11.何処(どこ)に逃げたらいいですか?
見習い料理人改めパティスト氏は、もう戻らなくちゃとか引き留めて悪かったとか言って、調理場に戻って行った。ここでのろのろして、アニタ婦人がいなくなったからと下男長が戻ってきては困るので、ティカも早々に立ち去ることにした。
とはいえ、副料理長からは午後から休むよう言われているし、これからの時間をどう過ごしたものか……いや、アニタ婦人は仕事時間を守れと言っていたのだから、これから通常仕事時間にあたると思えば、仕事をせよとの言葉である可能性もある。
とりあえず洗濯物置き場へ行ってみるが、今度は他の人の分は置かれていても、自分の分は用意されていなかった。
そじゃなぁ、洗濯物があったんじゃけん、仕事するんは普通じゃし、あるのがいけんじゃろ。休みじゃったら仕事もなけりゃ、休むしかなかったんじゃけん……と、思わず八つ当たりめいた考えが頭を掠めるが、そのおかげで戸惑うこともなく、のんびり仕事ができたと思えば、むしろ感謝すべきなのかもしれない。
どこに行くべきか悩みつつ、仕事あがりの習慣にまかせ、その足は湯殿に向いていた。
この城は、下水をろ過した上で煮沸により浄化させているため、水は常に温められている。城の場外に設置されている人口滝は、見目良くするためのものではなく、堀へ流す前に冷やすためのものだ。そのおかげもあって、調理や掃除に使う湯も使い放題なのだが、贅沢なことにお風呂までもが常に湧いている状態となる。
故郷では、湯になどつかれば病気になるち教わっちょったが、今では、むしろ湯につからねば病になるじゃろな……なんて思ってしまう。
水どころか湯が使い放題のこの城だからこその贅沢ではあるが、習慣となってしまえば、城から出た後が不安になる。当然ながら、ティカに毎日風呂を用意するほどの貯金はなく、かといって桶一杯の水での清拭がせいぜいの状況で、満足できるとは思えない。では、いずれ戻るその不便さを忘れぬために、風呂に入らないなどという考えも頭の端を掠めるが、風呂の心地よさを知った後では、その魅力に抗えやしない。
湯殿のある建物は、食堂の裏に隠れている。料理人は清潔たるべしという理由から、料理人は仕事中でも入りに行ったりしているらしい。誰でも使える湯殿だが、使用人でも女中以上の方々には別の場所が用意されているため、好んで使うのは料理人と端女下男といったところだ。
入り口に入ってすぐの棚に靴をおさめたら、中の様子に耳をすませつつに奥へと進む。脱衣室の方まで覗いてみたが、さすがに今の時間では誰もいないよう。ほっとしながら、脱衣室手前にある個人用の荷物入れの棚の、×印のところから着替えを取り出した。
脱衣室で今着ているものを籠の中に入れ、その上に着替えを重ねて清拭布をかけておく。いつもは置物机も使えず端のほうでもそもそ脱いでいるのだが、今日は誰にも気兼ねせず荷物の置ける、そのことだけでもティカは感動してしまう。なにより男性がいないので、この貧相な体に嫌な視線が向かないというのもまた嬉しいところ。
湯文字も忘れて湯室に入れば、もわっとたちこめていた蒸気にまとわりつかれた。湯室には、中央に大きな柱を持つ楕円形の大きな湯船があり、壁際には棚が並んでいる。その棚の目のつくあたりに籠を置き、手桶でもって湯船からすくった湯を体にかける。幾度か汗を流してから湯船に入り、柱の上からざんぶざんぶとかけ流される湯を浴びに行く。普段なら人の多いこの場所に、割り入る度胸などありはしないが、さすがに独占状態の今は贅沢に浴び放題だ。
「そじゃな、神官様んとこ行こか」
存分に浴びすぎて、むしろ少し湯あたりしたところで、不意に、いつも相談に乗ってもらっている神官様の顔を思い出した。
別に、エドガードとの関係に悩むというほどでもない。ティカとしては、もてあそばれてぽいされるつもりだ。アレを前提にとか言われはしたし、貴族への養子縁組の打診もあったが、とりあえずそれはお断り方向で決まっている。悪女だとかゴミムシとか言われたが、まぁ、それもどうでもいい。ならなにを相談するのかと言われると困ってしまうが、頭の中がごちゃごちゃしているそれを、神官様にぶちまけてしまいたいだけのこと。
さっそく向おうと、籠の上に広げていた清拭布を手にしたところで、そこから覗く着替えのお仕着せに少し悩んでしまう。出かけるのなら私服にすべきだが、棚に入れてあるのはつぎはぎだらけのみっともないもの。相談したい神官様がいるのは都の外れにある小さな祈祷場なので、城の裏から回ればそう人通りの多い通りには出ない。お仕着せのまま行く方がまだ失礼もなかろうと判断し、清拭布で体を拭き拭き脱衣所に出た。
綺麗に水気を拭ってからお仕着せを着込んで、濡れた清拭布と着ていたお仕着せは、部屋の隅のずた袋に分けて入れる。ほかの人の分もここに押し込まれ、たっぷりたまったところで回収係が洗濯場へ持って行き、分類されてティカたちが洗い、干されてまた各人の棚に収められる。下着はさすがに自分で洗うが、それ以外のほとんどがその専門のものにまかされている分、その身一つで働けると思えば、これほど楽な環境もなかろう。
それも含め、常々この生活ができなくなる日が不安になってしょうがない。楽とは日々蝕む悪魔のようとつい考えてしまう。エドガード様のこともまた、今から注意せねばと気を引き締める思い。
とはいえ、思いを深めぬよう注意するなど、むしろ墓穴を掘るようなものとは、ティカ自身もわかってはいるのだが……。
王都は広いながら、城の側から乗合馬車が出ているので、都の外れでもすぐに行って帰ってこれる。
城の裏門は、城への食材や備品等の搬入から汚物の搬出、使用人及び表を通る身分のない登城者のため、日中は堀に渡し橋が下ろされ、門も開いたままにされている。夕刻になると通れなくなってしまうが、それでも堀に下りれば渡し船があり、時間外でも通行出来る。
「マニュエルの祈祷場にいくっと、夕前には帰るけぇ」
マニュエルの祈祷場という名の場所はない。ティカの目的地でもある都の外れの祈祷場は、王都第八地区三級管轄外祈祷場が正式名称だ。
祈祷場の場所は地区ごと参拝者の階級ごとに別れているため多数あり、複雑な名が付けられている。だが、あまりに面倒なその名のせいで、ティカのように学のないものにとっては、そこを管理する神官様の名前がそのまま呼び名となる。
ティカの身分でも通うことが許されている祈祷場は、近場にもいくつかあるのだが、やはり人の好き嫌いがでて、いつも行く場所は決まっていた。
「また遠いとこ行くなぁ……なんかあるんかい?」
城住み込みの者は、大抵ここで行き先と帰宅時間を書いた書類を提出していく。先に書いておけば渡すだけで済むのだが、ティカのように字の書けないものは、ここで口頭にて伝え、書いてもらうことになる。その際、身分証明なども必要になるのだが、お仕着せも着ている上に、今日の詰所番は顔も知れた人なので、ティカがポケットから出した証の札も、ちろと一瞥するだけだ。
「ちごぅて……あそこはわしが王都で一番にいきよった場所じゃけん。そんに、あそこん神官様はあったかいけぇ、信用できっと」
「なるほどなぁ……俺も今度行くかな」
「なんかあったん?」
ティカがここで無駄口を利いている間にも、たくさんの人が外から帰ってきており、詰所はごった返している。とはいえ、入城と外出の部門が違っているせいか、ティカの代筆をしている者はのんきなものだ。
「こないだ、外で飲んで財布落としちまってなぁ……かみさんがおかんむりだ」
「しょうないなぁ」
「下手なとこ相談すりゃあ、説教が待ってるだろう? いいとこなら同情してくれんかねぇ、今はあったかい言葉が欲しいよ」
「あったけぇ言葉をもろたところで、家に帰りゃ角付きじゃろ?」
「ああ……ちげぇねぇ」
代筆された書類に、自分の印である×印を紙の端に記してサイン代わりにする。
もちろん、書類には『マニュエルの祈祷場』ではなく正式名称が書かれているが、ティカには読めもしない。
本来ならば、時間も厳密に明記し、少しでも遅れれば謹慎や減給処分にもなりえるのだが、そもそも時計が読めない持っていない者に時間を守らせることなど出来るわけもない。
「あまり遅くなんなよ」
の一言で、門が開いている間に戻ればいいという程度の緩いものだ。