の歯が剥き出しになっている。陥ち窪んだ目はよく見えない。こんな異常な幽霊、さっき墓地を探索した時はいなかった。
「これ」
「え?」
「デジカメを持っていると現れるみたい。ほら、こっちに気づいた」
確かに、その不気味な幽霊は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。僕は恐怖で足がすくんだが、桐生先輩は一歩も引くことなく幽霊を待つ。
「……写真……お撮りしましょうか……」
そいつが、下顎のない口で呟いた。よく見ると、そいつは両手で何か掴んでいる。それは、人間の腕だった。人間の肘から先の部分だけを鷲掴みにしている。
「お構いなく」
桐生先輩は、気丈にも言葉を交わした。
「……写真……お撮りしましょうか……」
そいつは同じ事を繰り返す。その空洞のような目は桐生先輩の持つデジカメに向けられている。
「写真はいい。その代わり、私が撮ってあげる」
桐生先輩は、そいつの視線を振り払うかのようにデジカメを構えると、一枚パシャリと写真を撮った。フラッシュが幽霊に降りかかる。すると、
「……」
そいつが無言で消えていった。その後には、真っ黒な灰のような物だけが残った。
「成仏、したんですか」
「いや、逃げただけ。でも、おかげで呪いは消えたと思う。自分の存在に気づいた人間を呪うみたいだったから、写真に撮られて不特定多数に自身が露見する状況になって逃げた。呪いのキャパオーバーだね」
分かるようで分からない解説だ。ともあれ、これで依頼人の方の痣が消えるのであれば、僕らの仕事は終わりだ。それにひとまず安堵していると、
「帰るよ」
「はい。あ、先にデジカメを返しに行かないと」
「あと」
桐生先輩の目が、僕の目を真っ直ぐに射抜いた。
「よく気がついたね。私はすっかり騙されてた」
「え、でも偶々ですよ」
偶然、と言うか、本当に偶々桐生先輩が気がつかなかっただけだ。しかし、桐生先輩はそうは思っていないようで、
「ありがとう。おかげでこの件解決出来た」
なんと、僕にお礼を言ってくれた。それだけで何かおかしな物が胸にせり上がってくる。桐生先輩の言葉が何度も頭の中を回って、そして幸福感になって心に溶けていった。
「さて行くよ。ワンコ」
「え!? もしかしなくても、そのワンコってのは僕の事ですか!?」
突然予想外の呼ばれ方をして、思わず叫んでしまう。しかし桐生先輩は、そんな僕に構うことなくさっさと先を行ってしまう。
「ちょっと桐生先輩!」
桐生先輩の後を追いかけて、僕も少し走り、そして横に並んだ。彼女の横顔が見える。それは本当に綺麗で、釘付けにならないように注意が必要なくらいだ。
「あ、あの。もし良ければ、ゴールデンウィーク中に写真でも撮りに行きませんか?」
気がつくと、そんな事を口走っていた。自分でも驚いて、慌てて訂正しようとすると、
「良いよ」
なんと、桐生先輩はそう言ってくれた。その顔が、一瞬笑っているように見えた。だが、それもすぐに消えて、元の仏頂面へと戻ってしまった。しかし、僅かに見せたその表情は、僕の脳裏に焼きついて、色鮮やかに残った。
春風が桐生先輩の美しい金髪をなびかせる。春と夏の匂いを纏った爽やかな風は、僕の心を桜色に染めていく。
ここで、一つの事に気がついた。僕は、桐生先輩の事を何も知らない。でも、だからこそ楽しい。ドキドキする。胸が心地良く高鳴るのを再確認して、桐生先輩の隣を歩いた。
僕はまだ、彼女に出会ったばかりだ。
ゴールデンウィークが、始まる。