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心臓


 手術は無事成功した。九死に一生を得たと言う、分かりやすい良い例だった。途切れかけた命をただ繋ぎとめた。家族は泣いて喜んでくれた。

 ただ、俺はふと考えてしまう。俺のこの命は、確実に誰か一人の死の上に成り立っている。そこまでの価値が、俺にはあるのだろうか。喉に刺さった小骨のように、その感情は俺の心に蟠り続ける。









 部室への階段を登っていると、ふいに話し掛けられた。二階と三階の踊り場の二段目を居場所としている例の女の子だ。霊の、と言った方が良いかもしれない。


「ねえ。今日子お姉ちゃん、まだ怒ってる?」


 それは、数日前雨の日に、彼女達写真部の幽霊部員達が、結託して僕を怯えさせた件についての話だ。後からその事を知った桐生先輩は、いつもの無感情さを封印して激怒し、彼女達をキツく叱った。まだその時の怒りそのままに、桐生先輩は彼女達と口をきいていない。


「いや、流石にもう怒ってないと思うよ」


 桐生先輩はそれ程根に持つタイプとは思えない。それに、被害者が僕である点を踏まえても、そこまで真剣になってくれるとも考えられない。桐生先輩が幽霊達に話し掛けないのは、偶々だと思われた。


「でも、もう二日も何も話してくれないんだよ」


 そんな事を言うが、それは僕からして見れば完全に通常運転だ。桐生先輩から僕に話し掛けてくれた事など、右手の指の数より少ない。ただ、悲しげに俯く女の子は哀れなので、僕から約束を取り付けてあげる。


「分かった。僕から桐生先輩に頼んでみるよ」


「本当? お願いね」


 何とかその悲しそうな顔を上げてくれたので、僕も安心した。この約束が嘘にならないように、しっかりと桐生先輩に話をしてあげよう。

 旧西館の三階、一番奥の部室に向かう。桐生先輩はもう来てるかな、そんな事を考えながら部室の扉を開けると、中に知らない男の子が座っていた。少し長めの黒髪と、どこか達観したような瞳が印象的な男子だ。名札を見るに、僕と同じ一年生だ。すると、その男の子は僕に目を向けて、


「写真部の人かな」


「えっと、そうです」


「見て欲しい写真があるんだ」


 落ち着いた口調でそう言った。胸元のポケットから茶封筒を取り出して、机に置く。ただ、まだ桐生先輩が来ていないので、先に写真を見る事は出来ない。その旨を簡単に伝え、僕もカバンを置いて、彼の正面に座る。


海鳴隆うみなりたかしだ。一年生。よろしく」


「よろしく。僕は犬柴雪です」


 お互い簡単に自己紹介をして、桐生先輩の到着を待つ。先に話を聞いておこうかとも思ったが、僕が聞いてもあまり力になれる事はないと思い直し、開きかけた口を閉じた。海鳴君は頬杖をついて、空いた片手でトントンと机を叩いている。

 彼が穏やかな空気感を持つ男の子だったせいか、同じ空間で二人して黙りこくっていたというのに、不思議と閉塞感は感じなかった。

 十分ほどそうして待っていだろうか。部室の扉がゆっくりと開いて、桐生先輩が入ってきた。今日もいつものように制服の上に体操着を羽織った格好だ。くぁと一つ欠伸をしてから海鳴君に軽く視線を向けると、僕の隣に腰を下ろした。


「で、なに?」


 そして、珍しく彼女から話を始めた。だが、少し不機嫌そうな低い声はいつも通りだ。最初はそれに僕はビビってしまっていたが、最近ではようやく慣れてきていた。


「心霊写真、と言うものが撮れてしまってな。是非見てもらいたいんだ」


 海鳴君は、そんな桐生先輩の声音にも怖気付くことなくテキパキと返事をする。その手が封筒に伸びて、中から一枚の写真を取り出した。


「これなんだが」


 それは、分類するならば記念写真になるだろう。海鳴君を中心に、たくさんの看護師さんや白衣を着た人達が写っている。そこは大きな病院の玄関前だった。


「数日前に退院したんだ。その時の写真だ」


 海鳴君が右手の指で名札を叩く。その位置は、心臓だ。人間が生を繋げるために、最も重要な臓器の位置。

 彼は、特に感情のこもっていない声で、事務的に語る。その手が今度は写真の端を指差した。そこには、白衣姿の男性が笑顔で写し出されている。だが、それだけではない。その彼の背後に、青白い顔をした女の人が、苦しさと悲しさを含有したような顔で彼を見つめていた。それはいやにはっきりと写されていて、僕は最初は普通の人間かと思ったくらいだ。


「この写真を撮った時に、こんな女性はいなかった。それが不思議でね」


 海鳴君は、写真を怖がっている様子はない。ただ疑問に感じているだけのように見えた。


「この女の人は、あんたのドナーの人だよ」


 すると、桐生先輩は淡々と語りだした。


「あんたの心臓を移植してくれた、元になった人」


「……そうか」


 驚くべきその話に、海鳴君はやけに納得したような顔をした。まるで、この結果を最初から予想していたかのようだ。


「悲しいな。俺はこの人の未練を背負って生きていくのか」


 平坦なその声に、どんな感情がこもっていたのかは分からない。彼の口調は変わらず落ち着いている。


「まだ続きがあるけど、聞く?」


「あぁ、是非教えてくれ」


 桐生先輩の質問にも、すんなりと答えて続きを促した。彼のその目は写真の女の人に向けられている。


「この女の人は、あんたの今リハビリを手伝ってくれている人の恋人だよ。元、だけどね」


 しかし、ここで初めて海鳴君の表情が強張った。告げられたその事実に一瞬目を大きくして、それから今度は苦しそうに固く目を閉じて、天井を仰いだ。

 桐生先輩が教えてくれた真実は、僕にとっても衝撃だった。恋人がドナーになった患者のリハビリを担当する。写真の中の男性は、どれ程辛かっただろうか。それを考えるだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。


「分かった。これで合点が行ったよ」


「合点?」


「あぁそうだ」


 海鳴君は、この写真部にやってきた詳しい経緯を、これまで同様、落ち着いた口調で話してくれた。

 

「愛しています」


 その一言は、海鳴君がこの写真の男性、春台さんにリハビリを診てもらっている時に、突然口をついて出た言葉だそうだ。


「何故、そんな言葉が出てきたのか分からない。ただ、その時、口が勝手に動いたみたいだった。自分でも訳が分からなくてね。それからこんな写真が撮れたものだから、気になってここに来たんだ」


 春台さんは、当然だが一度たりとも恋人の話をしなかったそうだ。いつも笑顔で海鳴君のリハビリを手伝ってくれていた。海鳴君は、春台さんの抱える重過ぎる事実を、知ることすら出来ていなかった。

 だが、海鳴君にとっては訳の分からない言葉を聞いた春台さんは、一瞬だけ驚いた顔をして、それから一筋涙を零し、海鳴君を抱き締めたそうだ。何も言うこともなく。その時間はほんの数秒程で、直ぐにいつも通りリハビリは開始された。まるで一連の二人のやりとりが無かったかのように。

 それから時折、春台さんを病院で見かけると、似たような言葉が胸に湧き上がってくる。

 好きだ。愛おしい。会いたい。そして、さようなら。

 それはまるで、彼の心臓が勝手に心を動かしているかのような感覚だ。


「それは、あんたの心臓のドナーになった人の、最後の想いだよ。あんたの口を借りて、どうしても伝えたい事があった」


 写真の中の女性は、悲しそうに俯いて、春台さんを背後から見つめている。その姿をよく見ると、その手は春台さんの肩に添えられていた。海鳴君はそんな写真を見つめながら、桐生先輩に一言、質問した。


「僕が、この女性のために出来る事はあるだろうか」


「ないよ。その心臓はじきにあんたに慣れて、あんたの物になる。そうなれば、自然とその写真からも女の人は消える」


 しかし、桐生先輩の答えは悲しい物だった。この女の人のために出来ることは、何一つ残されてはいない。彼女の想いはいずれ何処かに消えて、欠片すら残らない。


「分かった。ありがとう。来て良かった」


 海鳴君は静かにそう言い残すと、写真をまた胸ポケットにしまって、部室から出て行った。混乱する事も、声を震わせる事もなく、最後まで冷静に桐生先輩の話を聞いていた。

 だが、僕には、彼の胸中がその態度のように無音のままだったとはとても思えない。


「稀にだが、あるそうだよ」


 その時、僕らの側で静かに話を聞いていた三角先輩が、ポツリと零した。ドナーの人の性格や癖が、患者さんに発現する。そんな奇跡みたいな事例は、確かに世界にあるらしい。

 桐生先輩は既に、イヤホンを耳にはめて音楽を聴き始めていた。もう、この件に関しては何の興味も関心も示していない。彼女にとっては終了した事なのだろう。しかし僕は、そんな簡単には割り切れなかった。海鳴君の想い、春台さんの想い、そして、春台さんの恋人の想い。彼らの悲しく切ない想いが、いつまでも僕の心の中を、鈍い麻酔のように渦巻いていた。抱えきれないほどの重さを持つ想いに、手元を見つめる。










「愛しています」


 彼が突然、そんな事を言った。混乱したのは一瞬だけで、直ぐに分かってしまった。彼の背後に、彼女を見つけてしまった。彼の姿に、彼女を重ねてしまった。どうしようもなく辛くなってしまって、胸が苦しくなってしまって、彼を、気づけば抱き締めていた。

 会いたい。もう一度。でも、だからこそ僕が贈る言葉は、


「僕も、愛していたよ」


 患者さんや医師達の声が騒がしいリハビリルーム。無理やり絞り出したような囁きは、春風に溶けて誰の耳に届くこともなく消えていった。


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