03.阿呆が嬉しいとは如何(どう)したか
「隊長、猫、見つけましたよ~」
不意に、少し遠くよりかけられた男性の声。おそらくエドガードの知り合いなのだろう、隊長と呼ぶからにはエドガードが隊長を務める騎士団の、騎士の一人だろう。
明らかにこちらへ向けられた声の主は……おそらく、エドガードがどこにいるか、何をしているかを察しているのではないだろうか。窺うような間が開いてから、「隊長?」と小さな問いが追いかけてきた。
エドガードが忌々しげに背後をチラと見るあたり、そちらにその誰かさんがいるのだろうが、ティカには植木が邪魔して見えはしない。
呼ばれたのだからすぐに行くのだろうと、ティカはうっかりつかんでいたエドガードの服の裾を離すが、ティカを抱きしめるエドガードの手は緩まない。それどころか、もう一度口づけせんと、その顔が近づいてくる。
すぐそこに、誰かに待たれているというのにその行動、ティカが慌てて顔をそむければ、エドガードの目が切なげに細められた。
「……やっぱり、猫見つけちょったが」
何のためにこんなところにと思えば、迷い猫探し。おそらく祭りで人手が足りず、騎士までもが姫様の飼い猫探しに借り出されたというところか。
それがしまいまっとらさっさといぬるがとティカは思うのだが、どうもエドガードは、もうちょっととぐずつく気持ちにまみれていたいらしい。
顔をあげてほしいとばかりに頬を擽るその手は、何度か頤をなぞるものの、強引にするつもりもないらしく、ただこそばゆい程度の戯れ。
もう一度、チラッと背後を気にして、忌々しげにチッと小さく舌打ちする態度はどうかと思うが、ティカには自分との逢瀬を惜しむ様子が可愛らしくさえ思えてしまう。
「猫を探して、この運命に……」
ため息がちにこぼされたのは、先ほどの返答か別れの言葉と思いきや……こやつ頭が完全にお花畑じゃと、ティカを思わずあきれさせた。
運命に出会っただなんて、女を喜ばせる戯めいたことを口にしようとしていたエドガードは、はたと気付き口ごもる。ティカは、なんというメルヘン脳と思いながら、でも、どうしよう、可愛く見えてしまうからしょうがない。
大の男を、しかも貴族で騎士様であるお方を、可愛いとは何事かとは思うものの、これを可愛いと思わずにいられるものか。
間抜けだ間抜けだと思いながらに恋に落ちたのだと自覚しながら、ティカがその手を外すよう促せば、手放しがたいとばかりにぎゅっと力が込められた。
ティカには、そんな動作一つについてもあきれだか照れだかわからぬものが、こみ上げてしょうがない。
もう行かなくてはならぬとばかりに背後を気にしながら、エドガードは名残惜しげにティカを見つめる。
「騎士様、もういぬるが、もう、もうきんといてくれんじゃろか」
口が過ぎるかとは思いつつ、あっちへ行けと言ってみると、エドガードはハッとした様子でティカを見て、重く頷いた。
さてここで、ティカの及ばぬ真実は、その言葉の行き違い。
ティカはこれでわかってくれたんじゃろなんて思っている。来ないでと言ったのだから、もうこんな奇跡などないだろうし、この一度限りの逢瀬を恋の思い出として、またいつもの平穏な日々に戻るのだと思っていた。
だが、エドガードの心は真逆であった。
その鄙びた言い方への理解が及ばず、きんといてをきとってと……つまりは「もう来てくれないのですか?」と言われたかと勘違い、それはすなわちまた来て欲しいとの懇願としか捉えておらず。健気にも甘い訴えを受けたと勘違いして、感動すらしていた。
そう、今は離れがたくこの思いを固めたくとも、そうするわけには行かぬも必定。任務外とはいえ、わがまま姫様の寝かしつけ手伝いでしかないとはいえ、エドガードは今、仕事中なのだ。
祭りに気を浮かされていたか、それが終わって気が抜けたか、これからの後始末にうんざりしていたか……ついと出会った幸運にまみれてしまっていた。だが、いつまでもそうしていいわけがない。
わかってはいるが立ち去りがたく、待たれてはいるがここに居座りたかったが……しょうがない。
幸い明日は休みだ。エドガードには、まだ片付いておらぬ仕事が少々あるが、明日は休みだ。
たしか明日の昼までならば、彼女たちのような下働きの者たちにも温情があったはず。この祭りの飽食に飽いた方々の食事は、明日の夕までない。侍女や上官連中ならともかく、下働きの娘ならば明日の午前中は休みのはずだ。
そう判断して、そのひと時の別れを断腸の思いで決意した。
叶うなら、このまま連れ去りたいところだが、そんな衝動を容認できるほどに、この国は優しくはなく、仕事はすぐそこで待っている。
後で……まぁ、明日になるが、後で花束を持って行こう……そこで、改めればいい。
この服装はこの城の下働きだ、所在は知れている。逃げられることなどないのだから大丈夫だと、エドガードは自分を説得し、その華奢な肩の感触を名残惜しく思いながらに離した。
ようやっとで離したその手、ついもうひとなでと頬に触れれば、まるで猫かなにかのようにすりりと擦り寄られ、すべらかな感触が指先に残る。彼女もまた、名残惜しく思っているのだと感動を胸に、エドガードは重い重い足を一歩踏み出した。
その背中を見送って、ティカがほうと一つこぼしたため息。
一度二度と振り返るその姿は、見送りがいもあるというもの。
戯れに手でも伸ばせば、もしかしたら舞い戻って来たやも知れず、そのままどこぞへ連れ去られてもよかったじゃろかなどと、世迷言が頭を掠める。
ひと時のみの恋情なれど、これでまたひと年はここで仕事をがんばる気力になろうか。明日になれば、遠目にも垣間見る機会などないだろうが、それでもこの城のどこかにエドガードがいるのだと思えば、それだけで胸が熱くなる。
突然あがった花火よろしく、吹き荒れた嵐よろしく、その爪痕はティカの胸に甘くのこるばかり。
ただ、物語のように、ほわほわと余韻を味わいながらに、そのままおしまいになどできやしない。現実問題として、ティカの手にはまだ濡れたままの下着がある。このままに寝ればエドガードの夢でも見られるのではと思うが、放りっぱなしにしていいものでもない。
後ろ手に隠していた下着を、再度桶につけたままの同胞のもとにもどし、石鹸をまとわせすすいで絞る。ぴっちゃぴっちゃと踊る水は、先ほど、疲れ果てての洗濯の時より幾分楽しげ。
花火に見惚れて時間がたったとはいえ、驚きの出会いで気持ちが浮ついていたとはいえ、現金にもほどがある。
「まったくもう、どこにピクシーがおるんじゃい」
呟けば、妙にニマニマしてしまう自分の緩みきった頬にはまいってしまう。
耳の奥に、まだあの「阿呆」との言葉が残っているよう。少し掠れがちな声は、緊張のせいか低く甘く響く。頭の中で繰り返すそれに、うっかりと胸がはしゃぐ。
「阿呆はお前じゃい」
ついとこぼれた独り言は、胸の中のほわほわとした思いがあふれすぎたせい。妙に弾んだその声に、思わずティカは、我ながら浮かれすぎじゃと苦笑してしまう。
そういえば、名乗りも誰何もなかった……ならば、それはやはり、ただひと時の戯れだったのだろう。ただひと時の夢とはいえ、夢の中でも極上の部類に入ろうが。
洗い終われば建物に戻り、裏口よりすぐのところにある、自分の部屋の戸を開く。
長持とベッドしかない窮屈な部屋。しかも、ベッドと長持はぎゅうぎゅうにつまっていて、押し開けたドアすらつっかかる狭さ。
洗濯していた下着を、長持の上に広げて形を整える。本当は、外で風にさらしておきたいところだが、さすがにズボンまがいの品物とはいえ、人目に触れる可能性がゼロではないところに、干すわけにはいかない。
今日、初とはいえ騎士様なんぞに出会ったくらいじゃけぇ……そう思った途端、先ほどのことをありありと思い出してティカの頬が火照りあがる。
阿呆と言われたその音を、再度頭の中で繰り返し繰り返し思い出してしまう。
唇がこそばゆい気がして指先でなぞるが、この指よりも、もっとずっと柔らかな……そう思うと頭の中まで茹だってしまうよう。
いつもならもう寝入っている時間なのだが、これではちょっと、すぐには眠れそうにない……。