04.如何(いかん)せん忙しいので
一時代前の話になるが、この国では、王城からの汚水で河川が汚れ、堀が悪臭を放ち、大量の死者が出た。
当時の王子アレクシスは、死者の追悼に来た聖女イッポリートに惚れ、その一生をかけて、王城の地下に巨大な排水処理施設および神殿を作らせた。
城の水は常に清められ、堀は底が見渡せるほどの透明度を保つ。清き水の流れを塀の上にまで引上げ、つくりだされた滝の光景により、清き水の城と呼ばれるほどとなった。
当然城下にも水道が張り巡らされ、ポンプを使えばどこでも容易く綺麗な水が手に入った。そのほかにも噴水や水場は各所に設置され、民もまたそれを大切に扱っている。
また、死者に対し聖女がいたく心を痛めたことから、平民の健康保護条例が発令された。すなわち、自国民はすべからく心と体が健やかであるべしとの定めにより、定期的に各地へ医師の派遣がなされ、定期健康診断の義務が発生し、病やケガの治療は誰でも安価で受けられ、医師の確保のために見習いへの生活保障がなされた。
ここエンデンバーグという国は、水の癒やしの国とあだ名されるまでになっていた。
その功績の陰となって、その王子の妃ジュヌヴィエーヴは、一生彼に愛されることもなく、王弟陛下の子が王位を継ぐ。だが、妃は妃で自らの騎士シモンと秘密の恋をしており……アレクシスとイッポリート、ジュヌヴィエーヴとシモン、叶わぬ恋の物語は、今も語り継がれている。
だからというのもおかしいが、この国では身分違いの恋を妙に称賛する帰来がある。貴族のぼんぼんが、市井の娘に恋をして、自分の養女とし、後に妻とするようなまねまで横行し、国がそれを不問に付している。
もちろん、権力を傘に意に沿わぬ思いを遂げようという勘違いした者もいるが、そこは健康保護条例の解釈により、心の健康を保つためという名目で、NOを言う権利というものが発生している。
つまるところ、この国の平民の身分は、案外悪いものでもないのだ。
娘たちは健康保護条例を盾に、ロマンチックな出会いを夢に見て、いつか王子様が……などと思うものだが、残念ながらティカは違った。
行き遅れたせいというのもあるが……もともとそんなロマンスが期待できるのは、余裕がある者たちだけ。日々をあくせく暮らしている者にとって、ロマンチックより飯の種。目の前の掃除が終わらなければ、パンも出ない。
王子様の夢を語るより、目の前の汚れを消し去る方が大切だ。
まだ朝も明けきらぬうちから、ごしごし磨く炊事場の石畳。べっとりついた汚れは頑固で、踏み固められたせいもあり、ヘラでこそぎ落とし、洗剤をつけたブラシで擦っても、なかなかはがれてくれない。
あの騎士様は今、どうしているじゃろか……などとちょっと頭の端をかすめはするが、それよりも、もう少しすればどかどかと入ってくる料理人たちに蹴飛ばされぬよう、手早く仕上げなくてはいけない。なのに、昨日の祭りのせいなのか、床はいつも以上に汚れているよう。
ようやっと半分を終えたところで、大柄な副料理長がひょいと入り口から顔を覗かせ、ティカの姿に目を丸めた。
「すっすんません、まだあまじゃで」
ティカの倍はありそうな大柄の副料理長は、ユーグという名があるのだが、恐れて誰もその名を呼ぶものはいない。いかつい赤ら顔に、もさもさっとした赤毛が半身を覆い、たっぷりと蓄えられた髭がまた山賊のような風情を出しており、それだけでティカにとっては恐れの対象になってしまう。
いつもは騒々しい炊事場に響き渡るような怒号を上げており、見習い下働きはもちろん、料理長ですらもぶん殴る。かといって人使いが荒いということもなく、彼がいなくては仕事が三倍になるというほど、手際が良くて統率力があり、部下に愛されていたりもする。
いつもなら、まだ掃除が終わってないなんて報告しようものなら、尻を蹴飛ばされることもあるものだから、ティカはぎゅっと身を硬くした。
「あぁ、いい……」
何をぐずぐずしているんだと怒鳴られると覚悟していたのに、今日は気まずげに顔をそらして手を振り、いつものように鍋を洗い始める。
もちろん、鍋はいつも使用後に洗い干されているのだが、この副料理長は、どんなに綺麗な鍋だろうと、朝一番に必ず洗ってから使う。だが、いつもなら十は下らぬ鍋を洗うところが、今日は二つ三つでしまいにし、ザルを持って外に出てしまった。
怒られもせず鍋も少ないその様子に、ティカは首を傾げかけるが、ぼうっとしている暇などあるわけがない。せっせと床磨きを再開すると、副料理長は鼻歌交じりに、たまねぎやにんじんなんぞをザルに入れ戻ってきた。
珍しいこともあるものだ、そんなご機嫌な副料理長を見たのは初めてで、思わず再び掃除の手を止めてしまった。
「ティカ、ニンジンは好きか?」
「へ、へぇ」
副料理長は、ザルの上の野菜を洗いながら、唐突に問いかけてきた。この副料理長の怒鳴らぬ普通の声というものを、はじめて聞いた気がした。
もともとティカには食べ物の好き嫌いなどないが、返事はほぼ反射的なものでしかなく、答えて後で内容を理解した状態だ。まぁ、違とるわけじゃないけぇ……と思ってみるも、そもそも唐突に何を聞かれたものか、なんで聞かれたのか、疑問が増えるばかり。
いつもならば、へぇだなんて気の抜けたような返事は何だと怒鳴られるところだが、ご機嫌な副料理長は、それすら気にならないらしい。
「姫様は嫌いだそうだ」
「そ、そんだら大変だ」
「そうだ、ニンジンは大切だ、だから、ニンジンスープとニンジンケーキ、どっちがいい」
何がだからじゃ、何のことじゃと言いたくなるが、じっとこちらを見る副料理長に、今にも怒鳴られそうで恐ろしい。
思わずスープとケーキを頭に思い浮かべ、ケーキなんぞという食べなれぬものは即座却下してしまう。
「……ス、スープ」
「わかった」
何がわかったのやら、呆然と見るティカの前で、副料理長はもさもさとした赤毛の髪を一つにくくり、長く蓄えられた髭も三つ編みにして後ろに放り、エプロンを着付け帽子を被る。少し猫背だった背中が、エプロンを着ると同時にピンッと伸びて、一回り大きくなったようにすら感じられ、ティカは思わず、逃げるように掃除を再開させた。
トトトトトッと軽快な音で、皮がむかれたニンジンやジャガイモがスライスされる。それらが火にかけられジャッといい音をたて、塩やスパイスが入れられる頃には、もういい匂いがしてきた。
ティカも、なんとか掃除を終えて掃除道具を片付け、汚れた服を着替えて朝食をもらいに行けば、副料理長は1人テーブルについてスープをかっこんでいる。
いつもならこの炊事場が狭く感じるほどの料理人が立つ場所が、なぜだか静まり返っている不思議。ティカの姿を見た副料理長は、ちょいちょいと犬猫でも呼ぶように指先で招くと、自分の前の料理を指差す。
そこには、二種類のスープとパンが用意されており、その横にはおいしそうなポテトサラダまで盛ってある。オレンジ色のスープは、ニンジンスープなのだろう、片方は鮮やかな赤にクリームの白でアクセントが付けられており、片方はコショウの粒がふりかけられている。
いつもなら、くず野菜が申し訳程度浮いているスープと固いパンだけなのに、どうしたことか。
「……今日はまだ誰も来ねぇ、ここで食え」
おそらく試食して感想を言えというのだろう。人に見られての食事など緊張するが、断ることなどできやしない。
いつもは立ったままスープカップ片手にパンにかじりついているのだが、きょうばかりは食事作法を気にしつつ、スープ皿によそわれたスープにスプーンを浸す。
「うまいか?」
まだ口にする前から飛んでくる問いは、前のめりになった副料理長の気持ちの表れか。
「よか匂いですだ」
ティカの言葉に早すぎたと気付いたらしく、副料理長はどがっと背もたれに身を預ける。がっしりとしたつくりの椅子が、ギシギシと悲鳴をあげるが、それを無視するように副料理長は目を閉じ、ティカが食べるのを待った。
まだできたてのスープは熱く、ふーふーと何度か拭き覚まして口にすれば、口の中にふんわりと優しい甘みが広がる。とろりとした口当たりがたまらないほど美味しく感じて、もう一口、もう一口とすすってしまう。
「てげぇ」
今更ながらに美味しいと表現するべくこくこく頷くと、片目を開けてこちらを観察していた副料理長が破顔した。
この人が笑うとこなぞはじめて見た。くしゃっとしわの寄った顔は、そのいかつさなど忘れさせ、むしろ日向ぼっこのおじさんを思い起こさせる。
うっかり襟にこぼしてしまったスープを拭いながら、もう片方にも口をつければ、こちらはスパイスの効いたピリ辛仕様で、甘みと辛みの調和が絶妙で、ついとスプーンが進んでしまう。
「こっちもてげぇうまかぁ」
「どっちがいい!」
その声の大きさに、思わず逃げ出したくなるが、ティカは歯を食いしばって手元を眺め、二つを見比べ見る。改め味わいなおしてみれど、自分の好みは甘い方、言っていいものか少し悩むも、えいやと思い切って口を開いた。
「甘か方が、ニンジンうまかぁこつ知れるかと……こっちはまごうてるだけじゃけぇ」
「そうか、そうか」
そういいながら、副料理長はがしがしとティカの頭を撫でた。
一瞬手を上げられたかと怯えたティカは、その大きな手で撫でくりまわされて、なんだか日向でぽかぽか転寝しているような、なんとも嬉しい気持ちが胸を締め、思わずうっかり泣きたくなった。