プロローグ
本当に結婚すんじゃけぇなぁと、ティカは、感慨深く祭壇を見上げた。
見上げた先には、こちらに手を差し伸べ、穏やかな微笑みを浮かべる女神様の像。右手には生命をつかさどる稲穂を、左手にはそれを摘み取る鎌を持ち、時に優しく時に冷酷に人々を導いてくださる御方だ。
だが、ティカの悩みを打ち砕く力は持ち合わせておらず、そのせいかその微笑は少し寂しそうにも見える。
その前では真っ白な祭服を着た神官が、こちらに背を向け女神への祝詞を上げている。ティカ自身も真っ白な花嫁衣装に身を包み、白に銀糸の刺繍が刺された騎士の正装を着込んだ新郎に、腕を絡めている状態。
そう、ティカはこれから結婚するのだ。
小枝みたいな体を覆うそのドレスは、手直しはしたが借り物なせいで少しぶかぶか。しかも、少々古い形といえるか、近年には見れぬほどに裾が広がっていて、貧相な体をますます貧相に見せている。ふんわりと髪を覆うヴェールは、今までティカが触れたこともないぐらい軽く柔らかく……宝石までちりばめられていては、その価値を思い恐ろしくなるほど。
今まで、何も考えずに日々暮らしてきたが、これからは、こういった恐ろしいものと対決していかなくてはならないのだと、物言わず訴えてくるよう。
今日、ティカは、結婚する……恋人であるエドガードの部下、ウォルカーの手を取って、都の外れにある小さな祈祷場で式を挙げて……。
エドガードとの結婚にはあらゆる問題があった。
筆頭としてあげられるのはその身分。ティカは城の水場の下働きである洗濯娘。彼は伯爵家の次男坊で、自身も准男爵位を持つ騎士。平民の中でも下位である娘と、貴族でもそれなりの身分を持つ青年……あまりにかけ離れた存在だ。
彼が求めていないとはいえ、ティカには持参金など出せるわけがない。下働きの賃金などスズメの涙ほどもなく、貯蓄自体もほとんどない。
さらに年齢、ティカは結婚など諦めた行き遅れの23歳で、相手は25歳……男としてはまだまだこれからの年齢である。数字だけ見ればそう隔てもないが、男女の差により隔たれるが常……だが、相手に望まれてとあれば文句も出まい。
どうしようもないのが、その言動にも出てくる生まれの悪さ。貴族に養子縁組をしたところで、ハリボテの身分では隠し切れやしない。
田舎の貧乏人生まれでは、当然のように教養がない。どころか文字も読めず、足し算も暦も理解していない。教えられても理解できぬ、その阿呆さ加減はどうしようもない。果ては方言ばりばりのその言葉、意味すら理解されず眉をひそめられるばかり。
覚えきれない礼儀作法、優美な所作どころか、ドレスを着てですらどすどすとぎこちなく歩く様に、今も苦笑が向けられている。
しかもその容姿、結婚前には栄養のあるものをたくさん食べさせられたくせ、まだまだ細すぎるほどのその体形。そこは趣味もあるのでともかくとしても、彼ほどの美丈夫が惚れるにしては、ティカの容貌は見劣りしてしまう。横に並べれば薔薇と芋がらかというほどの差があるのだ。
そして、ティカ自身が持つ永遠にも答えの出ないであろう悩みも含め……こんなにも問題があれば、結婚できない理由など充分だ。
ティカとていっぱいいっぱい考えたのだ、ない頭で必死に考えて、やっぱりこれが一番いいのだと覚悟を決めた。
ウォルカーに続き誓いの言葉を口にして、後は神官が夫婦であると宣言するだけで終わろうというその時、入り口の扉がけたたましく開いた。
「その結婚、待てっ!」
薄暗い室内に、まぶしいまでの外の明かりを伴い現れたのは……あちこち巻きつけられた包帯が痛々しく、両手両足に部下をぶら下げた、寝間着姿の麗しの騎士。今朝まで面会謝絶の満身創痍で、部下たちが必死に引き止めていたのだろうに、恋人の結婚式に乱入してきたエドガードその人であった。
どうしてこのタイミングで現れるのやら、感激よりもうあきれ返ってしまう。
「ティカ、そんなヤツと結婚するな! 愛してるんだ」
ほかの男との結婚式の真っ最中に現れた最愛の人。なんともドラマチックなこの状況に、ティカの隣でそんなヤツ呼ばわりされた新郎が、真っ先に噴き出した。
本人は大真面目なんだろうが、周りの失笑は否めない。無遠慮なまでの笑い声が響き、荘厳なパイプオルガンの演奏者までもがとちってしまっている。
そんな中で、当の本人はといえば、真っすぐティカだけを見つめていた。
「騎士様……あんたさんは、いけりゃせんが……」
あきれてものが言えぬとはこのことかと、ティカは頭を抱えたくなったのだが、ぐいっとウォルカーに腕を引かれて顔を上げた。
「いいでしょ、神官様、このまま続けちゃいましょう」
まだ笑い収まらぬまま、肩を小刻みに震わせながら、ウォルカーは軽い口調で神官を促した。そして、ティカにもウィンクを一つよこしてくる。意地悪いその意味を理解して、ティカもため息交じりに頷いた。
「は、はぁ……まぁ、そうですね……それでは、これで2人を夫婦として認め……」
神官も心得たもので、ティカたち3人を順繰りに見つめた後、柔らかな微笑みを浮かべて宣言しようとする。
「ま、待てっ! 待ってくれっ! ティカ、ティカ、ティカーッ!」
どれだけ声を張り上げようと、誰も結婚式を止めてくれぬ絶望。それどころか、味方であるはずの部下たちが、両手両足絡みついて、自分の進行を阻止してくるこの状況。必死に伸ばすその手は、ティカに届くことなど叶わず空を掻くばかり。エドガードは、それでも必死に中止を求めて叫び……ふっと気を失ってしまった。
つい先ほどまで寝込んでいたくせ、走り回ってはしゃぎ回って、興奮が過ぎたのだろう。そのまま部下たちに担ぎ上げられ行ってしまった。
ここには、事情を知る者しかいない。エドガードの奇行も笑うだけで済まされ、続きを促してくる。
まだまだひそやかな笑い声の響く中、ティカ1人が恥ずかしい思いを噛み締めながら、結婚式はつつがなく進んでいく。
まったくもって参ってしまうと、ティカはため息交じりにひとりごちた。
そもそも、この騎士様ときたら、はじめからちょっとロマンチックが過ぎた頓珍漢だったのだ。