三日月の見ているモノ。
絵描きの青年と、彼の傍らで支える僕のお話。
「僕には描くしか能がないからね」
それが、彼の口癖だった。
* * * * *
僕の毎朝の日課。
それは、寝坊すけの彼を起こしに行くこと。
朝起きたら、まずは顔を洗ってそれから彼の寝ている布団へと向かう。
そうして、彼の顔にそっと何度も口づけをして彼を起こすんだ。
そうしたら、彼はうーんと唸ってから眼を覚ましてくれる。
それから、僕は彼に朝ご飯をせがむんだ。
僕はとっても料理が下手でね。
一度やったら、キッチンをぐちゃぐちゃにしてしまったんだ。
それ以来、キッチンの物は触っちゃいけないって彼にキツく言われているんだ。
だから、僕はご飯を彼に作って貰うの。
彼の作るご飯はとっても美味しいから、僕も大満足さ。
* * * * *
彼と一緒にご飯を食べたら、その後日当たりの良い場所で日向ぼっこ。
ゴロゴロしていると、彼は隣に白いきゃんばすを持ってきて、絵の具なんかを準備し出すんだ。
僕は絵の具のちょっと鼻にくるツンとした臭いが苦手だった。
だから、僕の隣で絵の具を使い出す彼にはいつも抗議するんだ。
「やめてよ」ってね。
でも、彼の答えは決まっていつも同じ。
我慢してって。
「僕には絵を描くしか能がないからね」
だから、我慢しておくれ。
彼はそう言うんだ。
正直に言って、彼の絵はお世辞にも上手いとは言えなかった。
彼もそれは分かっていた。
「僕より上手い絵を描く人はたくさんいるし、僕より人の心に訴えかける絵を描ける人もたくさんいるよ。僕は下手くそな絵しか描けないけれど、でもーー、それでも僕は絵を描き続けなきゃいけないんだ」
僕にはちょっと言っていることが、よく分からなかったけれど、いつも黙って頷いた。
「僕は、下手くそだけど、絵を描くしか能がないからねーー」
そう言う彼の横顔は少し、寂しげだった。
僕は彼のことが大好きだったから、絵の具のツンとした臭いも我慢した。
毎回、抗議するのはちょっとした僕の抵抗だよ。
彼は大好きだけど、絵の具は嫌いだからね。
彼は白いきゃんばすに、色々なものを描いた。
それは、見たこともないような景色だったり、とても綺麗な人の顔だったり、凄く美味しそうな料理だったりした。
たまに、彼は僕の絵も描いてくれた。
けれど、それはとってもヘンテコリンだった。
歪で、僕には似ても似つかなかったけれど、僕はとっても上手だね、って褒めてあげた。
そのあとに、僕は顔を歪ませて絵に近づいてあげるんだ。
すると、彼は僕の大好きな笑顔で優しく頭を撫でてくれるの。
彼の笑顔も、大きな手も、その手が作る美味しいご飯も、皆、皆、大好き。
絵の具は嫌いだけど、彼の描く絵は好きだった。
下手っぴな絵だったけど、僕は大好きなんだ。
* * * * *
お昼は食べたり、食べなかったり。
彼は絵を描いていると、ご飯も寝ることも忘れてしまう。
僕も、お昼は我慢する。
彼は決して裕福じゃなかったからね。
彼の描く絵は、安い値段で買われていたのは僕も知ってるよ。
彼は隠していたけれどね。
だから、たまにご飯が缶詰めだったとしても、僕は文句を言ったりしないよ。
ご飯だって我慢する。
でも、君に倒れられたら困るから、夜ご飯の時間はちゃんと教えてあげるんだ。
「ねぇねぇ、そろそろ夜ご飯の時間だよ」
そう言って、そっと彼に触れる。
それだけで、彼は僕の存在にちゃんと気付いてくれる。
彼はその後、笑ってご飯を作ってくれる。
とっても美味しいご飯をね。
ちょっと余裕のある時は、お酒も彼は呑んだ。
僕は苦くて嫌いだから、牛乳で乾杯してあげるんだ。
酔った彼は饒舌で、普段は話さないこともたくさん話した。
色々な話をしたら、彼は必ず最後に絵の話をした。
僕にだけ、他の誰にも話さない絵の話をした。
その時に決まって言うことは一つ。
「僕には絵を描くしか能がないからね」
笑う彼は楽しそうなのに、どこか悲しそう。
「……いつまで、描けるかな」
ポツリと、呟かれた言葉に僕は聞こえないふりをした。
* * * * *
彼はたまに、極たまに女の人を家に連れてきた。
そういう時、僕は黙ってこっそりと家を出た。
僕って気が利くだろ?
夜の街をふらふらと徘徊して、夜明けを待つんだ。
朝になって、女の人が帰ったのを確認してから僕は家に帰るんだ。
すると、彼は僕の頭を優しく撫でてくれるの。
彼は女の人と一緒にいて、楽しかったはずなのに、何でかいつも寂しそうだった。
女の人が帰っちゃったからなのかな?
だったら、一緒に住めばいいのに。
僕はそう思うけれど、女の人にも事情があるだろうし、これ以上彼を悲しませたくなかったから何も言わずに彼の手に甘えた。
そうすることで、彼がいつもみたいに笑ってくれるから。
* * * * *
ある日いつもみたいに彼を起こしに行ったら、彼は起きていた。
椅子に座った彼の目の前には、白いきゃんばす。
手には絵筆が握られていたけれど、彼は何も描いていなかった。
僕がどうしたの? って聞いてみても彼はずっと白いきゃんばすを見つめていた。
しばらくしてから、ようやく彼は一言ポツリと呟いた。
「……描けないんだ」
一瞬、何て言ったのか分からなかった。
描けないって、どういうことだろう?
「……描くしか能がないのに、描けない」
そう言う彼の目から、涙が一筋溢れ落ちた。
僕はびっくりして、何か言わなきゃって言葉を探したけれど、何て言えばいいのか分からなかった。
数少ない僕の言葉で、何て君を慰めたらいいのか、励ましたらいいのか、分からなかった。
「……描けない僕に、生きてる意味なんてあるのかな」
その言葉に、何故だかゾッとした。
彼の目は、虚ろでどこか遠くを見ているようで、どこも見ていないようだった。
「ねぇ、頭を撫でて」
そう言って、足元にすり寄ってみたけど。
彼はちっとも僕のことを見てくれなかったーー。
「ねぇ」
「ねぇ……」
「ねぇーー」
こっちを向いてーー。
* * * * *
それから、何度も彼は絵筆と絵の具を使って、いつもみたいに絵を描こうとしていたけど、きゃんばすは白いままだった。
いつまで経っても、きゃんばすは白いままだった。
彼は僕の頭を優しく撫でてくれない。
美味しいご飯も作ってくれない。
僕の大好きな笑顔で、笑ってくれない。
きゃんばすはいつまでも、白いままーー。
* * * * *
ある日、
彼の部屋に入ると、きゃんばすに赤と黒の絵の具がついているのが見えた。
僕には、それが何の絵か分からなかった。
けれど、それは何も不思議なことじゃなかったから、特に気にしてなかった。
彼の絵は下手くそで、何を描いているのか分からないことなんて、しょっちゅうだったから。
でも、肝心な彼の姿が見当たらない。
どこにいるのーー?
辺りを見回すと彼は椅子の下に寝転がっていた。
周りには、赤い絵の具が散らばって床を汚していた。
こんなに、汚して仕方ないなぁ。
そんなことを思いながら、僕はとても安心していた。
良かった。
また、描けるようになったんだね。
これで、また前の彼に戻ってくれる。
そう思ってた。
「ねぇ、起きて起きて」
彼の顔をつつく。
でも、彼は起きない。
「ねぇ、起きてよ。ご飯食べたいよ」
そう、おねだりして口づけをしてみたけど、彼は起きてくれない。
体がちょっと冷たかった。
「ねぇ、起きてよ」
「ねぇ」
「……起きて」
「ねぇーー」
* * * * *
金色の瞳が綺麗だね。
目を細めたら、まるで三日月みたいだ。
体も黒いから、夜空に浮かんだ三日月だ。
君はそう言って僕の絵を描いてくれたね。
大きな温かい手で僕の頭を撫でてくれたね。
美味しいご飯は作ってくれたね。
もう、君は僕の絵を描いてくれない。
僕の頭を撫でてくれないし、美味しいご飯も作ってくれない。
暗くて冷たい路地裏に、捨てられた僕を拾ってくれた優しい君は、僕を置いて冷たくなってた。
僕はまたひとりぼっちーー。
赤い絵の具は、黒く変色して床にこびりついていた。
僕の心にも冷たい何かがこびりついていた。
悲しくて泣きたかったけれど、慰めてくれる手がなかったから、僕は涙を堪えたよ。
それから僕はそっと、家を出た。
夜の街をあてもなく、ふらふらと歩く。
さようなら、大好きな人ーー。
太陽が登って、夜が明けても僕にはもう帰る家がないーー。
解釈はご自由にどうぞ。