フィールドワーク前編
写真部に入部して、一ヶ月。たくさんの人と関わって、心霊写真を見て、そして、事件を解決してきた。その全ては桐生先輩のおかげで、僕なんかいてもいなくても何も変わらないだろう。そんな思いは、事件に遭遇する度に強くなっていく。僕は何て役立たずなんだ。そして、もっと、桐生先輩の力になりたい。心霊写真を持ち込んでくる人達のために何かしてあげたい。そんな思いも、日増しに大きくなっていく。
「すみません、遅れました。日直の仕事に手間取ってしまって……」
「大丈夫だよ。依頼人は来てないから」
写真部の部室では、三角先輩がいつものように窓際で座っている。そして、今日は桐生先輩も僕より先に来ていた。星のカーテンのような金髪に、涼しげな目元。手脚も首も長い。僕がこれまで生きてきて出会った人の中で、一番綺麗な女性だった。そんな彼女は、今日も制服の上に体操着を羽織り、退屈そうに本を読んでいる。時折口元を抑えて欠伸をする。その目尻に溜まった涙を片手で拭った。水晶みたいだ。ふとそんな事を思った。口に出す事はしないけど。
カバンを下ろして席につきながら、ここ最近気になっていた事を聞く。
「あの、この部ってゴールデンウィークはどうするんですか? お休みになるんですか?」
運動部は試合だったり合宿だったりを計画しているようだが、文化部であり、また正式とはかけ離れた写真部であるこの部は、一体何をするんだろう。普通に考えればお休みだ。ここに依頼を持ってくる人もおらず、そもそも学校が休みだからだ。
「あぁ、去年はお休み、って言うより、普段の土日と変わらなかったよ。でも、今年はせっかく二人いるんだし外で写真でも撮ってきたら?」
三角先輩の何気ないその提案に、僕の動悸が一気に加速した。
二人で、どこかに、写真を撮りに? 写真部の普段の活動とはまるで関係がない理由で、桐生先輩と出かける。そんな事があって良いのか。桐生先輩とお出かけ。一緒に公園を歩いたり、買い物をしたり、ご飯を食べたりする。想像するだけで心臓がはやる。
だが、そんな心とは別の頭の部分が、冷めた声で僕に囁く。いやいや、桐生先輩がお出かけなんかする訳がない。よしんば一緒に出かけたとして、一体何を話すと言うのだ。数時間お互い黙ったままで一日が終わるぞ。そんな悲しいお出かけ聞いた事すらない。
「いえ、それはちょっと……」
結局、そういう返答にしかならない。肝心の桐生先輩も、僕らの話を聞いてすらいない。退屈そうにしていても、不思議と読書に集中し切っていて、ひたすら勤勉に文字を追い続けている。ページを捲る音が、微かに僕の耳に届いた。
「そっか。まあそうだよね」
三角先輩も、自分が少々無茶な提案をしたと分かっているのだろう。これ以上深く話を進めようとはしない。僕もすぐ気持ちを切り替えて、机にノートと教科書を開いてテスト勉強を始めた。期末テストでは、なんとか真ん中くらいの順位は取りたい。部のテスト対策ファイルも借りて、気合を入れて取り掛かる。
最初の英文を書き写そうとした時、
「はろー! みんな元気かな!」
篝火先生が扉を勢いよく引いて入ってきた。年季の入っているその扉は、がり、と少し嫌な音を立てる。しかし、それを気にする事なく、篝火先生は大股で部室に入ってくる。いつもよりテンションが高い。
「あ、先生。どうしたんですか。なんだか嬉しそうですね」
「ふふん、聞く? 聞いちゃう? 実は、今週末合コンなの! 大企業の社員さんばかりが来るんだって!」
「へ、へぇ」
そうか、篝火先生は合コンで浮かれているのか。だが、僕はてっきり先生は彼氏の一人でもいるものだと思っていた。先生は明るいし、さっぱりとした美人だ。先生を好きになる男性は多いだろう。
「で、なに。そんな事言うためにきたの?」
しかし桐生先輩は冷たい。本から目を上げることなく素っ気ない声で話す。まるで感情がこもっていない。この人の外見は西洋人形のように整っているが、中身すらも人形に近い。そんな風に思える。感情を表に出してきてくれないので、そう捉えざるを得ないのだ。
「もう。少しくらい気にしてくれても良いじゃない。それに、本題はこっち!」
すると篝火先生は、少しだけムッとした表情で机を叩いた。その手には、一枚の写真が収まっている。裏を向いていて良く分からないが、十中八九心霊写真だろう。
「依頼よ。ちょっとヤバそうだから、ちゃんと聞いてね」
桐生先輩が、初めて本から目を離した。その瞳は鋭く、黒目がギラリと輝く。
「ふーん。それで?」
その声はどこまでも不敵だった。ほんの少しだけ夏の匂いを孕んだ風が、彼女の髪を揺らす。
その依頼の元は、篝火先生の大学の後輩らしい。今年卒業ですでに働いているそうだ。しかし、そんな彼女は数日前の休日に、友達と肝試しを行なった。女の子だけで行なったそれは、本当にただのお遊びだったが、そこで撮った写真がおかしなものだった。
「これよ」
「ふむ」
それは、五人の女性が暗がりの中写っていた。彼女達の背後には、細々と滴り落ちる小さな滝が見える。皆肝試しとは思えない明るい表情で、本当に楽しそうだ。
「この五人で行ったらしいんだけどね。ほら、ここ見て。何か写ってるでしょ」
篝火先生が指差すのは写真の左端。女性達の頭より高い場所だ。そこには、ボヤけた半透明の白い煙のような物が写り込んでいた。これはおそらく幽霊だ。近頃、図書室から借りて来た心霊写真の本で、本物と偽物を見分ける練習をしているのだ。その成果からか、この白い煙は幽霊だと言い切れる。
「それで、これがどうしたんですか? それほど酷い写真には見えませんけど。皆さん楽しそうですよ?」
確かに幽霊は写っているが、横縞さんの時や、氷海先輩の時のようなインパクトはない。また、横縞さんの写真のような、背筋に不快な痺れがくるような感じもしない。そこまで悪い幽霊ではないように思えた。
しかし、それは僕の考えだ。自分で言うのも悔しいが、僕の考えが当たった試しがない。桐生先輩は何か違う物をこの写真から感じ取っているかもしれないのだ。
「どう? 今日子?」
「悪い霊じゃないよ。この女の人たちに視線を向けてもいないし」
だが、桐生先輩もそう言った。この写真に危険はない。彼女が言うなら間違いないはずだ。これまで、怖いくらいに幽霊や写真の人物の心と状況を言い当ててきた人だ。
「そうか……。でもさ、この中の二人が今会社休んでるんだよ。ずっと体調不良。おかしくない?」
「偶然じゃないですか? 五人もいれば体調不良が重なることもありますよ」
篝火先生は気にしているようだったが、僕としてはそう思ってしまう。しかし、先生は今も眉根を寄せて難しい顔で考えている。その左手で、右手の肘から手首にかけての部位を上下にさすった。
「痣が、あるんだって」
「え?」
ぽつりと呟かれたその声は、何故かよく響いた。篝火先生を中心に波紋を広げ、そして部室内に反響する。
「体調不良の二人、手に痣が出来てるんだって。誰かに掴まれたみたいな痣。それが痛くて、外にも出れないって」
痣。手に痣。それも二人同時に。その情報に、僕は何も言う事が出来ない。痣だから、何だと言うのだ。篝火先生が危惧している事態が読めない。そしてそれはまた、桐生先輩も同様みたいだった。
「痣、か。確かに気にはなるけど……。分かった。少し調べてみる」
「お、頼まれてくれるかい?」
「まあ、篝火が言うなら、何かあるかもしれないし」
それでも、桐生先輩は調べると言った。その後、まるで篝火先生を信頼しているみたいな言葉も飛び出した。正直、桐生先輩には信頼など似ても似つかないものだと思っていたので、僕はむしろそっちが気になってしまった。それに、調べるとはどう言う事か。彼女はこれまで、写真を見ただけで事件を解決してしまっていた。予想外の言葉がぽんぽん出て来て、頭がついていけない。
「へぇ。じゃあさ、二人で調べてくるのを、ゴールデンウィークの活動にしたら? 丁度いいじゃないか」
すると、これまで静観を貫いていた三角先輩が、嬉しそうにそう言った。え、そ、それは……
「休みは明後日からだ。今日明日とその写真から分かる事を整理しておいて、それで調べに行くと良いよ」
「うーん、私としては早めに動いて欲しいところだけど、仕方ないかな。なら私がこの肝試しの場所を聞いておくから、二人で行ってきてよ」
とんとん拍子に話が前に進んでいく。考え事に集中していたため、突然の事態に何も意見する事が出来ない。それからも三角先輩と篝火先生がテキパキと話を決めていくのを黙って見ているだけだ。
そして、そんな二人を桐生先輩は止めようともしない。二人の提案が的を射ていると思っているのか、そちらは完全に任せきりで、彼女はじっと写真をただ見つめていた。写真から何かを読み取ろうとしているのは分かる。しかし僕は、その長い睫毛に視線を取られるだけで、とうとう一言も喋る事なく、その日の下校時刻を迎えた。
ホームルームが終わった。明日からゴールデンウィークだ。それはつまり、桐生先輩と二人でお出かけだと言う事だ。三角先輩は格好良くフィールドワークなんて言っていたが、僕はそんな気がしない。
「ねぇ、犬柴くん。君ら写真部はゴールデンウィークどうするの?」
「あ、天嵐さん」
カバンに教科書を詰めていると、隣の天嵐さんが明るい声で話しかけてくれた。彼女達水泳部は、隣町の温水プールで二泊三日の合宿をするそうだ。
「いや、ちょっと依頼が来てて、それの調査に行くんだ」
「何それ。探偵みたいだね」
驚いた顔で両手を頬に当てる。それは、僕も思っていた事だ。桐生先輩が探偵で、僕は助手。ダメだ。コンビの有能差が激し過ぎてとてもちぐはぐだ。
「そうなんだ。天嵐さんは合宿の後とかはどうするの?」
「ん、普通に勉強かな。期末もあるし」
そうだった。すっかり忘れていた。僕はどれだけ桐生先輩とのお出かけばかりに気を取られているのだ。そもそも、これは調査であってプライベートではない。学校の部活の延長線上だ。何を変に意識しているのだ。恥ずかしい。
「そ、そっか。合宿頑張ってね。またゴールデンウィーク明けに」
「うん、ありがと。またね」
そう言うと、天嵐さんは走って行ってしまった。もう以前の明るい天嵐さんだ。紫先生の事は乗り越えられたのだろう。そんな彼女がひどく眩しく見えた。
今日は、明日の予定を細かく決めると三角先輩が言っていた。桐生先輩が言っていたのではない辺り、彼女がほとんどこのフィールドワークに力を入れていないと分かる。僕だけが一方通行で意識していた。
部室までの階段を登る。うきうきするのかどんよりするのか自分の心が操縦出来ない。桐生先輩と出かける事は嬉しい。でも、それ以上に緊張してしまう。
「こんにちはっ!」
せめてもの抵抗で、挨拶だけは大声でした。今日も桐生先輩は僕より先に来ている。
「やぁ、犬柴君。明日はどうしようか?」
僕が席に着くと、早速三角先輩に調査についての予定を聞かれる。
「ぼ、僕はいつでも大丈夫です!」
今から緊張で声が上擦る。すると、
「私、朝弱いから。十一時くらい集合で」
桐生先輩が手を挙げた。耳にイヤホンをしたまま、目を閉じている。
「集合場所はどうする?」
「学校。肝試しの場所もここから近いから」
「オッケ。だってよ犬柴君!」
「は、はい!」
さらっと決まってしまった。学校以外で桐生先輩と会う。二人きりで。心臓が変な音とリズムで動く。僕の事を一切見ようとしない桐生先輩の横顔をこっそり見つめていた。
「よろしく、お願いします」
「よろしく」
無機質で無頓着な、いつもの桐生先輩だ。