10.敵と味方と何(なん)でしょか
「いっ……いだだっいだっ!」
帽子の上から鷲づかみにされた髪に引かれ、地肌がたくさんの針で刺されたかのような痛みを訴える。ぶちぶちと嫌な音もしていたから、何本か抜けたかもしれない。振り向けば、ちびでひょろっとした男が、忌々しげにティカの髪をつかんでいた。
そう豊かではないティカの赤毛は、肩を少し過ぎる程度の長さなので、後ろでひつめて団子にし、帽子の中に収めている。その塊りがちょうど手にかかったか、そのまま引っつかまれたのだ。
束になった髪は、普通に引かれた程度ならばさほど痛くもないが、引き抜かんばかりに乱暴に引っ張られてはかなり痛い。涙までにじんでくるものの、その手を振り払うことなどできない。手が届かないとか、しっぱりつかまれているからというわけではなく、これまた身分のせいだ。
「お前は、本当に男に取り入るのがうまいらしいな」
だが彼も、いつまでもティカの髪を引っつかんでいる気はないらしく、ティカの体を押しのけるように放った。
背が低いくせに痩躯を折り曲げるようにティカを見る男は、常に苦悩するように眉根を寄せ、神経質そうなぎょろ目で睨みを効かせている。上等なブーツや派手な赤いチョッキは全く似合っておらず、女のようにフリルやレースのついたドレスシャツや、腰の真ん中にぶら下げたナイフがなんとも不恰好な伊達男。
名前はフェルナン・ランブール、下働きの者たちを取りまとめる下男長だ。本来ならば、城で働く女たちは、王妃様直下の洗濯長の下につくのだが、それは女中以上の身分がそれなりにある人たちだけ。身分の低いティカたち水場の端女は、下水や汚物やご不浄処理の下男たちと同じくまとめられている。つまり、仕事は洗濯場女中たちの下にいるティカだが、賃金の支払いはこの人からとなる。
当然ながら、ティカに難癖つけては賃金を減額させ、罰金と請じて取り上げているのはこの人だ。ちょっとでも嫌悪感や態度の悪さを見せてしまえば、すぐに怒鳴り散らされ金を取り上げられてしまうものだから、ティカたち下働きの者は小さくなっているしかない。
手が離されてすぐ、ティカは壁際に寄り頭を下げる。側であっけにとられていた見習い料理人も、それに習って頭を下げたが……彼の場合は料理人が上役となるので、下男長とは直接的には関係しないのだが、ティカにつきあってくれたのだろう。
「ドブネズミが、残飯と間違えて宝石にたかったか? それはゴミムシには過ぎたものだろう? そんあもんにたかってねぇで、さっさとゴミ溜めに戻れ!」
なんとも厭らしい笑いを含んだその声に、ティカの背筋に怖気が走るが、ただひたすら頭を下げ通り過ぎるのを待つばかり。嵐と同じで、何をしようとも、悪化することはあれ、打ち破ることなどできはしない。耳に心に蓋をする気で、我慢しているしかないものだ。
ドブネズミやゴミムシなんて人のことを言うが、言う本人こそがそうであろう。むしろ彼こそが、貧乏人の財布にたかるそれに他ならない。
なんで、こんな男が平気でそうしていられるのかといえば、これまた健康保護条例のせいとも言える。つまり、平民はすべからく健全に過ごすべきであり、彼もまたその保護の下に”弱者”という力を振るっているのだ。
あくまでも平民を護るための法は、基本的に身分のあるものからないものを護るという色合いが強い。そもそも、法も裁判所も未だに少なく、実績が浅いせい。下手すれば、近所のおやじ連中の方が仲裁に明るく、宿屋や酒場の店主の方が相談に乗る頻度は多いだろう。
すなわち、法は分かりやすい善悪は裁いてくれるが、ティカのような不器用なものを護ってはくれず、弁が立つほうが勝ってしまうのだ。
健康保護条例を、そして賃金を握っている取りまとめとしての権力を盾にし……ひそかに貴族の後ろ盾も得て、下男長はこの狭い裏側で幅を利かせている。
「なにをしているのです」
とはいえ、当然それを良く思っていないものは多い。ティカたち下のものだけではなく、それに仕事を与える者たちもしかり。
鋭い呼びかけとともにその場に突然現れたのは、洗濯女長のアニタ婦人だった。
背が高くすらりとした彼女は、一部の隙もなくぴしっと着付けたお仕着せに、ほつれ髪の一筋もなく引詰められたこげ茶の髪に、ぴったり添った帽子。青の瞳は冷たそうで、鋭い声とともに発されるその言葉に、ティカたちはいつもびくびくしてしまう。
城の中での序列は、王妃様を頂点に、女官長、掃除婦長、洗濯長などが直属につき、ティカたちはその洗濯長の下に……ついているわけではない。それは先にも説明したが、王様の管轄の端近にいる下男長の下となる。
洗濯長の下には洗濯女中たちがいて、彼女等は出された洗濯物をチェックをしたり、洗濯されたものを管理するのが仕事となる。洗濯女中の下に、洗濯女、乾燥女、薬剤技術女という漂白や糊付を担当する者がつき、さらにその下に、実際に作業をする端女たちがつく。
ティカは、その端女の1人だ。つまり、洗濯女長は洗濯女中に雇われて、下男長よりティカたちのような端女を借り受け仕事させる人たちの取りまとめ役となる。
ちなみに騎士団や料理長は王様の管轄となり、下男長もその端近にいるので、ティカは王妃様の管轄の仕事をしながら、実際に給金を出しているのは王様となる。まぁ、王様も王妃様も国庫から出しているのだから、そう違いはないのだろうが。
「なにをしているのか、聞いているのですよ、返答はないのですか?」
厳しい詰問は下男長へ向けられているので、ティカには口を開く権利もない。下男長が頭を下げたので、それよりさらに下げるべく、膝を付いて頭を下げた。
位としては、管轄が違う上、下男長と洗濯女長に位の差はあまりない。なのに頭を下げるのは、その迫力のせいだろうか。
「いや、その……ただ、こいつが我の通行を邪魔したので……どけというつもりで少し手が、口が、滑っただけで……なにも、何もしておりませんが……そのっ……何か……何かございましたでしょうか?」
さっきの勢いはどこへやら、小さな体をさらに縮めて、もごもごと言い訳がましい言葉を途切れ途切れにこぼしゆく。
どうやら彼の中では、ティカの髪を引っ張ったのは手がすべったせい、取り入るだのドブネズミだのと言ったのも口がすべったせいでしかないらしい。では、普段からそういうことばかりしているこいつの人生は、すべりまくりに違いない。
「そうですか」
何をと問いたくせ、事実を追求をするつもりがないらしいアニタ婦人は、ついっと横へ顎を逸らし、あっちへ行けとばかり仕草で示す。
へらへらとした笑いを浮かべた下男長は、それを受けて、駆け出すようにして立ち去った。
「あなたに隙があるから、ああいうことを言われるのです、心しておきなさい」
ああいうことと言うからには、アニタ婦人の耳にも下男長の暴言は聞こえていたらしい。わかっていて、あえて言い訳をさせたということなのだろう。そこに底意地の悪さを感じるのは、助けてもらっていて失礼だろうか。
ティカの視線ではその足先しか見えないが、どうやらこちらを向いているらしいアニタ婦人に、さて何と返事したものかと悩み、とりあえず謝ってしまおうと、へこへこと頭を下げる。
「へぇ、申し訳ないこって……」
さらに頭を低くすれば、地面に擦り付けんばかり。下男長は立ち去ったが、だからと身を起こすわけにもいかず、ティカの身は、どんどんと小さく丸まってしまう。
卑劣な上役に狡猾な上役、どちらがいいのかはわからないが、どちらもティカとしては遠慮しておきたいところだ。
ティカは、アニタ婦人がじろじろと眺めている気配を感じ、何かを言おうとしてあきらめ吐いたため息を後頭部に受けた。
「お仕事は時間通りになさい」
との言葉は、つまりは休まずにいたティカへのお小言だろう。
そんじゃったら、恩赦なんちゅうわからん言葉は使わんで、分かりやすく言うてくれたらんもんか……とは思うが、ティカ以外に分からぬ者がいないのだから、間違えているのはティカなのだろう。
アニタ婦人が立ち去ると、隣からはぁとため息がこぼれて、今更ながらにいまだ見習い料理人がそこにいたことに気がついた。
目があえば苦笑いが向けられ、ばつが悪そうに反らされたのは、下男長やアニタ婦人の嫌味のせいだろうか。
「俺、バティスト・ユーグってんだ」
とばちり悪かったとティカが言うその前に、見習い料理人の方が口を開いた。
同じユーグながら、堂々と名乗るその様を、ティカは少しばかりうらやましくも思う。名目上は兄弟なんだなぁと、思わずひとごとのように思いつつ、弟と呼べば嫌がられかねぬと、その考えはぽいと捨てておいた。
「……お前さ、なんかあったら俺に言えよな、まぁ、今だって護ってなんてやれなかったし、何も言い返せもしねぇし、何もできやしねぇけど……一応、心配程度はしてやっからさ」
どうやら私は、全く力強くない味方を手に入れたようだ。