涙を流す
本当は、こんな事したくなかった。でも、もし断ったりすれば、私は除け者にされる。あそこにいられなくなる。
一人になるなら別に良い。でも、それだけじゃない。大勢に囲まれた中で孤独を噛み締めなければならない。あの時の私みたいに。そんなのは……嫌だ。
今日も写真部は、いつもと変わらない。三角先輩は窓際で桜を眺め、桐生先輩は読者に耽る。元々会話の少ない人達だから、僕もあえて何か話をしようとは思わない。沈黙は意外と心地良い。この狭い空間を皆と共有しているようで、していないようで。そんな不安定な秤みたいなこの部室は、いつしか僕の癒しとなっていた。
横縞さんの件以来、写真部を訪れる人はいない。そもそも、心霊写真という物の絶対数が圧倒的に少なく、またそれをこの部に持ち込むと言う選択肢を知り得ている人は更に少ない。僕が入部してから、立て続けに色んな依頼人がやってきたが、それは極めて稀な事だと言う。三角先輩が教えくれた話では、これまでは一月に一件あるかないかの率だったらしい。
ただ、天嵐さんに聞いた話では、この写真部は地域ではそこそこ有名らしい。先ほど選択肢が少ない、と話したが、それは勇気が出ないとか、信じていないとか言うことであって、この部自体の知名度とは関係ないものだ。
ここは所謂、七不思議のような物だそうだ。この私立牙城高校も、明治から続く古い歴史のある学び舎で、カビの生えた逸話や噂が多い。ここ写真部も、それと同じような括りだと言えた。
今日も、結局依頼人は来ないまま下校時刻となった。校内放送の無機質な音声が、僕らに帰宅を促す。それを頭の端で聞きながら、僕もカバンを肩に抱えて立ち上がった。正面に座る桐生先輩も、首を左右に動かしながら、読んでいた本をしまう。いつもしているその赤いブックカバーの下には、どんな本が入っているのだろう。難しい哲学書とかだろうか。それとも案外陽気なライトノベルとかだろうか。どちらも案外しっくり来てしまう。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「うん、犬柴君、また明日ね」
三角先輩は笑顔で送り出してくれるが、桐生先輩は特に何の反応もしない。分かっているし、いつものことなので、気を悪くしたりせず部室の扉を開いた。すると、
「うわっ!」
「え?」
開いた扉の目の前に、女子生徒が座りこんでいた。明るい茶髪に短いスカート、化粧もバッチリ決めた今風の女の子だ。その子が焦ったように尻餅をつく。
「あ、れ? どうかしましたか? ここ、写真部の部室ですけど……」
どうやら、中の様子を伺っていたみたいだ。もしかして依頼人だろうか。それとも、何か全然別の用事だろうか。僕もここには迷った挙句にやってきた。彼女も似たような理由かもしれない。だが、彼女の制服のリボンを見ると、二年生の物だった。学校生活二年目で、果たして校内で迷うことなんてあるのか。この牙城高校は、校舎がそれほど広い訳ではない。
「あの……ここに心霊写真を持ってくれば、なんか助けてもらえるって聞いて……」
その人は、慌てて居住まいを整えると、決まり悪そうに下を向いてボソボソ話す。やはり依頼人か。横縞さんの例もある。一刻を争う事態かもしれない。僕では到底判断出来ないので、部室の桐生先輩に聞いてみるしかない。
「あの、桐生先輩……」
「どいて」
しかし、彼女はただ僕と女の子を邪魔そうに一瞥するだけで、さっさと帰って行ってしまった。その綺麗な金髪を、女の子と二人で呆然と見送る。僕より先に女の子が我に帰った。
「ちょ、ちょっと! 私は用事が……」
「明日」
呼び止めようとする女の子の声を、桐生先輩は感情のない声でかぶせるように遮る。
「今日はもう終わり。明日の放課後」
そして、最後まで振り返ることなく帰宅してしまった。女の子を一切慮ることないその姿勢は、紛うことなく桐生先輩だ。だが、女の子としては、腹の立つあんまりな態度な訳で……
「なによあいつ! ちょっと可愛いからってムカつく!」
拳で廊下を二回叩いた。僕は、桐生先輩の言うことに従うしかないので、女の子にはお帰りいただく。桐生先輩がああ言う態度を取ったということは、急ぎの案件ではないと言うことだ。
「すみません。そう言うことなので、また明日に……」
「わかったわよ」
こうして、女の子もしぶしぶ引き下がった。
「二年、市源千秋。文系。見て欲しいのはこの写真よ」
翌日、少々仏頂面で市源先輩はそう名乗った。机の上に置いたスマフォをタップし、写真アプリを開く。そして、僕らによく見えるようにこちらに画面を向けた。
「拝見しますね」
桐生先輩がその写真に全く興味を持たないので、仕方なく僕が彼女の前に移動させる。それは、市源さんが一人で写っている写真だった。彼女は右手にスマフォを持ち、左手でピースしている。
「これって……」
「鏡を取ったの。旧西館一階の女子トイレの鏡よ」
この写真はつまり、市源先輩が映る鏡を自分で撮影した物だった。彼女の背後には掃除道具入れがあり、手元にも洗面台の端が写っている。
「旧西館の女子トイレって……どうしてそんな場所で、こんな写真を?」
本当に今日は桐生先輩が何もしてくれない。何か難しい顔で自分の手と睨めっこしているだけだ。仕方ないので僕が話を進める。
「知らない? 牙城高校七不思議」
市源先輩が言うには、この牙城高校には七不思議があって、その一つが旧西館の一階女子トイレなのだそうだ。曰く、そのトイレの鏡で自身を写真に収めると、死に顔が写ると言うものらしい。これと言って時間や状況に左右されず、いつでも死に顔の写真が撮れるのだとか。
「けど、これは……」
死に顔、なのだろうか。写真の中の市源先輩を見つめる。確かに通常の表情ではない。市源先輩は、涙を流していた。その目から頬を伝って流れ落ちるそれは、どこからどう見ても涙だ。鼻も赤く、目も赤い。おかしいと言えばおかしい写真だが、死に顔ではないように思えた。泣いている写真。それ自体は珍しくも何ともない。でも、この写真の市源先輩が泣いているのは、不自然ではある。
「何と言えば良いんでしょうか。心霊写真、なのかな。この時、市源先輩は泣いていたんですか?」
「馬鹿言わないでよ。泣いたりしてないわ」
ふんと鼻を鳴らす。それはそうだろう。自分自身の写真を、こんな形で撮って泣いている。理由がまるで不明だ。そもそも、どうしてこんな写真を撮る経緯に至ったのか、それを詳しく聞いていくと、
「罰ゲームよ。友達数人でやった遊びの罰ゲーム。私が負けて、七不思議を確かめてくる事になったの。おかげでこんな写真が撮れちゃって。だからここに持ってきたの」
市源先輩は、苛だたしげに吐き捨てた。ただ、その怒り方に、僕は違和感を感じた。どこがどうとは言い切れないが、友達に怒っているのとも、撮れた写真に怒っているのとも少し違う気がする。まるで、自身に言い聞かせているような、そんな印象を受けた。
「これ、心霊写真じゃないから」
その時、ずっと退屈そうにしていた桐生先輩が、突然何の前触れもなくそう言った。その目はスマフォの写真に向けられておらず、窓の外の桜へと向いている。風が運んできた花弁を追って、机の上に戻ってきた。
「え?」
「は?」
あまりに唐突だったので、市源先輩と二人で馬鹿みたいな声を出した。
「心霊写真じゃない。それは、そう言う写真。あんたが撮った、あんたの写真」
桐生先輩は、その桜の花弁を拾いながら、淡々と言う。心霊写真じゃない? そう言う写真? つまりこれは、ただの普通の、写真ということ? それだとつまり……
「なに? 私が泣いてたって言いたいの?」
そう言う事になる。この写真は、市源先輩が泣いている瞬間をただとらえただけ。しかし、僕には彼女が泣いている原因が分からない。そもそも泣いていたかどうかも定かではない。いや、彼女は泣いていないとはっきり明言していたではないか。なら、一体全体どう言う事なのか。
「そうでしょ? あんたが何考えてたのか知らないけど、ぼろぼろ泣いてたのを、カメラは写しただけ。最近のケータイは凄いね。良く撮れてる」
桐生先輩は、市源先輩のスマフォを勝手に持ち上げて、ふるふると左右に振った。僕はそれを目で追いかける。そんな不遜な態度の桐生先輩に、とうとう市源先輩がキレた。
「……あんたさ、本当に何言ってんの? 私の事何も知らないくせに、偉そうに。ムカつくんだけど。あと、スマフォ返してくれる?」
これは、嫌な空気になってきた。今にも噛み付かんばかりの市源先輩と、そんな彼女をどこ吹く風で相手にしない桐生先輩。その長い金髪を、片手で耳に引っ掛ける。
「友達くらい、自分で選べば? 言いたい事も言えない相手なんてあんたの何者でもないよ」
「……っ! このっ!」
桐生先輩のその一言に、市源先輩が本気になった。机を激しく叩いて立ち上がり、桐生先輩に掴みかかる。それを、頭の隅で予想していた僕が、何とか止めた。
「ま、まあまあ! 二人とも抑えて。ね、ね?」
桐生先輩は、いつもと変わらない態度なのだが、こんな事で大丈夫なのか。常にこんな調子では、彼女の周りに不和と諍いが渦巻いてしまう。そんな話はめっきり聞いたことがないが、僕が知らないだけで、実は水面下では不満が溜まっているのではないか。僕が何とか抑えた市源先輩だが、その矛はまだ収まっていない。
「あんたなんかにね、あんたなんかに言われなくても、気づいてるわよ! 知ってるわよ!」
「え……」
声を荒げる市源先輩は、泣いていた。あの写真と同じように、その瞳から、はらはらと涙を流していた。
「どんな下らない罰ゲームでも、やらないとハブられるのよ! どんなに馬鹿なことでも、調子合わせないと一人になるのよ! あんたみたいに、孤独に孤高にいられる人間は、多くないんだから!」
手を振り乱して、叫ぶように、いや、実際叫びながら、彼女の心の澱を撒き散らす。鈍くて役に立たない僕でも、分かってしまった。彼女、市源先輩は、我慢していたのだ。一人にならないために、除け者にされないために。色んな事を我慢して、耐えて、見て見ぬフリをして。けれど、それが耐えきれなくなって、辛くなって、涙を零したのだ。
「自分は何のためにこんな事してるんだって、分かんなくなったから!」
分かんなくなって、虚しくなって、そして、泣いてしまった。その写真が撮れてしまった。でも、それを認めたくなくて、認めたら一人なってしまうから、心霊写真に仕立て上げようとした。
「あんたの事情は知らない。私が言えることはこれだけ。それは、心霊写真じゃない」
「……帰る」
桐生先輩の最後の言葉を聞いて、市源先輩は、部室から出て行こうとする。最後の声に力はなく、その頬の涙を拭うことなく、伝う涙をそのままに、歩いて行ってしまった。彼女のスマフォは、まだ机の上に置かれたままだ。彼女が涙する写真の画面は、ふっと光が消えて暗くなってしまった。もう、ロックを解除しなければ、開かれない。そして、僕らはロックの暗証番号を知らない。
「これ、私が明日返しとくから」
「お願い、します」
「解散」
そして、桐生先輩もカバンを肩にかけて帰ろうとしている。その背中に、何故か声をかけたくなって、やめた。聞きたいけど、聞きたくなかった。
貴女は一人で大丈夫ですか。どんな答えが返ってきても、僕は辛いから。