敬礼
見えない物を無いとするか有るとするか。それは人それぞれ、十人十色と言うやつだ。
見えないから無いとする人。見えないけど有るとする人。またその逆も。つまりは何が言いたいのかと言うと、幽霊を信じるか否か。
今時、てんで聞かなくなったこんな質問に、僕らは寄り添って生きていく。
「こんにち、わ?」
いつも通り部室の扉を開くと、中には知らない女性がいた。その人は、三角先輩と向かいあって座り、仲良さそうに彼と将棋崩しに興じている。二十代後半くらいの、牙城高校の長袖の体操着を上下に着た人だ。長い黒髪を背中の辺りで緩く一纏めにしている。
僕が部室に入ってきたことに驚いたその女性は、将棋の山を派手に崩してしまった。
「あ! あぁ、また負けた」
「集中力の問題ですね」
この部室の中でなら、大抵のことは出来ると言っていた通り、三角先輩は将棋の駒を集めて笑っている。
「えっと、どちら様ですか?」
「おやおや、教師に向かってどちら様とは。君、新入生かね?」
「新入生ですけど……」
何かカッコよく推理したみたいに言っているが、胸の名札を見れば一目瞭然なので、特に感心することなく、むしろ不審感を感じずにはいられない。
「この人はね、篝火先生って言って、僕ら写真部の顧問なんだよ」
「あ!」
入部の際に、桐生先輩が名前を出していたのを思い出す。何と無く年配の男性の先生を想像してたので、ちょっと意外だ。しかし、僕がこの部に入部して約二週間。この人が部に顔を出しているのを初めて見た。
「あの、篝火先生は、写真とかに詳しいんですか?」
「いや全然」
間髪入れることなく否定された。薄々そんな気はしていたが、こうもあっさり言われてしまうと、脱力してしまう。篝火先生は、今度は隣の椅子に置かれていたオセロを取り出して、ゲーム開始のセッティングをし始めた。先輩が黒。先生が白の駒だ。
「私はなんちゃって顧問だから。ちゃんとした写真部として活動したいなら、君個人で頑張るしかないよ」
「丸投げですか……」
あと、そのボートゲームは何なのだ。写真部らしからぬ、いや、どんな部においても不必要な備品だ。
「これはね、テスト対策ファイルと同じ、先輩方の遺産だよ。暇な時はこれで時間を潰すのさ」
早くも自身の黒一色にボードを染め上げていく三角先輩が、誇らしげに教えてくれる。篝火先生は、真剣な表情で駒を置いていくが、外野の僕から見ても、プレイングが致命的に下手だ。あっという間に角や端を占拠されて身動き取れなくなっている。オセロの面白味は大逆転にこそあるが、これでは到底望めそうにない。
「それで、篝火先生は何しに来たんですか。まさかボートゲームしに来た訳じゃないですよね」
「半分はね。私、一度も三角に勝ったことないのよ」
真っ黒に染まった盤面を見る限り、彼女が勝利する日は遠そうだ。だが、あとの半分は何だろう。写真には詳しくないと言っていたし、指導してくれる訳では無さそうだ。
「あれ、篝火いる」
それから三人でオセロについて議論していると、桐生先輩もやって来た。無表情な彼女が珍しく驚いた顔で篝火先生を眺めている。それ程までに先生の出現率が低いと言う事だ。
「篝火先生、でしょ。今日はね、あんたらに言いたいことあって来たのよ」
遊んでいたオセロを横にずらして、篝火先生が立ち上がる。桐生先輩はそんな先生を無視してイヤホンで音楽を聴き始めた。これは流石に酷い。先生はすでに泣きそうだ。
「き、桐生先輩。聞いてあげましょうよ」
「はぁ……」
渋々と言った様子で、かったるそうにイヤホンを外す。そこから小さくポップな音楽が聞こえてきて、桐生先輩の好みが知れたことをこっそり喜んでいると、
「あんたら、写真部なんだから写真を撮りなさいよ。いい加減コンクールとかに出品してくれないと、部としての体裁が整わないでしょ」
思いのほか真面目な話をされた。とは言え、こんな何の設備も備品もない部室なのだ。桐生先輩や僕が写真に関する知識を持っていないことくらいすぐ分かるだろう。
「あんたらが心霊写真の相談を受けてるのは知ってるよ。そもそもここがそう言う為の部ってこともね。でも、学校側はそれじゃ納得しないの」
篝火先生も、この部のあり方を理解しているらしい。だが、それを学校側にまで理解させることは不可能なようだ。
「てことで、手近なコンクールとかに出品しなさい。賞をとれとは言わないから」
「なら何のコンクールに送れば良いですか?」
「知らない。あんたらで考えて」
そして結局丸投げだった。しかしコンクールか。それこそ参加することに意義があるが、せっかくなら頑張るのも良いか。これからコツコツ写真について勉強しようかな。そう思っていると、まるでそれを見透かしたように桐生先輩が僕の肩を叩いた。
「豆柴、よろしく」
「犬柴です」
初めてきちんと訂正出来た。このまま放って置けば、僕になんか一切興味のない桐生先輩は、永遠に豆柴と呼び続けるだろう。それはやっぱり悲しいので、早めに認識を改めて欲しかったのだ。
名前を訂正出来たことにほくほくしていたが、気づくとコンクールの件は完全に僕一人の問題にされてしまっていた。何とも言えない気持ちになる。
「で、次が本題。この写真見てよ」
パンと手を叩いて話を変えた篝火先生が、ポケットからスマフォを取り出した。手元で何度か画面をタップして、アルバムを表示する。それを僕と桐生先輩の目前に提示した。
「また撮れちゃった」
「はぁ……」
それに、桐生先輩が大きく溜息をついた。心底面倒くさそうに眉を顰めて篝火先生を下から睨む。
「あんたさ、そう言う体質なんだから気をつけてって言ってるでしょ」
そんな事を言った。そう言う体質。つまり、篝火先生はよく心霊写真が撮れてしまう人なのか。確かにそういう人はいる。霊に憑かれ易い人や、興味を持たれ易い人。僕や桐生先輩も大きく分類すれば同じカテゴリーだ。
「いや、昨日部屋から虹が見えてさ。綺麗だったから思わず撮っちゃったのよ」
すまなそうに頭をかきながら言う篝火先生は、見せつけてきていたスマフォを、もっとちゃんと見え易いように机の上に置いた。それを見てみると、
「虹ですね」
確かに綺麗な写真だった。灰色の雲が残る空にかかる七色の大きなアーチ。画面一杯に写し出されたそれは堂々としていて、自然の美しさを見せつけるかのようにしている。ただ、その虹の始点、いや、終点だろうか。虹がかかり始める場所にあるビルの中に、小さく人影が写っていた。
僕の見た所、それは軍人さんの幽霊だった。首元に白いスカーフと、頭にゴーグルをつけて、色彩の乏しい軍服に身を包んでいる。凛々しいその目でこちらを見返していた。その右手はビシリと彼のこめかみに当てられて、見事な敬礼姿だ。
「で、どう? これは悪い霊?」
篝火先生は、桐生先輩に素直に尋ねる。そして、
「違う。普通の霊。強いて言うなら英霊かな」
桐生先輩は、そう答えた。悪い霊ではない。むしろ、偉大な霊だ。国と民と家族のために戦った、誇り高き人だ。だが、ここで僕は疑問を抱いた。
「何でこの人、敬礼してるんだろう」
勇ましい顔そのままに、身体に一本針金を通したような姿勢で、彼はカメラを見つめている。その覚悟はひしひしと伝わってくるが、何故、彼はまだそんな顔をしているのだろう。
「まだ、戦ってるんだよ。いや、これから戦いに行くの。出征前の気持ちでずっと立ってるから、カメラを見つけて敬礼しちゃったんだ」
桐生先輩は、普段心霊写真について話す時とは少し違う、悲しげな声で語った。まだ、戦っている。これから、戦いに行く。それは、逝くと言うことでもあるように思えた。もう、当の昔に亡くなった彼は、未だに死に逝く心持ちのまま、ずっとあそこに立っているのか。
「それは何と言うか、安直ですけど、可哀想ですね。もう戦争は終わってるのに、まだ戦い続けているなんて……」
それは、僕にとっては、ただの素直な気持ちを吐露しただけの、何の力もない言葉だった。聞く人が聞けば、不快になるかもしれないような、考えの浅い、幼稚な想いだった。しかし、そんな僕の言葉に、反応した人物がいた。
「……そう」
桐生先輩だ。一瞬、少しだけその切れ長の目を僕に向けて、それから再度、写真に向かって声を落とした。その寂しそうな声の理由は僕には分からなかったが、それ以上に、彼女が僕の言葉に何かを感じ取ってくれたことが心に残った。
「そうだね。君の言う通りだ。なら私は、この人に教えてあげたい。楽になってもらいたい。今日子、どうすれば良い?」
そして篝火先生も、そんな事を言ってくれた。真剣なその瞳には、一ミリたりとも嘘は混じっていなかった。
「言ってあげると良い。多分、それだけで分かってくれるよ」
「そう」
桐生先輩は、スマフォを篝火先生に返した。その目には僕にも分かる程、何か感情が宿っていた。彼女の気持ちが外に見えるくらい出てきたのは、初めてかもしれない。その、優しさを持った瞳で、一瞬篝火先生と見合って、そして外した。
「分かった。じゃ、今から行ってくるよ」
「あっそ」
もう、桐生先輩はいつもの素っ気ない彼女に戻っていた。
「でも、私幽霊見えないからなぁ。大丈夫かな」
すると、篝火先生が突然そんな事を言った。
「え!? 見えて、ないんですか!?」
完全に虚を突かれた発言だった。だって、僕が部室にやって来た時、彼女は三角先輩と楽しそうに将棋をしていた。オセロだってしていた。てっきり、僕は彼女も僕達と同様幽霊が見えているものだと思っていた。
「うん。見えてないし、声も聞こえないよ。でも、何回か叫べば伝わるよね。行ってくる」
最後にぐっと拳をかまえて、篝火先生は元気よく部室から出て行った。僕は、その消えた背中を見るともなしに見つめていた。
幽霊が見えていない。それなのに、あんなにも当たり前に幽霊の存在を認められる人がいるのか。まるですぐ側にいるかのように、先生は振舞っていた。それが僕には衝撃的だった。
「す、凄い人ですね……」
「別に」
早くもイヤホンを耳につけた桐生先輩は、もうまともな返事をしてくれることはない。椅子の背もたれに身体を預けながら、その目を閉じて音楽に集中している。僕は、少しだけその綺麗な横顔を見て、それから自分の手に視線を移した。
篝火先生は、上手く彼に伝えられるだろうか。もう、戦争は終わった。日本は平和になった。そんな今を知って、彼はどんな気持ちになるだろうか。願わくば、その心が安らかであることを。彼の心が家族の元へ帰れることを。そんな祈りを込めて、白い天井を見上げた。